2013年12月16日月曜日

いい授業ってなんだろう??

 「いい授業ってなんだろう??」そう今も考え続けさせられる、忘れられない体験がある。

 その時勤務していた学校(在外の日本語補習学校)で、研究授業があった。その日は、E先生の5年生の国語の授業。E先生はいつも熱心に授業準備をされていて、時折、図書室で作業している子どもたちを見ると、とても楽しそうだった。どんな授業をなさるのかなと楽しみにしていた。
 他校からも教員を招いての研究授業だったので、教室の中は大人がいっぱい。他の先生も、校長先生も、知らない大人もいる。子どもたちもいつもとは違う雰囲気にすっかり緊張している様子だった。そして授業は…たぶんいつもなら子どもたちから声があがるのだろうが、その日はすっかりシーン。E先生もやりにくいのではと参観しながら思っていた。事前に配られていた教案の5分の1も進まずにその時の授業は終わってしまった。
 職員室に帰ってきて、校長先生がぽそっと一言。
 「しゃあないな。こういう日もあるさ。」
その日の授業は、簡単に言えばちょっと失敗に見えた。子どもたちから発言がないので、授業の進みは遅く、冗長、教員の発言ばかりが多かった。たぶん、参観した大方の教員がそう思ったのではないか、と思う。いつもなら、もっと面白く活気がある授業をE先生はしているのだと思う。今日は、あまりにもいつもと条件が違いすぎた。E先生、気の毒だなと私は思っていた。校長先生の一言もそんな感じだった。
 その後は自分の授業があるので、教室に行った。
 授業を終えて職員室に戻ってきたら、校長先生が言った。
 「A君のお母さんから、さっき電話があってな。」
 A君は、さきほどの研究授業のクラスに在籍している男の子。日本語が得意ではなく、やんちゃで、いつも同じクラスの男の子とふざけている、という印象の子だった。
 「A君が、今日の授業はよくわかった。面白かった。そう言って、初めて自分から国語の教科書を出して音読を始めた。読みながら泣いていた。そうお母さんが言って、喜んでおられた。」
その後、またぽそっと一言。
「わからんもんやな、授業は。面白いな。」
私もへえーとびっくりした。5年生のクラスは20名ほど。そして、その大部分の子どもたちにとって、今日の授業はいつもよりいまひとつの印象だったのではないかと思う。少なくとも、周りで見ていた教員たちにはそう見えた。でも、A君にとっては違った。今までで、たぶん幼児部から学んできた5年間の中で最高の授業だったのではないだろうか。そしてもしかすると、そんなに心を動かされる授業は、その後も残念ながらないかもしれない。いつも通りの授業であれば、少なくとも他の20名の子どもたちにとってそれなりに面白い授業。今日の授業は、他の20名にとってはあまり面白くないが、A君にとっては何年間もの学習生活の中で最高の授業。どちらがいい授業かなんてたぶん誰にもわからない。というより、そんな問いをたてることが間違っているのかもしれない。

 いい授業ってなんだろう。そう考える時にこの日のことをいつも思い出してしまう。

2013年8月11日日曜日

狂言をベースにした日本語劇

 たまにブログのトラフィックを見るのだが、「狂言 盆山」の検索ワードからこのブログに着く人が時々いる。ずーっと前に書いた、それも公開する前に自分のメモ代わりとして書いた記事(狂言「盆山」)にたどりつくので、見た人はなんかわけのわからない記事だなと思われることだろう。それはそれでブログ記事なんてそんなものなのだからしょうがないと思うのだが、そんなことやってたなと以前の自分を思い出したので、前にやっていたことをすっかり忘れてしまわないうちに書いておく。
 10分ぐらいの短い日本語劇をやってほしい
英語専攻の学生は4年次に卒業公演で英語劇を行う。その公演の前振りに日本語劇をしてほしいというものだった。日本語劇をするのは、日本語を第二外国語として学んでいるその学科の3年生。結論から言うと、狂言を元に私が脚本を書き、それを演じてもらった。以前務めた学校での最後3年間、毎年行なっていた。

 題材を狂言にするまでに考えたこと。
1.10分前後でまとまったストーリーになっているもの。
2.セリフが簡単であるもの。

 演じる学生にも見てくれる人にも、笑いの要素があるものがいいだろうとそれまでの経験から考えた。大人の学生であっても、日本の映画で何を見ようかを尋ねるとコメディがいいという。ある人に言われたのは「どうして日本のドラマはどれを見ても説教的な要素があるんですか」だった。言われて確かにと思う。息抜きに見ているのに説教されなくてもなあと私も今は思う。
 ただ、アメリカのコメディドラマを見てバックの笑い声を聞きながら「何がおかしいのだろう??」と感じることがあるように「笑い」は実は難しい。うけるものとうけないものがあるのはわかる。全部うけるわけではないが、うけるものもあるだろうから、そういうものを選べばいい。
 更に、求められていたものは「日本的な」もの。見てひと目で日本っぽいとわかるような、できる範囲で言えば、着物と言わなくても浴衣を来てそれっぽく見えたほうがいい。だから現代劇という選択肢はなかった。
 「昔話みたいなのでいいから」と言われた。例えば、桃太郎は台湾でもよく知られている。でも、やはり大学生なのだから子どもが読むような物語は避けたかった。大学生が公演で「昔話をやります」と言ったら、私だったら少し子どもっぽい感じがして恥ずかしい。大人でも十分楽しめるかもしれないしやりかた次第かもしれないが、逆にそのやり方はかなりの技巧が必要だ。日本語があまりできないのだから内容もそれなりに…というのではなく、一応、大学生が堂々と周りの人に「これを公演するんだ!」と言えるものにしたかった。
 ということで考えたのが、「狂言」だった。まず狂言は笑い話である。さらに、一つのストーリーが短く完結している。それに日本の伝統芸能だから、「日本的なもの」という要求は十分過ぎるほど満たしている。現代語にアレンジするにせよ、一応伝統芸能。「日本の狂言を公演したんですよ。まあ、セリフは現代語ですけど」ぐらいだったら、大学生として許せる範囲なのではないか。
 狂言のセリフは、繰り返しが多い。すぐ前の人が言ったセリフを次の人がそれを受けてほぼ同じことを言う。同じセリフが何度も出てくると学生にとっては覚えやすい。
 狂言は演じる人数が二人か三人なので、それでは参加する学生があまりにも少ない。そこで出る人を水増しし、10人ぐらいは参加できるようにした。
 最初に選んだのは「附子」。実は以前の仕事で入手した小学校国語教科書に「附子」の現代語版があった。主人が留守をするときに、毒だから絶対食べるなと言ったが、実は砂糖で…というあの話だ。話としてとてもポピュラーだし(小学校の教科書にのるくらいだから)、何より現代語が手元にあったのでこれを選んだ。
 二年目が前に書いた「盆山」。これはYouYubeに日本のお笑い番組が狂言を演じたものがあったのでそれを元にした。三年目は「仁王」。子ども向けの本から現代語版を入手し、それを元にした。
 狂言は言葉遊びの面白さを基本にしているものも多くあるが、それは笑いとして伝わらないので、私が選んだ三作はどれもストーリーに笑いがあるものだ。全体の面白さは伝わる。学生も笑いの要素がわかるのでそれを元に演じていた。ただ、どれも終わり方がなんとなく「終わり」という感じがしないようで、そこは、学生が勝手にアレンジを加えていた。観客向けに中国語の字幕も用意した。二年目、三年目は「今年何やるの?」と三年生に楽しみにしてくれていた学生もいた。
 私は元々演劇好きなので、この仕事は苦労もあったが、楽しかった。狂言は、手軽な公演のネタとしておすすめである。  

2013年8月4日日曜日

職場での相手の呼び方【中国語】

 以前「相手の呼び方」の記事で、台湾の学生が知り合ってから友だちのことをどう呼ぶか、呼び方がどう変化するか、を書いた。その時から職場ではどう呼ぶのだろう?と気になっていた。私は大学で仕事をしているので、基本的に「姓+老師」「名前+老師」か、「役職名」「姓+役職名」である。でも普通の職場では役職はあるけれど、「老師」に代わるものはないから、なんて呼ぶのか興味があったのだ。
 きのう、卒業生のWさんに会ったので、気になっていた呼び方を聞いてみた。結果、いたってシンプルで
名前(呼び捨て)
ということだった。この呼び捨て、日本の呼び捨ての感覚とは本当に違う。名前というのは、姓名の名のほうだ。姓名フルネームでいうと、また感覚は違う。
また、役職がある人には
「名前+役職」
この「名前」も姓名の名のほう。私がいた大学では「姓+役職」か「フルネーム+役職」で、「名前+役職」は聞いたことがなかった。学校と会社との違いだろうか。
 その他、北部では驚いたことに
英語名
が基本らしい。台湾人がみんな英語の名前があるわけではないが、たぶん、職場で言われて適当に考える人も多いのだろう。ちなみにWさんも英語名で呼ばれているそうだ。「英語名で」というのは、中国語の名前だと外国人が言い難いかららしい。Wさんが勤めている会社には日本人スタッフもいて、彼女は通訳として仕事をしているので、彼女のことはみんな英語名で呼ぶのだそうだ。
 そう言えば、学生にも「アルバイト先ではどう呼ぶの?」と聞いたら「英語名」と答えた学生がいた。ずっと昔の大学時代、友人がイタリアンレストランでアルバイトをしていて、「☓☓ペルファボーレ」みたいにイタリア語を使わされる、というのを聞いたことがあったので、アルバイト先の「英語名」もそんな感じなのかなあと思っていた。
 でも、今回聞いたところでは、そんなコジャレた感じをねらっているのではなさそうだ。まあWさんの知っている範囲なので、全部が全部というわけではないのだろうが、「英語名」を使うのがかなり一般的ではあるのだろう。
 また、「名前+哥」「名前+姐」という言い方もある。「哥」はお兄さん、「姐」はお姉さんの意味で、年上の男性には「名前+哥」、女性には「名前+姐」ということもある。ただし、言葉のお兄さん、お姉さんとは実は違い、かなり年上の、言い換えればおじさま、おばさま方に使うようだ。Wさんがある人を「○○哥」と呼んだら「そんなに年違わないよ」と言われたので、それ以来その人は普通に名前で呼んでいると言っていた。自分のお母さんぐらいの年齢の人は○○姐と呼んでいる。

 この呼び捨て、私は心理的にどうしても抵抗があって、なかなかできない。私は学校で呼び捨てにされたことがなく、見かけた範囲でも部活の指導の先生が呼び捨てにしていることはあっても、授業では基本は「○○さん」と呼ぶところにいたので、慣れていないことも一因だと思う。Wさんに
そうですね。先生にとって、K先生を「☓☓(名前)」って呼び捨てで呼ぶのは難しいですよね。
と笑われた。難しいを通り越して、信じられない!想像できない世界!私は、自分より年上の人はもちろん、学生を呼び捨てにするのもすごく抵抗がある。なんかえらそうな、態度が横柄な、権威主義的な教師、みたいなイメージに思えてしょうがないのだ。でも、感覚が違うのだから、慣れないとなあとも思う。以前学生に中国語を教えてもらっていたとき、
 メールの名前はどうかけばいいの?「名前+同學」?
と聞いたら、
 えー、同學はやめてください。名前だけにしてください。
と言われた。
 もう一つ、これも普段気になっていたあること。事務室の助手の人からメールをもらって返信する時、私はどうしても「名前+助理」と、名前の後ろに役職をつけてしまうのだが、「これってどうなの?」とWさんに聞いたら、
なんか遠い感じですね。呼び捨てにされたほうが相手はうれしいと思いますよ。
とのことだった。呼び捨ての心理的壁を乗り越えないと…。簡単そうなのだが、難しい。ふう。

