2011年10月28日金曜日

羽田国際空港のサービス―気配り―

以前、羽田空港で、「ああ、日本に帰ってきたなあ」と思う出来事があった。今日の日経ビジネスオンラインの記事「新しい海外への玄関口:羽田旅客ターミナルのサービスの裏側」を読んで、記事の内容とは直接は関係ないのだが、その時のことを思い出した。

私が「日本に帰ってきたな」と思ったのは、いわゆる「気配り」のサービスを受けたことである。

帰国して羽田に着いてからのこと。

①スーツケースの受取りで
ぐるぐる回っているところからスーツケースを取ったときのこと。私は一応自分のスーツケースかどうか、タグを見て確認することにしている。チェックインの時につけられるタグに名前が書かれているので、確認しようと思ったが、名前が書いてあるところが見当たらない。タグの白い紙をあれこれ見て、たぶん???という表情をしていたのだろう、
「ご協力ありがとうございます。お分かりでしょうか?」
何といったか正確には覚えていないのだが、こんな風に声をかけられた。ちょうどその時、名前が書いてあるところが見つかった。
その時は、これだけで声をかけられるんだ、と、ちょっとびっくりした。

②京急の改札口で
改札口はSUICAで入ったのだが、残金が残り少ないことに気づいた。改札のすぐ横に精算機があり、電車が来るまでに時間があるので、そこでチャージをしようと思って近づいた。見てみると、SUICAがチャージできないように見えたので、カードを手にしたままホームへ行こうとすると、
「SUICAのチャージですか?できますよ。」と声をかけられた。
改札のところに駅員さんが立っていた。
再び精算機に戻り、チャージ完了。

この二つが立て続けに起こった。びっくりというか感心した。
どちらも、私の動きを見て、何をしたいのかを理解した。そして、そこで必要な手助けをしようとしてくれた。

日本だから当たり前だと思うかも知れないが、そうでもない。
実際、某携帯電話会社では、そのあまりの応対に唖然としたことがある。
電話機を買いに行ったのだが(それも、古い携帯だと今後使えなくなるので早急に買い換えるようにというメッセージが頻繁に携帯会社から送られてきたから買いに行った)、
店員「こちらには在庫がありません。」以上。
私「どちらの店に行けばありますか。」
店員「それは店ごとに管理していますからこちらではわかりません。」以上。
私「じゃあ、この近くに他の店はありますか。」
店員「二店あります。」以上。
私「それはどこにありますか。」
……
という会話が交わされた。
(途中から不快感が顔に出ていたかもしれないが、一応大人なので、丁寧に応対しようと心がけた。)

その後、その店員のどこに腹を立てたのか、考えた。その店員は、私のその質問に直接答えていただけだ。私が腹を立てないようにするには、私が何をしたくてその質問をし次にどういう行動をしようとするかを考えて答えることだ。

実はこの「気配り」という言葉、学生たちに説明するのが厄介な言葉だ。なのに、何かを読むと、よく出てくるし、「気配り」という意味がわからないと全体の意味がつかめないことも多い。いつもどうやって説明しようかと頭を悩ませていたのだが、「気配り」のない応対を受けて「気配り」が感覚ではなく理解できた気がした。

「気配り」は心ではない。頭だと思う。

2011年10月21日金曜日

ちょっと好きになった「日本語朗読コンテスト」で思ったあれこれ


昨晩、勤務校の学内「日本語朗読コンテスト」を見に行った。結果、とても面白くて、行ってよかったと思った。気づいたことを書いておきたい。

元々「○○コンテスト」、「〇〇大会」みたいなものは、そんなに好きなほうではなかった。朗読コンテストが行われることは知っていたが、いつあるのかも気にしていなかったし、行こうとも思っていなかった(すみません)。ちょうど、私の授業日に行われていたことと、主催者の先生から「見に来ない?」と一言、お声をかけていただいたことが大きい。逆に考えれば、何かを主催してポスター貼っただけで関係者が見に行くと思ったら大間違いということ。対面で伝えるのは大きい。