2013年7月28日日曜日

クラス観

 「クラス観」という言葉を初めて知った。ブログ【英語教育にもの申す】の「先生の成長4」の記事にあった。
指導案を書くときに、「クラス観」があります。そのクラスはどのようなクラスだとあなたは理解していますか、ということを書く欄です。教えるべき対象をどのように見るかは教師にとって大切だということです。これと同じように、私は教師にとって必要なもうひとつのことは、適切な人間観だと思います。
 私は一応中高の教員免許を持っていて、教育実習やその後仕事をしていた時にも指導案を読んだことはあったのだが、今まで見たことがなかったように思う。でもよく考えれば、このクラス観は誰でも持つものだ。自分の担当するクラスにどういう学生たちがいて、クラスの雰囲気はどんな感じで、どんなクラス活動や練習形態を好むか、頭の中にある「クラス観」に基づいて日々授業計画を練っている。
 人が集まったある集団なら何でもそうだと思うが、その集団の持つ雰囲気はその集団メンバーの振る舞いに大きく影響する。学校や教室で学ぶ/教えることのある種の面白さはそこにある。私が知っている台湾の大学では、高校のように各自が所属するクラスや担任がある。元からあるクラスを単位として授業をする場合、最初はどんなクラスかなと観察したり、他の先生から話を聞いたりする。クラスの中の仲のいい子たちのグループで、仲間割れ等の移動があったりすると、授業だけで接していても結構わかる。そして、それが学生の学習に影響することもよく見ることだ。ライバルと思う学生がいたり、「できる」と思われている学生がいたり、そういうことは、うまく働くこともあれば、人間関係が面倒になってしまうこともあるので、なんとなく心にとめておくようにしている。
 逆に、私が今担当している第二外国語の授業は、まったくの選択性なので、学生同士も初めて顔をあわせるクラスだ。元のクラスの友だちといっしょに受講する学生ももちろんいるが、ほとんどが知らない学生の集まりだ。それでも何回か授業をしていくと、そのクラスの雰囲気というのができあがる。そうするとやはりそのクラスの「クラス観」が私の中にできあがり、それに合わせて授業の計画をある程度たてることになる。その第二外国語の授業は一学期制なので、毎学期メンバーが変わるのだが、前の学期に受講した学生が次の学期も受講するということもよくある。でも、その学生が前の学期と同じかというとそうでもない。まわりのメンバーが変われば、その学生たちも変わるのだ。
 そういうことを何度も経験していくと、教室というか集団というものの面白さ、怖さ、そのなんとも言えない力?を感じずにはいられない。
 「クラス観」を持たないと目の前の学生を見た授業ができないが、ただ、あまり「クラス観」が固定されてしまうとそれも思い込みになってしまってよくない。自分の「クラス観」を更新し続けていく必要がある。指導案に「クラス観」を書く意味は、今思っている自分の中のクラスに対する考えを頭のなかから出して距離をおいて眺める意味もあるのだろう。今まであまり書きだしてみることはなかったが、やってみるのもいいかもしれない。

2013年7月27日土曜日

頼まれた時のNOの言い方【中国語】

 私の個人的な経験からそうじゃないかなあ、と思っていること。いやいや違うでしょ、という説明があったら聞きたい。簡単に言うと、無理なことを頼まれた時に、日本ではその場でNOという。台湾の状況ではとりあえずYESと言っておき、後でできないという。そんな感じだ。
 何かを頼まれた時に、「えー無理、無理」と思うことがあった。一度ならず、よくあった。私の日本語的な感覚だと、頼まれて「はい」と受諾したら、精一杯頼まれたことを達成しようとする。「難しいですがやってみます」的な状況でも同じ。「難しいですがやってみます」でOKした時に、もしできそうもなかったら早めにそのことを相手に伝える。「いやいやどう考えても無理でしょう」と言う時には、理由を説明し、頼まれたことにNOと言い、頼まれごとを受諾しない。
 この感覚が、仕事で中国語を使っている場合、なんか違う。今までの経験では、「えー無理」と思って事情を説明しても相手は納得してくれず、しょうがなく「難しいと思いますよ」と言って承諾し、後で「できませんでした」と言うと、あっさりと「しょうがないね」と言われる。こっちとしては、だから難しいって理由も説明したのに…、あっさりしょうがないというぐらいなら、最初にあんなに頼むな!と言いたくなる。
 ある時は「はあ?」と思うようなことを会議で上司から指示を受け、周りの同僚はその時には何も反対しなかったので、「じゃあ、やるしかないのか」とこちらは覚悟を決め、それこそ徹夜して仕事を仕上げた。でも蓋をあけてみると他の同僚は誰もやっていない。上司は「みんなが難しいというから」と指示内容を緩和し、「でもY-LABOさんはやってくれたから、これはこれで…」私の徹夜はなんだったのか…、と脱力。
 こういう経験を何度も繰り返し、とりあえずYESと言っておくのが相手に対する敬意なのではないかと考えるようになった。頼まれたことにYESと言って「あなたの気持ちを受け取りました」ということを表現する。その場でNOと言ってしまったら、相手の気持を理解しないことになるのではないか。だから、できるできないに関わらず、頼みごとにはとりあえずYESという。やるやらない、できるできないはその後の話だ。
 と考えると逆も同じ。何か頼みごとをして相手がYESと言ったからといって、必ずそれをしてくれるとは限らないということだ。相手のYESは「やりますよ」のYESではなく、「あなたの気持ちはわかりました」のYESだからだ。
 以前、日本の学生との交流活動の時のことだ。日程の最初は台北で過ごすことになっていて、それは日本側が旅行社に頼んでバスや台北でのルートなどを計画し、台湾側はそれに参加するという形式になっていた。。日本側の計画は、時間的にとても無理ではないかと思えたのでその旨伝えたが、「旅行社に話したらOKと言われましたから」と言われたのでそれ以上は何も言わなかった。でも、内心「これ、当日できませんって言われるパターンじゃないかな」と思っていたら、案の定そうだった。行程表に書かれていたようにはできないので「○○と☓☓にだけ行きます」と、当日旅行社の手配したガイドから告げられた。日本側の責任者は「OKと言ったのに…。当日、日程を変更するなんて…」とちょっと不満顔。「こういうこと、よくあるんですよ。まあこれも異文化体験ということで…」となだめることになった。
 台北でどこに行くかは大したことではないのでまだいいが、これが仕事に関わることだったら大変だろう。やると言われたことをあてにし、それに関わるその他の仕事を組んでいたら大元ができない。その他の仕事の計画も狂ってしまう。どこかで聞いたことがあるような、台湾での仕事の不満の原因はここにあるのではないかと思う。
 頭で理解しても、行動がともなうかというとそれはまた別問題だ。断ったあとになって「あ、一応OKって言っとけばよかった」と思ったことが、これまで何度もある。そうは言っても、理解していないよりはいいのだと思う。不満やストレスが少なくなるし、何回かに一回は行動も伴うようになってくる。
 頼まれたら、最初に断らない。最初に断ったらどんな断り方でも「むげに断った」ことになる。相手にOKと言われても「ああよかった」と安心せず、途中で様子をうかがってみる。私の心のなかにある頼まれごとの対処法だ。

2013年7月24日水曜日

日本に行けば日本語ができるようになる-ではない

 しごく当たり前のことで改めて言うことでもないかもしれないとも思うが。
 最近、Facebookに写真をアップしないようにしてるんだ
先日、日本にワーキングホリデーで滞在している卒業生と話をした。その学生の言葉。写真をアップすると、みんなから「いいなあ」と羨ましがるコメントが入る。また、その学生曰く、Facebookの投稿は自慢ととられることも多い。日常生活でいいなと思ったものを写真に収めアップしているだけなのに…。日本での生活は楽しいばかりではない。辛いことも多い。でも、友だちにはそんな苦労は伝わらず、いいなあ、日本にいれば日本語上手になるよね、と思われる。そんなことが積み重なり、モヤモヤした気持ちがたまったのだろう。なんかわかる気がした。
 日本にいれば日本語上手になる。そう思っている人は多い。そんなことはない、というのも結構知られていることだけれど、でも、「日本に行けば…」と思っている人もまだまだ多い。台湾の学生でも「こんなところで勉強しているより日本に行ったほうが早い」と言う学生もいる。そういう学生で、勉強に身が入らない人には必ず言う「台湾にいて日本語がすごく上手になる人もいる。日本に行ってもちっとも上手にならない人もいる。全て自分のがんばり次第。ここで頑張れない人は日本に行っても頑張れないことが多いよ。」
 先の卒業生曰く、「ワーキングホリデーで大阪を拠点としている人は、台湾人ばかりでつるんでいる」。語学留学した日本人が日本人ばかりで固まっていて何をしに留学に来たのか、という批判を思い出す。海外生活で同郷の友人は、情報を得る上でも、心理的なよりどころにするのでも、大事だ。しかし、その友人たちだけで生活してしまうと、自分の生活圏は広がらない。バランスを取るのが難しい。
 日本に留学したのに上手になったのは英語、というのもよく聞く話だ。日本語学校や留学生センターが生活の中心になると、そこで出会うのは外国人ばかり。日本人コミュニティとの接点を作るのは努力がいる。
 大学の授業を取ったとしても、そこで友だちを作るのはこれまた簡単ではない。「トイレでお弁当を食べる」が話題になったこともあるが、大学で友だちを作るのは、日本語の問題だけでなく容易ではないのだろう。「日本人は知り合いになるのは簡単だけれど、友だちになるのは難しい」となんとなく壁を感じたという学生の話もよく聞くことだ。
 コンビニでバイトしても最初のうちは目新しく感じるがそのうち、毎日が同じことの繰り返し。話すことも同じことばかりで自分の進歩が感じられない。レストランのバイトでも多少の違いはあれ、同じだろう。単調な仕事では、単調な言語使用の生活しかない。
 
 とにもかくにも、言葉を使う環境は自分で整えていかなければならない。ふくらみのある生活や仕事があってこそ、言語を使う機会も得られるし、進歩も感じられる。そのためには、それ相応の努力と忍耐が必要なのだ。
苦労してるんだね。ここに来るまで全然わからなかった。
台湾から遊びに来た友だちに言われた言葉だとその卒業生が語った。心に沁みる一言だったに違いない。アルバイト先が見つからなくて日本に来たのは失敗だったかもと思ったことがある。ようやく見つけたレストランのアルバイトは、一歩前進だったけれども物足りなさもあったのだろう。そしてこの間会った時には、ある会社で働いていると言っていた。話を聞いていると、同じ職場の人たちのいろんな裏話を知っていて、聞いていて面白かった。と同時に、頑張って人との関係を築いているのだなと感心した。
ちょっと考えれば、そんな簡単じゃないってすぐわかるのに。
この話題をしている間、ずっと悔しそうな表情をしていた。そうだね。ちょっと考えればわかるかも。でも、あまり考えないで言ってしまうのだ。「日本に行ったから日本語できるようになったんだね」って。だから根気よく周りに伝えていきたい。そして、自分だってちょっと考えればわかることをあまり考えもせず口にして、人をモヤモヤさせてしまっているはず。そんなことにも思いを馳せていきたい。

2013年7月23日火曜日

変わるきっかけ -いつどのように始めたか-

 先学期末のある大学での会話のテストのこと。会話テストは、いつも私と1対1で行なっているが、驚くほど前回までとパフォーマンスが違う学生が数人いた。聞くと、その誰もが、言語交換を始めたと言う。ほー、言語交換の威力はこうもあるのか、と最初は単純に思った。
 この学生たちは2年生で、今回伸びたなと感じた学生は、前はどちらかと言うと話すことが不得意だった学生だ。日本語を話す時は、なにかいつも自分の前にベールが一枚ある感じ。壁を作っているというほどではないが、どこかひいた感じで話していた。それが、テストという一応緊張する状況にもかかわらず、話す姿勢は前と全く違い前のめり。ベールがあるどころか、前へ前へと突き進んでいくように見えた。

 今回、言語交換を始めたという学生の一人に「もっと早く始めればよかったのに…」と言うと
前は自信がなかったから…
と言う答えが返ってきた。
 さらにこの言語交換について聞いてみると、学科の中のある活動がきっかけだということがわかった。その活動は大学院生が授業の一貫として始めたもので、私の理解している趣旨は「授業以外で楽しく日本語を使いながら勉強しようね」というものだ。その大学院生の指導の先生から頼まれ、その活動について授業の時に宣伝をしたものだった。今回伸びたなあと感じた学生たちは、その活動に参加し、その活動を通して出会った人と言語交換を始めたそうだ。

 なるほどね、そうなんだよね、と思った。

 ぐんと伸びたのは「言語交換を始めたから」と思える。確かにそうなのだけれども、「いつ、どのように始めたか」というのが大きく影響しているのではないか、と思う。この大学は日本人留学生も多く、言語交換を既に始めている学生は実は多い。1年生の授業でも、留学生とつながっていこうという取り組みはいくつかしているし、2年生の授業の中でもいくつか行なっている。授業以外にも学科の活動で実践場面はいくつも作られている。言語交換をしたいというだけなら、相手にはわりと困らない環境だ。でも、前は言語交換をしなかった。
 「自信がなかった」でも、たぶん、周りを見ていてあせりも感じていたのだろう。そこへ参加しやすそうな活動の案内があった。勇気を出してか、いやだったらやめればいいやという軽い気持ちでかわからないが、参加してみた。そこで楽しく過ごすことができ、出会いがあり、その流れで言語交換を始めた。今回は自分で一歩を踏み出してみたことが大きかったのではないかと思う。
 つまらないたとえかもしれないが、お見合いではなく偶然を装って二人を引き合わせる…というのとなんとなく似ているなと思った。誰とつきあうかは相手次第、相手がどんな人かが一番大事。でも、どう出会うかが、なんとなく影響してくる。形式的な、会うことが必然的な状況で会うよりも、自分の自然な流れの中で会うほうが、気持ちが前に向きやすい。
 言語交換も同じ。機会はある。でも、教師がお膳立てしたことと、ある程度自主性があるものとでは違う。それがその後の発展に大きく関わる。
 もちろん、お見合いが安心する人もいる。お見合いが嫌いな人は、何度もお見合いをすすめられたからこそ人との出会いを考え、自然な出会いに関わろうとするのかもしれない。自分にできることをやっていくしかない。

2013年6月10日月曜日

【本】ヒーローを待っていても世界は変わらない

ヒーローを待っていても世界は変わらない
ヒーローを待っていても世界は変わらない湯浅 誠


本屋で手にし、「はじめに」のところで
本書は、民主主義についての本である。
と書いてあるのを見て買った。最近、「民主主義」がどうも気になってしょうがなかった。「民主主義」が気になったことはとりあえずさておいて、本書の感想。
 今まで考えたこともなく、本書を読んでなるほどと思ったのが民間と行政の違い。湯浅氏は内閣府参与になって政策づくりに携わった。その経験から民間の活動と行政の違いを次のように説明している。
民間の活動というのは、賛同者だけで運営し、趣旨に反対の人たちは関係がない。没交渉です。だから、内容的には濃く、やりたいことをやりたいようにできる。ただし、趣旨に賛同した数十人、数百人でやることですから、それで日本全国をカバーすることはできません。「内容は濃いが範囲は狭い」、これが民間の活動の特徴です。
一方、行政の場合について、本書に書いてあることをまとめると
「税金を使う」から「趣旨に反対する人のお金も使う」ことになる。したがって、政策を形作るには合意を取り付けなければならない。強い賛同がなくても、強硬な反対のないくらいの合意をつくる努力をしなければならないし、反対意見にも配慮していかないといけない。その結果、調整を重ねると、妥協の度合いが増えて内容は薄まっていく。その代わりにカバーできる範囲は広い。「薄く広く」が行政の特徴。
この後「誰が反対意見と調整するのか」という文が傍点つきで出てくる。この「反対意見との調整」が民主主義のポイントだと本書は言っているように読めた。

 話は少し横道にそれるが、私は若い頃「民主主義は多数決だ」と言われ、なんと言っていいかわからなかったことがある。何について話していたのか、もう遠いことなので忘れてしまったが、その時のこの言われたことの意味は「日本は民主主義の国だ。民主主義とは多数決で決めることだ。だから、多数派に従わなければならない」そんな内容だったように思う。確かに、国会も多数決で決めるし、学校でも多数決で決めるし…でも、何か違うような気がしていた。
 いきなり多数決で決めるわけではない、話し合いをして意見交換をしてから多数決で決めるのだ、だから多数派の意見のみで決めるわけではない、とも言えるが、でもそれって、結局は多数決なのではないか、と思う。以前「みんなで意見を交換しました、みんなそれぞれ違う意見があることがわかりました、違う意見も尊重しなければいけません、以上」という議論から脱却できないという話を聞いたことがある。意見交換しても、誰も何も変わらない、違う意見があることがわかったといっても、そんなことある程度は、想定済み。議論したからといって何がどうなんだ。そんな感じだ。単なる議論の場合は、それでも済むのかもしれないが、何かを決める時に、同じようなことが起こったらどうか。結局、最初と変わらない。意見交換をしてもそれは、形式だけのものになってしまう。意見交換はするはするけどね、でも結局は多数決だよ、という声に違和感を感じても、反論はできなかった。

 「反対意見との調整」、この言い方は非常に納得が言った。意見交換でもなく、話し合いでもなく、「反対意見との調整」。その結果は妥協という、あまりいいイメージではない言葉で表されるが、ようはそうなのだ。
 「民間なら」とか「民間の手法で」とよく言われるが、それを不適切なところで応用すると、「反対意見の調整」をしないで、時の政治家の好きなようにそれに賛同する人だけですることになる。それは、反対意見側を全く無視したやり方だ。自分が賛同する側ならいいが、反対する側だったら横暴だと思うのではないだろうか。 
「強いリーダーシップ」待望論、決断できる政治への期待感は、一言で言うと利害調整の拒否という心性を表している。
自分たちは要求はする、しかし調整はしないという態度は、結局「誰かが調整してくれ。ただし、自分の要求を通すように」と言っていることと変わりません。しかしそれは、正反対からも同じように要求している人がいる以上は、実際問題としては不可能です。
最近、選挙のたびに、「強いリーダーシップを発揮できる人がいい」という街の声を拾った報道を目にするように思う。独裁的なものをなぜ望むのだろうと不思議だった。強いリーダーシップと独裁とは違うと言うかもしれない。でもどこが違うのかわからなかったが、これで納得した。「誰かが調整してくれ。ただし、自分の要求を通すように」、その通りなのだと思う。
 何か意見や希望を聞いて「なんでもいい」という人の言葉を私は8割ぐらい信用していない。中には本当に「なんでもいい」と思っている人もいるのだが、そうではない人は実に多い。「何が食べたい?」「なんでもいい」「じゃあ、○○は?」「えー、それはちょっと。」というよくある会話である。強いリーダーシップを望むことは、「とにかく何でもいいから決めて下さい」という考えだが、この「なんでもいい」も本当は何でもよくはない、「私の希望の範囲内でなら」なんでもいいだし、もっと言ってしまえば「私が喜ぶようなものを何か」という希望なのだ。
民主主義というのは、まず何よりも、おそろしく面倒くさくて、うんざりするシステムだということを、みんなが認識する必要があると思います。「民主主義がすばらしい」なんて、とてもじゃないが、軽々しくは言えません。
「反対意見との調整」をきちんと自分も参加してする。何年かかっても何も決まらない、と少し面倒に思っていたことがあったのだが、そういう自分の姿勢はよくないと反省した。特に緊急なことではない限り、反対意見との調整をしていく。まずは身近なところからだ。



2013年5月6日月曜日

台湾第四原発の周辺

 自救会の会長さんにお話を伺った後(「台湾の第四原発-自救会の会長さんのお話」)、実際に原発周辺に行ってみた。
 原発敷地内の見学もできるのだが、会長さんが原発の人に連絡してくれたところ、休日だし事前に申し込みがないと内部の見学はできないとのこと。外から見るだけでもと、会長さんの運転する車で原発の場所に向かった。
 駅に集合し歩いていた時にも多少降っていた雨が、かなり本格的な雨になっていた。
 自救会から再び駅方向に向い、観光客の車がたくさん止まっている中をぬけて、広い道路を走っていくと、そこは原発。見えるのは煙突と原子炉建屋。以前、台湾プラスチックのコンビナートを見学に行ったことがあるが、その時は外から見てもいろいろな設備があるのが見え、大規模な何やらやっている感があったのだが、原発はいたってシンプルに見えた。
 自救会の車は、正面に「自救会」と大きく書かれていて見ればひと目でわかる。私は気づかなかったが、車が着いたとたんに、正面の鉄格子の門が車が入れない程度に閉められたようだ。中に入れないし、雨が降っていて視界が悪くよく見えないけど、とりあえず車から降りて外に出てみる。鉄の門の向こうには駐車スペースがあり、車が何台か止まっている。その先に警備員さんがいる建物があって、警備員が4名ぐらいいるように見えた。休日ではあるが、中の道を車が何回か通って行った。
 どのぐらい経っただろうか、雨もひどいしそろそろ車に戻ろうという時、会長さんに電話がかかってきた。後で聞いたところによると、その時に警備員のところに中にいる警察の車が来て(外からはただの黒い車にしか見えなかった)、電話はその警察から。「いつまでいるの?」という内容だったそうだ。警備員さんも一応仕事だから門を少ししめ、警察も仕事だから自救会の人が来たらチェックする。自救会にいた時に、会長さんが内部の見学ができないかどうか、原発の人に電話をかけてくれたのだが、その時にも、「今は、お互いにコミュニケーションを図ろうということになっているから、原発の人も知り合い」と言っていた。車にいたら、中からオートバイの人が出てきて、会長さんに手を振って挨拶し通り過ぎた。いわゆる対立という感じではないようだ。
 近くに水道局の水源がある、ということなので見に行く。ここも、会長さんが連絡してくれて、中に入れてもらった。この水源からは3箇所(地名はよく聞き取れなかった)と基隆市の一部に水が供給されている。原発で事故が起き放射性物質が広がったら、間違いなくこの水源も使えなくなる。そうしたら、多くの人に影響が出る。
 台北からの電車から、線路沿いに綺麗な川が見えた。川で遊んでいる人も結構いた。私の台湾の生活区域ではどぶ川みたいな川しか見たことがなかったので、いいなあと思いながら見ていた。あの川も人が近寄れなくなるのかなと思った。
 「この場所の特色は、川の淡水と海水が交じり合うところがあることなんです。そこを見ることができるけど、行ってみますか」というので、水道局を離れ、次の場所へ移動。
 次に来たのは海岸を少し見下ろす感じの場所。廟があり、車が止められる広場になっている。少し遠くにサンドアートが見える。左側から海に向かって川の水が流れ込んでいるのが見える。天気がよければ原発も見えるらしい。海岸では釣り糸を垂れている人、海ではサーフィンをしている人がいる。天気がよければもっと遊んでいる人が多いのだろう。
 福隆は特に産業もなく、観光が収入源。原発がひとたび稼働したら、事故が起きなくても、海に遊びにくる人は少なくなるだろう。
 最後に駅まで送っていただいた。駅には観光客がたくさんいた。楽しそうな観光客と原発の対比が不思議な感じがした。観光客のすぐ近くに原発がある。原発はいたってシンプルで見た感じは危険そうなにおいはしない。私の家から高速までの道にある台湾プラスチックの工場のほうが、何やら変なにおいがして(時々家の近くもそのにおいがして)、危険さを漂わせている。放射性物質も目に見えない。わけのわからないとても透明な感じ。黒よりも怖い透明、そんな感じがした。