学生たちが朗読したのは、「福娘童話集」のサイトにある日本の昔話。先生がいくつか選んでいたものの中から、学生が好きなものを選んで朗読した。学生の中には「アフレコ大会」のように、声色を変えて読んでいる学生もいて、なかなかうまい。一人の学生は、私の耳には、「これ誰か声優の声に似ている」と感じた学生もいて、かっこよい声をしていた。

朗読コンテストでいいな、と思ったのは、学び始めた学生から上級者まで同じ土俵にたてることだ。これがスピーチコンテストだと、ある程度学んだ学生しか参加できない。スピーチコンテストでも、たまに意味がわからず、まる覚えをして参加する学生もいるが、質疑応答があるとそれが見えてしまうし、元よりそういう人の参加を想定していないだろう。朗読コンテストでは紙を参照することができるので、意味がわからなくても読めればよい。更に、実際、朗読の上手下手は聞いてわかるが、それが必ずしも日本語の上手下手とはかかわりないこともあるように見えた。

この大学の日本語は第二外国語としての科目である。授業は学期ごとで、全学の学生が選択して履修する。第二外国語であるが、なかなかの実力者もいて、ディベート大会で、日本語主専攻のチームに勝ち優勝した学生たちもいる。今回は、その学生たちが裏方に周り、「小老師」として朗読の指導をしたり、きのうのコンテストでも司会や審査員の接待、はては私の通訳までしてくれた。
こういうコンテストがあると、学内の日本語好きな学生が集まってくる。そこで、自分の前を行く先輩たちを見ることができる。私が担当する「日文(一)」クラスの学生も見に来ていた。(日文一はいわゆる0初級クラス)私と目があって「今日は見に来てみたんだ」というので「来年は参加したら」と言うと「うん、参加する」とやる気まんまんでこたえていた。

全体として雰囲気もよかった。最後の表彰で、優勝者に審査員の先生が「もう一度(朗読)やる?」と言ったら、みんなから「もう一度、もう一度」と声があがり、優勝した学生がもう一度朗読をした。その学生「いいの?」と言いながらも、紙を見ずに朗読を始め(すごい!)、途中ですかさず裏方の学生が紙を渡し、最後まで朗読を終えた。優勝した学生も、「もう一度」と言った観客も、機転をきかせた学生も、お見事!だった。

2011年10月18日火曜日

英語が役に立った(?)―3gaからMP3へのファイル変換―

元々、「役に立つ」とか「実用的」という言い方は好きではないが、昨晩、実感したこと。

スマートフォンで録音した音声ファイルを人に渡したかったが、ファイルを見ると3ga。これをMP3などに変換しなければいけない。ネットでフリーの変換ソフトをさがしたが、見つからない。音声系のフリーソフトは以前もさがしたことがあって、日本語でさがしていると見つからないが、英語でさがすと見つかることもある。今回も、検索ワードを英語にして検索、ほどなく見つかった。3gaの変換ソフトではなく、3gp→MP3の変換ソフトだったのだが、先にファイルの拡張子を3gaから3gpに変えておけばよいとのこと。すぐできて、問題解決。

ちなみに参照したページはここ
ダウンロードした変換ソフトは、3GP to MP3 Converter

実際、こんな検索は「英語」というほどのものではなく、3gaとかMP3とかはそのまま、後はカタカナ語を英語の単語に置き換えればできてしまう。あとは、少しだけ忍耐力を持って読めばいいだけのことだ。

思ったのは、「英語ができると世界が広がりますよ」「日本語のものだけ読んでいても狭い世界のことですよ」と言われても、私なんかが原文にあたって読むより、どなたかが翻訳してくれたものを読む方が、時間的に節約になったり、さらには内容の理解も深まったりする。だから、なんとなく「おっしゃることはわかりますが、でもね…」という気持ちがなくはなかった。

でも、こうやって目の前の問題を解決してくれると、「ああ、役に立った」と実感できる。
実際、他の仕事をしたかったのに、日本語ページをあれこれ検索し、使えないソフトを1つダウンロードしてしまい…などしてかかった時間は1時間弱。その後、英語に切り替えて数分で解決してしまったのだから、この差は大きい。