台湾の第四原発-自救会の会長さんのお話

 5月5日、台湾北部「貢寮」にある核四(第四原発)に反対する「自救會」を訪ねた。大学の同僚のF先生の授業で学生を連れて見学に行くのに混ぜていただいた。
 台中から新幹線で台北まで1時間、台北から電車に揺られてまた1時間。「貢寮」駅もあるのだが、降りたのは「貢寮」駅の一つ先の「福隆」。原発建設地なので海沿いの場所。その日は海岸でサンドアートのお祭り?も開催されていた。F先生から「福隆」はお弁当が有名と聞いて、お弁当が有名って何?と思っていたが、駅を降りると駅前の道の両側に店が並び、確かにお弁当屋がたくさんある。さらにどれが有名店なのか見てすぐわかるほど、駅前すぐの店は長蛇の列。観光客と思われる人たちがたくさんいた。駅でみんな集合し、サイクリングロードをとぼとぼ歩いて、10分ほどで「自救會」に着いた。
 核四は、今年、その是非を問う国民投票が行われることになっていて、3月には大きなデモ行動も行われた。
 私の中国語力では難しかった部分もあるが、以下、私が理解した会長さんのお話の内容。
・核四の歴史。民国69年(1980)に建設計画が出された。民国74年(1985)、蒋経国の時に、住民の反対にあい、建設計画は一時停止される。民国77年(1988)、「自救會」ができた。建設計画からすでに33年が経過。「自救會」は25年の歴史を持つ。
・台湾の第一から第三原発までは、セットで外国に作ってもらった。第四は、第一から第三とは違い、独立した計画。台湾電力が第一から第三の経験を元に、中心となって計画。
・原発がなければ電力不足が起きると言っているが、今、台湾の電力使用量は減少傾向にある。(工場が中国などに移転した結果)第四原発がない現在、電力不足の問題は起きていない。電力不足が起きるというのはウソ。
・現在ある原発では、高濃度の放射性廃棄物は、元の原発の場所に保管されている。保管方法に問題があり、原発周辺地域ではガンの羅患率が高い。
・原発はブラックボックスに包まれている。建設現場も、予算の使い方も明らかにされない。
・原発は安全でクリーンで安いと政府は言うがそれはウソだ。安いのウソの一つが中央埠頭の問題。核四のために作った中央埠頭は、自然の海流を止めてしまったので、自然の海流があれば流れていった砂がたまるようになり、それを毎日抜き取るために巨額の費用がかかっている。
・原発ではこれまでにも事故が起こっている。原発では何万本もの線が使われていて、そのうち1本でも問題が起きれば事故が起きる。事故が起きて放射性物質が拡散すれば被害は大きい。
・アメリカや日本のような高度の科学技術を持った国でも原発の事故が起こっている。(技術力が高くても事故は起きる)まして、台湾はアメリカや日本に比べて国土が狭い。そんなところで事故が起きれば大きな影響が起きる。小さな台湾で原発はいらない。
・核四の場所は、三つの活断層がある。地震の危険が大きい。
・地震が起きて想定される津波は20メートルに及ぶと言われている。しかし津波を防ぐ壁は12メートルしかなく、津波の被害から守ることができない。
・政府は、「原発から何キロ圏内」という言い方をするが、放射性物質が風にのって飛散するので、風の方向によって影響が変わり、中心から等距離に影響が出るものではない。政府の考え方は正しいことを伝えていない。
・国民投票は、ハードルが高すぎる。有権者の過半数が投票に参加しなければ投票は成立しない。核四を停止させるには、国民投票を有権者の過半数が投票に参加し、さらにその過半数が停止に賛成票を投じる必要がある。それは事実上不可能。(過去、国民投票が成立したことはない。総統選と同時に行われた国民投票ですら、過半数投票には達しなかった。)来年は大きな選挙が控えているが、現政権の国民党はその選挙と同日に国民投票を実施したくはない。だから今年中に国民投票を行おうとしている。
・国民党は核四賛成、民進党は核四反対、という政治的にはっきり対立があるのでもない。それぞれの中にも賛成や反対意見がある。
・地元の反応。最近は地元で大きな動きはない。3月9日の台北でのデモには多くの人が参加したが、それはむしろ意外だった。核四では200人強の地元民が働いていて、核四がなくなれば、その人たちが失業するという影響もある。
・会長さんの国民投票への見方。馬英九総統は、国民投票が成立せず、そして反対票がわりと多いという状況をねらっているのかもしれない。反対票が多かったので、核四を停止にはしないが、国民の意向を組んで、一時停止に持ち込む。そうすれば、自分たちのポケットにお金が入る。

 以下、質問とそれに対する会長の答え。
Q:火力発電は温暖化を引き起こし環境によくないと思うが。
A:それもあるかもしれないが、原発で放射性物質が出たらその影響は計り知れない。その影響のほうが危ない。
Q:国民投票の話が出る前と後では地元の様子は何か変わったか。
A:もう30年以上の問題なので地元は麻痺している。

 お話ししてくださった会長さんも、歳の頃は私とそう変わらないように見えた。とすると、30年以上のこの問題は、会長さんも計画が始まった頃は、子どもだったということ。最初の反対運動をしていた人とは、今は世代交代しているはずだ。逆に、計画を立ち上げた側も世代交代している。会長さんを前に、30年は長いなあと感じた。

2013年5月5日日曜日

台湾の英語教育は実用的なの?

 きのう、江利川春雄氏のブログ記事‘「大学入試にTOEFL」の黒幕は経済同友会’を読んでいて、コメント欄の内容に少し??と感じた。中国、韓国、台湾は学校教育で英会話の習得に力を入れているというような内容なのだが、台湾での私の印象はそうではない。よく言われているのは日本と同じようなこと。受験のための勉強ばかりしていて、実用的な英語は身に付いていないというものだ。そして、実際に英語を話せる人が日本と比べて目立って多いかと言えば、そうではないというのが私の印象だ。
 台湾に来たばかりの頃、私も中国語ができずに第二外国語のクラスを担当して、英語を使って授業をしていた。という私もそんなに英語ができるわけではないが、第二外国語のそれも初心者クラスだったので、話すことと言ってもごく簡単なこと。学生のほうも何か用事があると英語で私に話していたが、その時の印象もそんなに英語が上手という感じは受けなかった。一応こちらも教師なので、学生のほうが英語ができると多少引け目を感じるところだが、そんなふうに感じることはなかった。ただ、教室に行って第一声「英語で話していい?」と聞いて英語で話し始めてもいやな顔をあまりせずに受け入れてくれたことはありがたかった。元々外国人教師のクラスを選んで取りに来ているので、受け入れる素地があったのかもしれない。
 日本語学科の授業で、いわゆる内容科目(日本語の習得だけを目的としたものではない科目)を受け持った時に、資料として英語を渡して読んでくる宿題を出したのだが、その時もそんなにすんなりいったわけではなかった。確かに私も日本よりは(というより、大学時代の自分よりは)、台湾の学生のほうが英語ができるんじゃないかと思っていたところはあるが、そうではないんだなと感じた覚えがある。
 そしてもう一つ。「英語で話す人に限って英語ができない」というのが、英語を使っていた時の印象。私が一言中国語を発すると、外国人であまり中国語ができないとわかり、そうすると相手は困った顔をしながら、英語で話そうとする。でも、そういう時に限って英語での会話は早々に終わる。買い物で値段ぐらいなら言ってくれるが、それ以上の内容になると中国語になる。
 以前勤めていた学校の事務方と話す時によくあったこと。私が何か用事があって行くと「あら、外国人が来ちゃった、どうしよう」と戸惑った顔をし、英語で話し始める。私がカタコトの中国語で話しかけたとしてもだ。そこまではまだいいが、学校の事務方と話す時は特に、街で買い物するのとは違い込み入った話になることが多い。そうすると、相手も英語でどうやって話したらいいかわからなくなり、途中から突然中国語になる。「そこまでの英語ぐらいだったら、私の中国語でわかるんですよ。その難しいところこそ、英語で話してほしいんだけど…」と思ったことが何度もあった。
 逆に、学科の先生たちは英語学科なので英語ができるが、私が中国語で話している限り中国語で応対してくれる。時折、私がわからない中国語があって「○☓□?」というと、英語で教えてくれた。

 もちろん、英語が話せる人もたくさんいる。でも、日本も同じなんじゃないかと思う。以前担当していた台湾と日本との学生の交流活動では、日本語を使ったり英語を使ったり、それぞれの得意分野で話していたのだが、日本の学生でも英語が上手だなと思う学生も多い。また、ここ数年、日本に帰ったときに、英語で何やら議論している人を何回も目にしたり、英語で道を聞かれてそれにそつなく答えている場面を見たり、築地で外国人客に商品の細かな説明をしている店員さんを見たりして、「英語できないっていうけど、そんなことないんじゃないの?」と思うことが多くなった。
 違うなと思うのは、外国留学が台湾のほうが高く評価されることだ。これは、古い日本の印象かもしれないが、日本では高いお金を出して外国に留学したとしても、そんなに評価されない。名前を知っている有名な大学を出たのならまだしも、アメリカの名前も知らない大学を出たぐらいだと、あまり評価されない。日本と台湾では大学の数が全然違うので一概に比較はできないが、台湾だと外国に留学したら、それなりに評価してもらえる。どこの大学を出たというよりも、外国留学したことが評価される。(台湾の大学でも、大学間格差はあるので、どこの大学を出たかという感覚は持っている)

 最後に、あんまりよくは知らないが、中国について。台湾で私の日本語クラスに来たごく少数の中国人、それも日本語でのことだが、会話はできない、という印象を受けた。文法はよく知っているし、書けば難しいことも書けるのだが、会話はさっぱり。会話以前に、書いたものを声に出して読んでもおぼつかない。中国で日本語を教えていた友人曰く、ものすごい詰め込み教育で、やはり書けるが話せない人が多い。ただ詰め込みが尋常ではなく、進度は早いし覚えろと言ったら必ず覚えてきてそれはすごい、ということだった。日本語がそうなら、英語もさして違いはないのでは、と思ってしまう。