些細なことだけれど、こういう実感ももしかして大切なのかもと思った。

2011年10月13日木曜日

「団塊の世代」は男性を指すことが多い【授業メモ】

文章の中に「団塊の世代」という言葉があったとき、男性をイメージすることが多いと思います。

ずいぶん前になるが、非常勤で教えている大学に、日本から視察に来ていたN先生といっしょに食事をしてお話した。その時に、聞いたこと。

N先生は日本の大学の留学生センターで仕事をしている。

「団塊の世代」という言葉を聞くと、N先生はまず、男性をイメージすると言う。そう言われれば、私もそうだ。雑誌や新聞などの中で、「団塊の世代の○○さん」と書いてあったら、無意識のうちに男性をイメージしていると思う。そういう言葉の持つイメージを、学生に伝えたいと、「団塊の世代」という言葉が載っている文章を探し、それが男性をさしているか女性をさしているか、を学生に調べてもらった。結果は、「団塊の世代」は男性に言及していることが多かったとのことだ。

世代を表す言葉でいうと「バブル世代」や「団塊ジュニア」などがある。それらも、ある種のイメージがあるだろうと思う。また、感覚的に、ある時期に使われる「バブル世代」と、別の時期に使われる「バブル世代」とは、別の意味・イメージを持っているのではないかと思う。今の「バブル世代」は、40代半ばぐらいの年齢で、会社などである程度の地位を持つ世代になっている。今使われている「バブル世代」は、やはり男性を指すことが多いそうだ。私自身は「バブル世代」といわれてもあまり男性をイメージしない気がするが、「バブル世代」が今の歳になる前、もう少し時期をさかのぼって使われ方を見ると、使われ方が違うのではないかと思った。

「団塊の世代」、世代的にどの世代のことを言っているかということだけでなく、それが持つイメージ、使われる文脈などを調べるのは面白いと思った。

2011年10月11日火曜日

「いい文章」-自分の価値観

 いわゆる作文の指導をしている時に、「これって日本の国語教育っぽいな」と、自分の考えている方向について思うことがよくある。
先日も学生に「とても」以外に、「とても」を表す言葉はないか、と聞かれた。「非常に」とか「大変」なのだが、それも文体によるし…と説明したあとで、「『とても』を使わずに、具体例、様子の描写などをして表すほうがいい。」と話した。今担当している大学2年生の文章作成指導では、「具体的な記述」を一つのキーワードにしている。これは、思い返せば、私自身が教育を受けている過程で言われていたことだ。

ずっと前のことだが、非常勤で本務校以外の大学の授業を担当し、そこで出会った学生のこと。使っている言葉は、難しいものはないのだが、内容がわかりやすく、とても豊かで、「いい文章を書く学生だな」と感じた。本務校の同僚にもその学生の作文を見せ、「うちの学校にはいないよね、こういうタイプの文章を書く学生。」と言って、二人で感心していた。
その学生との授業は1学期だけだったのだが、学期終了後に、たまたまメッセンジャーで話をした。その学生が「文章を書くことにはずっと苦手意識を持っていたが、今回の授業は楽しかった。今までの学校生活の中で自分が書いた文章を褒められたことは一度もなかった。」と言っていた。それを聞いて、やはりどこか私の思う「いい文章」と彼らの受けた教育の中でのいい文章は違うのではないかと思った。

文章でもう一つ。履歴書につける自己PR文(台湾では「自傳」)について。人によっては日本語、英語、中国語の三つを書いて送るらしいが、どれも内容を少し変えるらしい。例えば、日本語で書くときは、自分の長所なんかは控えめに、短所もまじえて書く。でも、中国語で書くときは、長所はオーバー気味に、短所なんか書く必要がない…というように。
迷うのは、日本語で書くがその日本語の読み手は台湾人も日本人も想定されるような場合。どのスタイルを選べばいいのか…。

友人から聞いた話。うろ覚えだが、簡単に言うと、友人が書いた英語の論文を読んだ二人の先生が言ったこと。一人は「よくわかる」、もう一人は「わかるが、書き方がいまひとつ」。友人はオーストラリアで学んだのだが、「よくわかる」と言った先生はオーストラリア人、「いまひとつ」はアメリカ人だった。「英語論文の書き方」という言われ方をするが、「英語論文」のお作法も一つではないということだろう。

自分の価値観の押しつけになってはいないだろうか…。そういう疑問がいつも頭の中にある。解決策にはなっていないのだが、自分の持っている価値観を自己分析し、その価値観を言葉にして学生に提示する。とりあえずはそうやってしのいでいる。