 ということで、台湾や中国の英語教育と比べ、日本の英語は実用的な力が身についていない的なコメントには、そうなのかなあ????と思う。



2013年4月28日日曜日

朝ごはんを食べないとバカになる

 会話の授業で「アンケート結果を発表する」という課題をしている。先日、前半グループの発表があった。あるグループのテーマは、「朝ごはん」。発表の中でびっくりしたことがあった。
 まず、アンケートの質問が、
「朝ごはんを食べないとバカになる」というのを信じていますか。
というもの。子どもが「コーヒーを飲むとバカになる」とか「わさびを食べるとバカになる」というのは私が小さい頃親に言われていたことだが、「朝ごはんを食べないと…」というのは聞いたことがない。そんなこと言うんだ…とちょっと驚いていたら、さらに結果に驚いた。
アンケートの結果→信じている98人 65%
発表者のコメント
思ったより信じている人が少なかった。
「朝ごはんを食べないとバカになる」えーそんなこと言うんだ!「信じている人 65%」えー、そんなにたくさん信じているんだ!!「思ったより少なかった」えー!!!これで思ったより少なかったんだ!!!という、私にとっては三段階の驚き。
 その日の最後の発表だったので、
これって、小さい頃からそう言われているの?
とクラスのみんなに聞いたら
科学的に証明されています
という答えが返ってきた。そう言われると、朝ごはんと子どもの成績の調査研究というのがあったような、とその時は思った。
あとで、ふと思った。これって相関関係と因果関係をごっちゃにしているのでは?(研究は確か相関関係があるってことだったような…)

2013年4月19日金曜日

Facebookの買い物グループはほぼ怪しい(らしい)

 今週はテスト週だった。会話の授業で「詐欺」について説明するという課題があり、そこで聞いたこと。
 日本でというか日本語ユーザーで、Facebookのアカウントをハックされるのがどのくらいあるのかは知らないが、台湾では今までもよく聞いたことがある。私自身はあまり使わないので気にしていなかったのだが、学生に聞いた話で自分にも関係がありそうなことがあったので、少し関心を持たないと、と思った。

 Facebookのアカウントをハックして何をするのか。
1-1、友だちになりすましてダイレクトメールを送り、電話番号を聞き出す。 
 久しぶりに友だちから連絡があって電話番号を聞かれたら要注意。それは偽の友だちかもしれない。
1-2、聞き出した電話番号を使って、買い物をする。
 この部分は、私はそういうことをしたことがないのでよくわからなかった。学生にも聞いてみたのだが、今ひとつよくわからない。たぶん、スマホとかでアプリを買うとか、ゲームの料金などが、電話代から引き落とされて、それが利用されるのだと思う。私の電話は未だに3G未対応なので、その心配はないのかな…と思った。

2-1、盗んだアカウントの友だちリストにグループなどへの招待メールを送る。
  私は、ゲームやら、地域のグループやらの招待メールをたまに受け取るが、ほぼ、そのままにしている。グループ名から察するに買い物系のグループと思われるものもいくつか受け取っていた。その時も、何も考えずにそのままにしていた。
2-2、買い物系グループは怪しい
 詳細はよくわからないが、商品が偽物であるらしい。その他、推察するに、個人情報を取得する目的もあるのかなあと思う。

 ハックされたアカウントからのアクセスと思われるものを見つけたら、すぐにパスワードを変更したほうがいいとのこと。また、グループも退会したほうがいい。

 私は実に5つの買い物系グループへの招待があった。ということは、私のあまり多くない友だちリストの中で、5人もアカウントをハックされたということ?(安全のために誰からの招待かをチェックしておけばよかったと後で思った。)


レストラン情報に加えてほしいこと-エレベーターの有無-

 「ぐるなび」や「食べログ」等のレストラン情報をよく利用している。お店が作っているホームページも見るが、場所や営業時間などを記録しておく(Evernoteでクリップして保存)には「ぐるなび」や「食べログ」のほうが便利だ。おしゃれなレストランだと、ページがこりすぎていて、クリップ保存できないことがよくあるからだ。
 東京では老人といっしょにレストランに行くことが多く、とても気になるのがタイトルにある「エレベーターの有無」。うちの老人は膝が悪いので階段の上り降りは極力避けたい。調子の悪い時は、ちょっとした段差があっただけでも、いやがることがある。
 レストランが1階だったら問題ないが、2階や地下だと階段だけのことも多い。レストランの階段はとても急なものがあって、上るのはまだしも降りるのは危ないなというものもある。
 老人といっしょにレストランに行くようになって、場所のチェックとともに、何階にあるかを見ることが必須になった。そして、書いてあったらいいのにな、と思うのがエレベーターの有無である。家近くなら、事前に見に行ってみることもできるが、遠い場合はそれをするのは難しい。だからと言って、安全策をとって大きなビルやデパートばかりだとなんとなくつまらない。
 私が思うのだから、他にも思っている人はいるんじゃないかな、と思う。足の悪い高齢者だけではなく、普段は元気でも、捻挫したり膝を痛めたりで階段が不安になることもよくあることだ。一言書き加えてもらえるとありがたい。
 ほんとに、あったらいいな、と思う。

2013年4月12日金曜日

さすがプロ!-シニアの洋服選び-

 先日、某衣料メーカーのファミリーセールに行ったときのこと。
 うちの老人はちょうど今頃着るような薄手のコートをさがしていた。私がいくつか手に取り、老人が試着をしてみる。まあいいけれど…、というぐらいに思っていたら、横で見ていたメーカーの店員さんが、別のコートを持ってきてくれた。それを試着してみると、確かにいい感じに見える。店員さんが持ってきてくれたのを着たのを見て、さきほど「いいけれど…」と思っていた少しいまいちの部分が何なのかはっきりとわかった。うちの老人は痩せているのだが、私が手にとったコートだと、首周りや肩周りが貧相に見えたのだ。店員さんが持ってきてくれたものを着ると、その貧相さがうまく隠されて良い感じに見えた。結局、それは腕周りがきついということで購入にはいたらなかったのだが、店員さん、さすがプロ!と思った。
 さらにもうひとつ。別の売り場で、さして買おうと思ってはいなかったのだが、安さにひかれて老人がパンツを手に取った。それを見ていた店員さん、「どんなパンツがお好みですか?あ、ストレートですね。」と言って、別のものを持ってきてくれた。試着してみると、自分で手に取ったのは全く似合わず、店員さんが持ってきてくれたほうは、実によかった。老人は試着した鏡の自分の姿に満足し、満面の笑顔。二人で、「全然違うね。さすがプロだね。」と話した。パンツのほうは、何がポイントなのか全くわからない。でも、着た感じは全然違う。
 いやあ、さすがプロ。そして、私もさすがプロと思ってもらえるような仕事がしたいと思った。

2013年3月26日火曜日

日本に旅行に行くなら…

 条件節の「~なら」の練習ではなく、最近、第二外国語クラスの学生に聞かれたこと。「卒業旅行で日本に行こうと思っているんですが、どこがいいですか」「卒業旅行に京都に行こうと思っているんですが、京都でおすすめの観光地とか食べ物は何ですか。」卒業旅行を準備する時期なのだろう、聞かれたのは1人だけではなかった。
 以前なら「そんなこと自分で調べろ!」と口では言わないが、心のなかで思い、ぼやかして答えていた。ただ、ここ数年は、こういうことを言いたくなる気持ちもなんとなくわかると思うようになったので、自分の思うことを答えるようにしている。
 学生が何を思って私に質問してきたのかはわからない。授業で先生に会うしちょうどいいから聞いとこう、ぐらいの軽い気持ちかもしれない。ガイドブックに載っていないようなことを教えてもらいたい、だってせっかく「日本人」に習っているのだから、かもしれない。学生が何を思っているのかは、まあさておいておく。
 このブロクの中でも書いたかもしれないが、学生に直にたずねたことがある。それは、東京に研修旅行に行く事前研修の中で「自分で行きたいなあと思う候補地をいくつかあげる」という宿題を課した時。答えた学生は10人中1人しかいなかった。それで「(怒っているのではなく)本当に理由を聞きたいから聞いているのだけど、なぜ、他の人はどこに行きたいかを考えなかったの?」と聞いた。
 私は個人で旅行するのが好きで、大学生の時に友だちと海外旅行をして、その時に自分たちで色々調べて計画を立てた。みんなもその時の私と同じ大学生だし、私が大学生の時より今はもっといろいろ情報があるのだから、できないことはないと思う。学生にそう告げた。
 その学生たちも単に言われたことを忘れていたのかもしれないし、面倒だと思ってやらなかったのかもしれない。ただ、1人の学生がこう答えた。
 いっぱいありすぎてわからない。
わかるなあ、と思った。逆に考えれば、私が大学生の時なんて、入る情報はたかが知れている。あの「地球の歩き方」と他に何か1冊熟読すればすむことだ。
 初めのほうに書いた「こういうことを言いたくなる気持ち」だが、私が想像するこの気持ち。
いろんな人がいろんなことを言ってるけど、で、どうなの?
 よく言われることだが、情報は多ければ多いほど便利なのではない。ありすぎるとわけがわからなくなるのだ。そういえば、うちの老人がまだわりとしっかりしていた時に、近くのとても大きな文房具売場で黒いペンを買うことができなくなった。たかだか100円ちょっとの黒いペンなのだが、ありすぎて、もうどうしていいかわからない。そう言っていた。ここで、
「書いてみていいなと思ったのを買えばいいんだよ」と言っても、どれを手にとって書いてみるかでまず迷う。「どれでも大して変わらないんだからどれでもいいんだよ」と言っても、そんなに頻繁に買い換えるものでもないし、せっかくだったら書きやすいものが買いたいと思うので踏み出せない。
 旅行も同じだ。「ガイドブックとか他の人が書いたブログとかを読んで面白そうだなと思ったところにすれば?」と言っても、そんなものありすぎてどこから手につけたらいいかわからない。「いいって言うところはどこもいいから、決めちゃえばいいんじゃないの。どこでも楽しめるよ。」と言っても、卒業旅行というゆっくり旅行できる人生最後のチャンスだし、お金も結構かかることだし、そんなどこでも…じゃあ決められない。
 私の言うことなんてたぶん入口にすぎない。だから、今の私が思うことを答える。さらにちょっと気になったのでネットで調べてみると、知らなかったことや忘れていたことを思い出すこともあって、それはそれで面白い。
 ちなみに「日本旅行に行くなら…」の私の回答。「新しいもの好き、買い物好きなら東京。歴史が好きなら京都。自然が好きなら北海道(自分で旅行したことないけど)か長野。」

2013年3月16日土曜日

「総理がおっしゃった」?

  調べ方が悪いのか、これを話題にしているものがネット上で見つけられなかった。でも、私と同じように気になっている人も多いのではないかと思うのだが…。それとも、この「総理がおっしゃった」はそういう言い方が「正しい」のだろうか。
 記者会見などで、主に閣僚が「総理がおっしゃった」と言う。ニュースなどでは、首相は敬語が使われる対象ではない。普通の人と同じだ。だから、どんな場合でも敬語が使われるという絶対敬語の対象ではない。
 感覚的に、内閣が会社みたいな組織で、総理大臣が社長、閣僚は部下みたいなもの。会社の場合、「社長がおっしゃった」は社内では使うだろうが、外向けの場やましてや記者会見では使わないだろう。記者会見などでは、いわゆるウチの人には謙譲語を使うというルールで「社長が申し上げた」という。それと同じと考えると、記者会見という場で閣僚が総理の発言について話すときは「総理が申し上げた」と言うことはあっても、「総理がおっしゃった」というのは変なのではないか。まあ、「総理が申し上げた」というと、内閣はウチ、それ以外はソトと、一般大衆と政治家に大きく一線を引いてしまうような感じがあるので、それは避けてもいいと思う。だとしても、「総理がおっしゃった」ではなく、「総理が話した」ぐらいにしたほうがいいのでは?
 一線を引いてしまうということで言うと、街頭インタビューなどで「総理がおっしゃった」という人は聞いたことがない。(あるのかな?)普通は「総理が言った」と言うのではないかと思う。だとすると、閣僚が「総理がおっしゃった」と言うと、一般大衆と閣僚(政治家一般かもしれない)の感覚が違うことが見えてしまうので、それも一線を引いてしまうことになる。としたら、やはり「総理が言った/話した」と言うのがいいと思う。

2013年3月11日月曜日

新明解国語辞典の思い出

 ライフハッカーの「こんな辞書を待っていた! オモシロ解説が魅力の『新明解国語辞典』アプリ」を見て、高校の時のことを思い出した。
 高校三年生の時に、卒業研究という名目の少し長めのレポートを書く課題があった。私が選んだテーマは「助数詞」。数える時に後ろにつける「~枚」「~本」「~足」などのあれだ。新聞に折り込まれてくるスーパーのチラシなどを見て、せっせと用例を集めていた。解説が書いてある本などもさがしては見たが、助数詞が一覧になっているものがなかなかない。そんな時「新明解国語辞典」のある版の巻末に助数詞の解説か一覧があるということを知った。しかし、その版は古いものなので、行ける本屋を数軒周ったが店頭においている本屋はないし、学校や地域の図書館にもない。
 たぶん、教育母の助言があったんだと思うが、結局私は三省堂に手紙を書いた。「学校の課題でテーマに助数詞を選び調べている。『新明解国語辞典』の○版の巻末に助数詞の解説があることを知ったが、入手できない。申し訳ないがコピーを送ってもらえないか。」そんな内容だ。
 送ってくれるという確信はなかった。たかだか学校のレポートを書きたいという高校生を、大手の出版社が相手にしてくれるとはあまり期待していなかった。送ってくれたらラッキーだなぐらいに思っていたと思う。
 手紙を送ってからどれぐらい経ったころだっただろうか、なんと、三省堂から封書が送られてきた。私の希望する箇所のコピーと、手紙が入っていた。感動した。コピーを送ってくれたことはもちろん、送ってくれるとしてもコピーだけが入っていると思ったら手紙まで添えられていた。一高校生としては、大人に相手にしてもらったことが心の底から嬉しかった。
 高校生の分際でエラそうだが、私はそれまで三省堂を「お手軽な辞書を作る出版社」としか思っていなかった。三省堂の辞書は家に何冊かあったが、何かでもらったものも数冊。三省堂の辞書といえば、持ち歩きしやすいコンサイス。辞書それ自体に愛着を感じるものではなかった。でもそのコピーと手紙の一件で、「私は三省堂を愛そう!」と決めた。
 あれからもうとうに四半世紀を過ぎてしまった。そして「三省堂を愛そう!」の決意もどこかへ言ってしまっていた。決意は別にしても、上記のライフハッカーの記事を読んで、なかなかいいアプリだと思った。このアプリ、買おう!

「安住紳一郎の日曜天国」の笑い

 前回、「安住紳一郎の日曜天国」(にち10)について書いたが、私はこれを聞いて本当に大笑いしている。聞くのは通勤の車の中なので、人目をはばかることなく笑うことができる。以前はいやだった週一の片道1時間半、往復3時間の車通勤も、最近はにち10のおかげで全く苦痛ではなくなった。ちょうど帰宅の時間がラッシュアワーでよく渋滞するのだが、その渋滞も気楽に過ごすことができている。
 聞き始めたのが昨年末なので、以前の放送分もずっと聞いている。すごいなと思うのが、前の放送を聞いてもものすごく面白いことだ。今のお笑い芸人の笑いは、何か決まり文句があってそれを言うとみんなが受ける、という「出た出た」的なものが多いなと思うが、そういう笑いは、時が経ってしまえば全く面白くない。それから、笑いの中にはその時の流行やらニュースやらを使ったものもあって、そういうのもその時ではないと面白くない。古典的な落語とか、完結された一つのストーリーならいざしらず、ラジオで放送されたトークでいつ聞いても面白いというのは、高度なトークなのではないかと思う。
 時事ネタを扱っても面白いと思えるものもある。例えば「北京五輪で気になった10のこと」。気になったことは「レスリングの審判がスーツの割に俊敏だった」のようなものなので、特に北京オリンピックを見ていなくても理解できる。その他「○○選手がお姉さんを呼び捨てにしていてかっこよかった」なんかは、選手自体はその時に有名だったのだが、一般的な話として聞いても面白い。
 なぜ面白いんだろうかと時々考えながら聞いている。私が思う一つの理由は、「細かい」こと。話のネタがとても小さい、些細なこと。そして、その話の説明や描写もとても「細かい」、詳細なのだ。「レスリングの審判がスーツの割に俊敏だった」もそうだ。オリンピックを見て、あるスポーツの審判の服装とその動きなんて、オリンピックの話題にしては針のように小さい。そしてその語り方。これは、語り方の例なのでその時にこう話したかどうかは定かではないが、審判が「こうしてこうやってこう動いて…」と語る。それと比較する自分のスーツ姿も「こうしてこうやって、でもこうするとスーツだと動きづらい」等々、事細かに語る。事細かに語るには、自ずと視点も小さいものになるのかもしれない。
 もう一つうまいと思うのが、「たとえ」だ。ラジオなので、大きさや見た目などを伝えるために「たとえ」を使っていることもあるし、トークの内容の説明に独特の「たとえ」を使っていることもある。
 「詳細に語ること」と「うまくたとえること」。この二つは実は授業の中でも目標とする技術の要素だ。「詳細に語る」は中級の会話や作文で常々言っていることである。「いろいろ」ではなく、具体的に書くこと。「おいしい」や「面白い」という形容詞だけでなく、どうおいしいのか、どう面白いのかを詳細に書くことなど、よく言っている。また、「たとえ」は福嶋隆史氏の本の中に出てくる。
 安住氏は、語りの基本技術を実に上手に実践しているのだな、と思った。

2013年2月28日木曜日

「安住紳一郎の日曜天国」

昨年末ぐらいからタイトルのラジオ番組をPodcastで聞いている。
 何がきっかけだったか忘れてしまったが、何かでこの番組のことを知り、番組の中でインタビューコーナーがあって、その部分が教材に使えるのではないかと思ってiTunesで登録していた。その後ずっと聞かないでほっておいたのだが、聞いてみるとこれが面白い!教材に使うとか何とかとは全く関係なく、通勤の車の中で聞いている。
 この番組の面白さについては、他でも紹介されているので、ここで詳しくは語らない。もう一つ、この番組で気づいたこと。私が一番最初に聞いて驚いたのが、話の「間」だ。「間」は「ま」の「間」である。
 ラジオ番組などもうここ○十年聞いていないので、ラジオの語りは全般的にこうなのかもしれないのだが、私は最初に聞いた時に、「間」に本当にびっくりした。話している間に少しシーンとするのだ。最初は、「え!?シーンとしてる。どうしたの?いいの?」と本気で思った。安住氏が一人で話しているのではなく、相方がいるのだが、相方のあいづちが入るのでもない。考えているのでもなく、えーとか、あーとか言うのでもなく、話が終わったのでもなく、それでも、「シーン」という時間がある。
 テレビでは、「話の速度が速くなった」「饒舌に絶え間なく話し続けている」と言われている。私は、言われていることは理解できるが、あまり自分の実感として感じたことはなかった。でも、この番組の「シーン」に驚いたことで、私も饒舌なテレビの語りにすっかり慣れていたのがわかった。
 数回聞いて、この間には慣れた。そして、この間が心地良いと思うようにさえなった。
 ラジオ番組を聞いてもう一つ思ったのは、「聞くだけで相手にわかるようにする話し方」だ。目で見ればすぐわかるものを、見えない相手にどうわかりやすく伝えるか。さらっと流して話すのではなく、同じ内容を違う言い方でどう伝えるか。繰り返しとも思える話が結構多いなと感じた。「間」は、流れるように話しては早すぎてついていけないこともあるし、ずっと話し続けられていると疲れるので、小休止のように「間」があるのだろう、とも感じた。
 授業はもちろん視覚を使って伝えることができるのだが、私の場合、日本語をさらっと話しただけでは伝わらないことが多い学生を相手にしている。「ああ、学生に伝わってないな。まだこういう日本語は伝わらないのかな。」と思うことがある。でも、そんなことを思っているだけではだめなのだ。もっと、相手にわかるような話し方を工夫しないといけないと思った。
 

2013年2月22日金曜日

老人接客のちょっとした工夫

判子の入れ物は蓋をしないでお返しするんです。
銀行に行ったおり、ひょんなことから少し銀行員の方とお話をすることができた。住宅街の支店をあちこち回ってきたというその方は「高齢の方も多くて気を遣います」。
 ちょっとした物忘れというのは高齢の人にはつきもので、だからこそしていることが、最初の言葉。それを聞いたとたん「ああ、わかる」と思った。すんなり返して無意識にかばんに入れてしまっては、判子を返してもらったかどうかカバンに入れたかどうか記憶に残りにくい。カバンに入れる前に、判子の入れ物を閉じるという動作をするだけで記憶に残る確率は格段に増えると思う。
 通帳などもしまうところをよく見ていて、例えばかばんの中のポケットに入れたとか、何色のファイルにしまったなどを見ているそうだ。「通帳、忘れてきてないか?」のような問い合わせはしょっちゅうあるので、その時に「○色のファイルにしまっていらっしゃいましたよ」と答えると「あ、あった」と解決することもあったということだった。
 銀行での忘れ物は、「え!困ったどうしよう!」とうろたえるものが多い。判子はもちろんのこと、カードもあるだろうし、高齢ならメガネというのもあるだろう。通帳はさして大事ではないと思うが、うちの老人のように通帳=お金のように思っている人もいるので、重要だと思われることも多い。だからこそ、「忘れた」と言われたらそれ相応の対応をせざるを得ないし、「返してもらっていない」などと言われたら大きな問題に発展してしまう可能性もある。

 判子の入れ物は私も蓋をしないで返していただいた。老人対策ではあるのかもしれないけれど、ユニバーサルデザインがターゲット以外の人にも使いやすく好評だったものがあるのと同じように、誰にでも通じることなので顧客全員にそう接しているのだろう。
 その後別の銀行にもある手続きをしに行った。そこではうちの老人の用事だったので、私はとなりで見ていたのだが、その些細な対応の違いに「ああ、これもそうか」と思うことが多かった。最初の銀行をA銀行、後で行った銀行をB銀行にしておこう。
 まず、B銀行は手順がバラバラ。例えば、「判子はお持ちですか?」と言って客に判子を出させて置いてそれは放置し、紙に記入させ途中でまた判子を取り出させる。A銀行では、最初に判子を出させるがそれは必要な物の確認なので「あとで使います」と言って、はっきり客に見せたあとで、わかりやすいところに置く。それ以外にも、全体の手順が順番に並んでいるというよりも、「あ、そういえば」という感じで質問されるので、そのたびに作業が中断して集中力が途切れる。実際のうちの老人は書いている途中で話しかけられ、どこまで書いたかわからなくて、直前の作業に戻るのに手間取っていた。
 A銀行はこちらがやりやすい手助けがたくさんある。日付を書くときも、B銀行は「ここに今日の日付を書いてください」。A銀行は「2、0、1、3」と、一つひとつ数字を言ってくれる。別の資料から書き写すものがあるときは、A銀行は、書き写す部分に○を書いたり線を書いたりして見やすくしてくれる。「ここのこの部分を書いてください」だけだと、一度目を移動して元に戻すのが難しい。B銀行では、私がA銀行のやり方を見習い、写す元に線をひいて示した。

B銀行は外資系。何かの記事で外資系銀行はシルバー層の獲得に苦労しているというものを見た。シルバーを相手にしたいのならもう少しシルバー相手の接客を考えたほうがいいのになと思った。

2013年2月4日月曜日

やってみるかどうかの境目

「~かな?と思って、どうしてやってみないんですか??」学生に言われてごもっとも!と思った言葉。
 普段はあまり使わないFacebookに写真をアップロードしたら、コメントがついたのでそれに返信しようとした。改行しようと思ってenterキーを押すと、コメントが送信されてしまう。あれ?どうしたらいいんだ?途中で、Altキーかshiftキーを使うのかなと思ったのだが、まあいいやと思って、そのまま短いコメントを送信しつづけた。最後にコメントの中で「改行できない!」と書いたら、学生の一人が「shift+enterですよ!」とコメントで教えてくれた。
 後日、コメントを見た別の学生とたまたま会った。
学生:先生は、やっぱりFBの使い方とか、わからないんですね。
私:そうなんだよね。普段、あまり使わないし。
学生:あれは、shiftとenterをいっしょに押せばいいんですよ。
私:そうなんだ。私もそうじゃないかなあとは思ったんだけどね…。
それに対しての学生の言葉が一番最初のあれ
学生:~かな?と思って、どうしてやってみないんですか??!
はい、ごもっともでございます。学生の口調は、「ほんとに全くしょうがないなあ」という感じ。その気持ち、とてもよくわかる。私も別のことでは、他の人や学生に対して、思ったことがあるものだからだ。
 ワードやエクセル等PCのちょっとした使い方だとか、iPodみたいな小さい電気器具の使い方だとか、少しいじってみても壊れるものでもなし、とりあえずやってみればいいのに、「わからないから」と放置する。学生だと、ネットのリソースなどで少しわかりにくいページなどだと「わからない」とそれ以上見ない。どこかをクリックしたって、コンピュータが壊れるわけでも、変なものがダウンロードされてしまうわけでもないのに。
 そのたびに、「なんでやってみないんだろう」と思っていた。
 今回のFBのことも全く同じだ。shift+enterを押してみて、また同じようにコメントが送信されたとしても、どうってことはない。でも、私はやってみなかった。このやってみる一歩が出るか出ないかは、どこで違って来るのだろう?
 前にも少し似たようなことを考えたことがあるが、その時は、すぐ近くに助けてくれる人がいるかどうかが大きいのかなと思っていた。面白かった例は、友人に「ノートパソコンに無線マウスをつなげたいのだが動かないどうしたらいい?」と聞かれた時。私はその場にいて、あれしてみたらこれしてみたらと言い、それを聞きながら友人はあれこれやってみた。結局、私が言ったことは当たらず、友人が自分で動かしながら解決した。私は何の役にも立たなかったのだが、友人は私がいるという根拠のない安心感で、いろいろやってみることができたのかなとも思った。
 今回、一歩が出なかったことを反省するとともに、他の人の気持ちが少しわかるようになったのもよかったかなと思う。でも、とりあえずやってみる自分のほうがいいかなとまた反省。次回なにかあったらやってみよう!

2013年2月1日金曜日

不妊のおまじない

少し前に友人から聞いた話。
 結婚して日本に住んでいる台湾人の友人。息子さんが一人いて、二人目がほしいのだがなかなか授からない。さらに、彼女の友人も子どもがほしいのだができない。ということで、二人分のおまじないグッズを台湾にいる自分の妹さんに頼んだ。
 どういうおまじないグッズかというと、今妊娠している人が妊娠する前に購入した生理用ナプキン。男の子がほしい人はお腹にいる子が男の子の妊婦さんからもらう。女の子が欲しい場合は女の子がいる人からもらう、とのこと。なんかわかりやすいというか、生々しい感じもするなあと聞いた時に思った。そのナプキンは化粧ポーチなど普段身に付けるものの中に入れておくのだという。
友人の妹さんはこのことを知らなかったのだが、職場で周りの人に聞いてみると「もう全部あげてなくなった」という人が多数。結構、知られているおまじないだということに驚いたらしい。妹さんからは、職場の妊婦さん経由のネットワークで、無事におまじないグッズが届いたそうだ。
 私も日本の友人で不妊に悩んでいる人が結構いて、いいお医者さんだとか漢方薬の話だとかは聞いたことがあったのだが、こういうおまじないは聞いたことがなかった。
 私はこの友人のおかげで、不妊、妊娠、出産、避妊などについていろいろ知ったことがある。いつも質問をされるのだが、私はよくわからないので日本の友人に聞くと、「うーん、あまりないと思うけど」ということも多い。それ以外にも、「台湾では一般的」と言われることについて、え!?そうなの?と驚いたこともしばしば。
 ナプキンに関することで妊娠とは関係がないのだが、ドラマを見て驚いたことがひとつ。おととしぐらいだったか、かなり話題になった台湾ドラマで私も見ていたのだが、その中のある場面。
 遠距離恋愛をしている彼氏のところに彼女が初めて来る。彼氏の仕事中に彼女が着いてしまうので、この彼氏は彼女のためにいろいろ準備をする。食べ物はここにあるよ、とか、帰るまで雑誌を見ていてと複数冊の雑誌を整え、さらに、「万が一のために…どのメーカーのがいいかわからなかったから色々買っておいた」と生理用ナプキンまで用意。
 この話を台湾に住んでいる日本人の友人に話したら「そんなことされたら私だったらひいちゃう」。
 なんとなく、ちょっと日常の話題に載せにくいことで、面白い違いを感じることがある。
 
 

2013年1月31日木曜日

【映画】エンロン

 「エンロン 巨大企業はいかにして崩壊したのか?」というドキュメンタリー映画を見た。中文版だったのでよくわかっていないところもあると思うが、わからないのは言語の問題でもないんじゃないかとも思う。見て思ったこと、見て疑問に思ったことを調べたこと等。

 エンロンについてはあまり多くを知らなかった。電力会社で、会計の不正が元で倒産した会社、電力自由化の議論で出てくる会社、というイメージだ。
 この映画を見てわかったことは、エンロンが儲けていたのは、電力を直接売るのではなく、エネルギーを取引にしてその取引で儲けていたということ。また、大統領のブッシュファミリーとつながりが大きいこと。カリフォルニアでは、停電になって電力価格があがり、そうするとエンロンが儲かるという図式になったこと。全体としてのストーリーは、エンロンが詐欺まがいの行為をしてお金を儲けていた/経営陣は強欲で金儲けにしか興味がなかった/CFOは会社が危ないとわかると逃げ出し、何も知らされない社員は会社の破綻と同時に自分の年金などすべてを失った…という感じに写った。
 このエンロン事件を見て、ライブドア事件を思い出した。なんとなく似ているなと思ったのだ。(ライブドアは結局会社自体は残ったが…。)何が似ているかというと、粉飾決算をしていたことと、監査担当の会社が当時の優良会計会社で粉飾決算にそこも関与していたことだ。また、負債を隠すために、架空の会社を作り、金の流れが入り組んでいて(映画の中で解説があったのだが、よくわからなかった。ライブドア事件みたいなもんだろうな、と理解した)私のようなものには理解不能な図ができていたこともある。でも、これは粉飾決算が問題になればどこも同じなのかもしれない。でもライブドアはどちらかと言うと、政治的、社会的に力をもっていなかったからあっさりと葬り去られてしまったイメージがあるが、エンロンは政治家としっかりパイプを作っていたので、そこは全然違うようにも見える。

 いくつか疑問に思ったのは、なぜカリフォルニアなんだろうとか、結局ブッシュファミリーの関わりはなんだろうとかだ。ここら辺のことは、今更疑問に思うことでもないので深くは語られないのかなと思い、ネットで調べてみた。「エンロンが仕掛けた「自由化」という名の金権政治」「底なしの米企業犯罪 エンロン、ワールドコム、ゼロックス… グローバリズムの基盤揺るがす」などを読んでいくつかの疑問が解けた。
カリフォルニア州では開発コストがかかるエコエネルギーの普及に力を入れたことなどから電力料金が全米屈指の高さになっていたため、1996年に電力売買の自由化によって料金を下げようとする政策が始まった。(①)
カリフォルニアの停電(電力危機)については、同じ田中宇が書いた別記事(カリフォルニア電力危機を考える)に詳しいが、価格を下げようと自由化に踏み切った結果、電力不足の懸念から発電所が電力を売り渋ったり、電力取引の影響で価格は上昇した。
カリフォルニア州知事は、ブッシュ新政権に対し、連邦政府がエンロンなど売電会社に命令し、高くない値段でカリフォルニアに電力を供給させてほしい、と要請した。だが新任のブッシュ大統領は「自由市場の原則を曲げる政策をとるわけにはいかない」という立場をとり、救いの手を差し伸べなかった。(①)
この場面はそのまま映画の中に登場していた。
ブッシュ政権や共和党を中心とする議員は、エンロンから多額の政治献金を受け取った。彼らは、エンロンがカリフォルニア州で電力の「売り惜しみ」を行ったことで起こった電力危機(2001年年頭)の際に、1部に起こった規制強化案を葬った。(②)
そうとははっきり書いていないが、エンロンに有利にことを進めたと読める。

 元々、私は「電力会社はどうやって儲けるのか」に疑問をもっていた。企業は自社の製品を売って金を儲けるのが目的だ。電力会社は電力を売っている会社。でも、「節電しましょう」というCMも流している。自社の製品をあまり買わないでね、と言っているのだから、何か矛盾を感じる。(もちろん、節電PRが悪いという意味ではない)もうひとつ、電力会社の株配当は他の会社に比べ比較的高い。配当が高いのは、それだけ利益が出ているということだ。???どうなっているんだろう?というのが日頃からの疑問だった。
 ネットでにわか勉強をしたが、実はまだよくわからない。わからないけれど乱暴に思ったことを書いてしまうと、結局、「電力を売る」ことは、儲からないものなのだと思う。日本の原発問題の後でも電力自由化の話はたびたび出てくるが、なぜ自由化するのか。自由化すると企業が参入するのだが、儲からないものに企業が参入するとは思えない。
 日本で大学の制度を改革し、株式会社の大学を作れるようにしたが、参入数は多くないし潰れた大学もある。大学(制度上の学校はすべてだと思うが)は儲からないのだと思う。何か他のもので読んでうろ覚えだが、アメリカの有名大学も、収入の頼りは多額の寄付や土地収入で、本業の教育・研究ではないらしい。
電力(エネルギー全般かもしれないが)も、儲からないのであれば、そこに企業が入ることはない。もし入るとすれば、本業以外に何か「うまみ」があるからだ。本業以外の「うまみ」は、なんとなくあやしい感じがする。

2013年1月25日金曜日

テレビの海外ドラマ・映画 字幕と吹替え

 台湾に来て驚いたこと-映画が吹き替えではなく字幕。
(私の心の声:えー!そうですか。そこに驚くほうが驚きです!)

先日、会話クラスの発表で上記のことを聞いて、本当にびっくりした。それと同時に、もうかなり昔に書きかけた内容で、形にならずそのままほっておいたこの記事のことも思い出した。

 会話クラスの発表は「日本人にインタビューした内容」というとてもアバウトなテーマだった。この課題の設定は、インタビュー主旨を説明し、アポを取り、それなりに内容のある会話展開をさせて相手のことを知り、それをストーリーにまとめて発表するというものなので、何を話すかというのは、学生に任せてある。だいたい、インタビュー相手は、台湾留学している日本人学生が多いこともあって、台湾に来て驚いたこと(台湾と日本との違い)のような内容になる。そして、上記の発言があったらしい。学生にとってはかなり驚きだったようで、発表では日本の映画予告編吹き替え版も見せて、みんなで「へーーん!」と大合唱。そして学生は、日本の映画館では全て映画が吹き替えで放映されていると誤解した人がたくさんいる模様。いやー違うと思いますけど…、でもそういえば、最近、メジャーな外国映画を映画館で見ていないからよくわかんないな…と思った私。
 でも、2年以上前にこの記事を書こうとして調べた時に、日本映画の吹き替えが増えているということは、知った。
 さて、この「テレビの海外ドラマ・映画 字幕と吹替え」だが、きっかけは「日本のテレビの外国映画は、どうして吹き替えばっかりで字幕がほとんどないの?」と友人に聞かれたことだった。この時は、 「以前は、字幕作るのが大変だったからなんじゃないかなあ。それで、その時のやり方がそのまま続けられているとか。」なんて、適当な答えをしてしまった。なんとなく興味を覚えたので調べてみたら、私の答えは本当に適当なものだったことがわかった。

ここで調べてたどりついたのが日経の記事。
吹き替え映画なぜ増加? 「超日本語吹替版」も登場 これを読んで、なるほどな、と思った吹き替え版増加の原因。
①吹き替えだと内容の9割が伝えられる。字幕だと3割が精一杯。
②場面展開が早い映画が増えてきて、字幕を目で追うと映像を見逃す。
③複数のスクリーンを持つ映画館が増えたので、字幕版と吹き替え版と両方を放映できる。
④3D映画だと字幕が見づらい。
 この記事は2010年のものだが、記事の中には「(2009年には)全配給に占める吹き替えのある映画の割合は12%から32%に上がった」とあるので、やはり、学生が誤解したような、全ての映画が吹き替え版だということは、今でもないと思うのだが…。
 台湾での事情と違うのは、この①吹き替えだと内容の9割が伝えられる。字幕だと3割が精一杯。の部分だろう。中国語の場合、日本語より字数が少なく多くの内容が伝えられる。日本語と比較して半分強の文字数ぐらいだろうか。
 テレビだと、映画館のスクリーンに比べてさらに画面が小さくなるし、そこに文字が入ると追うのが大変だから、というのが、日本のテレビで吹き替えが多い理由なのだろう。

 映画館の字幕でもうひとつ思い出したのが、以前スイスにいた時のこと。スイスではどちらかと言えば、吹き替え版の方が多かった。私の住んでいたフランス語圏では、フランス語バージョンとオリジナルバージョンとがあって、フランス語がわからない私は、オリジナルバージョンを見に行っていた。確かその時の記憶では、オリジナルを見に行く方が選択肢が少なかったように思う。また、字幕は、フランス語とドイツ語の両方があったように記憶している。フランス語もドイツ語も、日本語以上に文字数が多くなるので、日本語よりもさらに見づらいからなのではないかと思う。字幕画面も、日本語の場合は、文字数が少なく余白があるが、独仏の字幕は、画面の一番下に幅いっぱいに字幕が広がっていた。

 上記新聞記事の②場面展開が早い、④3Dだと字幕が見づらいであるが、これは、台湾でも同じになるはずである。場面展開が早いについては、このことを学生に話したところ、あまり納得してもらえなかった。3Dはどうなんだろう?台湾で3D映画を見に行ったことがないので、今度見に行ってみようかと思う。


2013年1月19日土曜日

面接はスーツで臨もう

 卒業生と久しぶりに会った。「日系企業に就職したんです!」と嬉しい報告。聞きたい気持ちがむくむく湧いてきて、面接のことや仕事のことなどを根掘り葉掘り聞いた。今日、聞いた話。
 募集を見たのはネットの仕事紹介サイト(人力銀行)だった。1年以上の経験者募集と書いてあったが、ダメ元で応募。面接の練習にでもなれば、という気軽な気持ちで臨んだ。それでも、先輩に面接での心得を聞き、履歴書や自己PRの日本語版中国語版を用意し面接に行った。
面接には5人来ていたんですよ。でも、スーツを着ていたのは僕だけでした。
隣の応募者と話したが、彼のほうが明らかに日本語が上手だと思ったとのこと。でも採用されたのは、自分だった。
自分でもびっくりです。
面接で日本語で聞かれたのは、どんな食べ物が好きか?どこに住んでいるか?など。え?それ仕事と関係あるの?と本人は思った。まあ、これは、内容よりも日本語力を見ていたんだろうと私は思った。
両親もそう言っていました。
中国語の質問内容のほうが答えるのが難しく、例えば「3か月過ぎたら給料があがるけれども、どれぐらいあがると思う?」と聞かれたそうだ。「結構大事な仕事だけれど、自分にできると思う?」と聞かれ、内心は「いやあ、初めてだからそんな自信は…」と思っていたが、それは面接。「やります!」と答えた。

 タイトルの「面接はスーツで臨もう」だが、それは、たぶん、この卒業生が採用されたのは「スーツで面接に臨んだ」ことがポイントの一つだったのではないかと思ったからだ。実際、面接当日スーツを着ていると、お父さんから「そこまで正式な格好をしなくてもいいんじゃないの」みたいなことを言われたらしい。でも、本人は「いや、相手はやっぱり日本の企業だからスーツのほうがいいだろう」と思って、スーツを着て行ったそうだ。こういうところ、「お!わかってるじゃん」みたいに思われたのではないかなあと思う。
 日本語で書いた自己PRは、自分ですべて書き、ネットなどは参考にしなかった。
間違えていたとしても、それをそのまま見てもらったほうがいいですから。僕の能力の程度を相手にわかってもらったほうがいいし。
いいね、そういう感じ。

 仕事を始めたのはこの月曜日から。
今はまだ勉強しているだけで、なんにも役に立っていないんですよ。
とこれまた、謙虚な発言。彼が見せてくれたメモ帳には、仕事用語がずらりと並んでいた。
前に先生に自己PRの書き方をだめだと言われたから、今回は、今まで通訳したことなどをたくさん書きました。
そういえば、以前会った時には、「仕事紹介サイトに登録したけれど、全然面接の話が来ない」とぼやいていた。自己PRに何を書いたかと聞いたら、家族のことや経験はないけれど頑張りますみたいなことを書いたと言っていて「何書いてんのあんた!!」ぐらいの勢いでダメだしをしたことがある。そんなことがあったことも忘れてしまうぐらい、今日会った卒業生の彼は、立派なオトナになっていた。私が言ったことが少しは役に立ったのかな、と思ってこちらも嬉しかった。
この他にもいろいろな話を聞いたが、何を聞いても、いやあ、大人になったなあ、と感じた。
卒業生:今日は、たくさんほめてくれるけど…
私:いや、ほんとに心の底からすごいなと思ってるよ。
卒業生:ほんとに心の底?心の横とかじゃないの?
まあね、大学ではちゃかしてほめることも多かったけれど、今日のは、本当に心の底の言葉です。人の成長を見た!という嬉しい日でした。

デートでは割り勘にするか

 先週会話授業のテスト(1対1の面接方式)をしたのだが、その中で上記のことを聞いた。
 簡単な意見を言う題材を教材に入れようということで、上記を含むいくつかを授業の中で行ったのだが、授業の中では「割り勘」意見が大半で、あまり面白い意見が聞けなかった。しかし、テストで一人一人に聞いてみると、少し様子が違った。
 元々、「デートの時にお金使ったことな~い。女の子がデートでお金払うなんて信じられな~い」という学生や、「デートはやっぱり男が支払うべきでしょう。そこは、僕、台湾男子なんですよ。」という両親台湾人、日本生まれ日本育ちの男の子の発言を聞いていて、仰天しながらも、どうなんだろう?と興味津々に思っていた。
 まあ、日本でも「デート代は男性払い」という感覚はなくはないのだろうが、でも、ここは台湾。「日本は男女不平等が多いけど、台湾は平等!」と話す学生が多い。真偽はともかく、男女は平等、でもデート代は男性が払うもの、というのは、なんでしょ?と思ってしまう。
 さて、結果。の前に、大前提として、ここで選択肢としてあるのは、「男性がすべて支払う」か「割り勘にするか」。いや女性がすべて支払うのが筋でしょう、なんていう選択肢はない。一応、授業の時に確認してみたが、みんな笑いながら「ないない」とのこと。私もそんな考えは毛頭ないのだが…。
 クラスに男子学生は少ないが、その少ない男性の意見。割り勘意見もあったが、「私が払う」「一般論として割り勘でもいいが、自分は払う」という意見も。
 女子学生の意見。みんな「割り勘がいいと思います」。そこで突っ込んで「相手がどうしても払うと言ったらどうする?」というと、「次は私が払うからと言ってとりあえず払ってもらう」「何かお返しにプレゼントする」という「とりあえず受け入れる」意見が大半。そこをもう1回突っ込むと(私もしつこい)、しょうがないから受け入れるという「男性払ってもいいんじゃないの。そんなに言うなら」という派と、「お金を払うデートはしないと主張する」という受け入れられない派に分かれる。そしてどちらかと言うとそんなに言うなら…派が多いかなと思った。

 少ない意見から乱暴に結論を出してしまうが、「一般論として割り勘でもいいが、自分は払う」というのが、台湾男子がデート代を支払うという意見の大半なのではないかと思った。(クラスの中で割り勘主張が多かったのは実際こういうことだろう)そしてそれは、「そんなに言うなら…派」の声を聞き、「割り勘と言っている人も、実はそう思っていないのでは…」という危惧から来るのだと思う。実際、はっきりそう言った学生もいた。(割り勘でいいと言っているけれど、本当にそうしたらケチなやつと思われる…)なんかわかるなあ、その感覚。
 「それが男子のプライド」「払わないのは、『あんたには私が金を払う価値がない』と思っていると思われるのでは」という、少々過激発言もあった。

 私がわからなかったのは、女子学生の複数意見で「全部払ってもらうと分かれる時に困る」というもの。え?なんで?分かれたいけど、相手がこんなにしてくれたんだし…と分かれにくくなるからなのだろうか。突っ込んで聞いてみたのだけれど、説明の難易度が高かったのか、あまりわかりやすい回答は得られなかった。

 最後に付け加えておくが、今回聞いた学生たちは「恋愛経験がないんですけれど…」という学生が多かったので、実際にどう行動するかはわからない。それに、こういう一般論的な感覚が判断材料になるのは、たぶんデート初期なのだろうから、実際にデートを何回もすれば割り勘に移行することもあるだろうな、と思う。いずれにしても男子学生大変ですね、というのが私の全体の感想だ。

 一人現在つきあっている人がいるという学生の話。デート代は割り勘だという。「最初のデートはどうだったの?」と聞くと、「私たちは高校のクラスメートで、最初のデートは学校の図書館だったから…」と、なんともほのぼのした回答が返ってきた。