2011年10月9日日曜日

「いつでもいいです」という礼儀[中国語]

少し前のことになるが、学生からアンケートに回答するように頼まれ、「いつまで?」と聞いたら「いつでもいいです」という答えが返ってきた。「じゃあ、来年!」と冗談まじりに返したのだが、その後、このやりとりを思い返してみた。

私が「じゃあ、来年!」と答えたのは、「いつでもいいです」という回答に違和感を感じたからだ。

私が思う、こういう状況での〈普通〉の会話では、
「いついつまでに必要なので、それまでにお願いします。」
という答えが返ってくる(はず)。

思い返してみると、何か頼まれごとをして期限を聞き「いつでもいいです」と言われたことは、今回が初めてではない。むしろ、何回もそう言われているのではないかと思う。今まであまり深く考えなかったが、何回もそう言われているということは、それは、
〈学生たちは〉そう答える習慣がある
と考えるほうが妥当だろうと思った。

ふと、以前書いた「あなたが決めるべきこと」を思い出した。
日本では家を訪問して飲み物を勧められたときに「何でもいいです」と答える人が多いが、これをやるとヨーロッパ人は「あなたが決めるべきことを何で私が決めなくちゃいけないのか」と怒ることが多い。
そんな内容の記事を読んだ後で考えたこと。逆の立場で学生に「何でもいいです」のような答えをされて、内心腹を立てたことを反省した。

以前も書いた、
「余計なことをお願いするのですから、先生の都合のいいようにしてください。」
この気持ちが、「いつでもいいです」にも出ているような気がする。そして、先生たるもの、常識を持っているので「来年」などということは言わない、という思いを持っている。
そう考えると、ちょっと大人気なかった自分が恥ずかしい…。

辞書を引かない英語多読-言葉の意味の類推-

前に書いた自律学習の発表討論会で、私は自分の100万語多読の学習について話をした。100万語多読は、①辞書は引かない、②わからないところはとばす、③合わないと思ったら途中でもどんどんやめる、という原則があるのだが、それについて、発表後に出た質問。
本当に全然辞書を引かなかったんですか?
私は1年と少しで100万語に到達したが、その間、辞書を引いたのは、確か2回か3回。多読のやり方が書いてある本には、「どうしても辞書を引きたくなったら引いてもいいが、読んでいる間に引くのではなく、読んだ後で引く」というように書いてあったと思う。そのとおりにした。(ちなみに、私は言われたことをきちんと守るような性格ではなく、英語多読の方法に関しては、私の性格、学習スタイルに合っていただけのことだ。)
辞書を引かないで意味がわかるようになるんですか?
わかるようになったのもあると思う。何度も同じようなところで出てきて(例えば「 」の後ろとか)、その他の文脈があると、あ、そういう意味かな、と思うこともある。
それから、カタカナ語として知っていたものが、英語で出てきて、あ、そうなんだ、みたいなものもあった。
色々意見があると思うが(科学的な研究もあると思うが)、個人的な感触としては、元々単語自体は知っているが使い方に慣れていないものに慣れる、というのが多読のいいところだと思う。いわゆる英語的な言い回し、に慣れる。それは語句の使い方もあるし、文構造みたいなのもあると思う。
私は英語文法は苦手意識があって、読んでいると、もうちょっと文法がわかればなあと思うことがあった。(高校の英語復習本を買ってはみたが、そう言えば、途中まで読んでその後読んでいない。)
多読だけで全てがうまくいく、という人も中にはいるかも知れないが、多読+他のやり方との併用がよいように思う。


【関連記事】
多読

2011年10月8日土曜日

台湾のことわざ その2

前回紹介した台湾のことわざの続き。

熊と虎を怒らせるより、気の強い女性を怒らせるほうが恐い。(惹熊惹虎,毋通惹著刺查某) [台湾語]
そのままの意味。「刺查某」が気の強い女。

一粒のねずみの糞だけで、一杯の粥がだめになる。(一粒老鼠屎,壞了一鍋粥)
僅か一つの悪いもののせいで、全部がだめになるという意味。

良い馬は後ろの道の草を食べない。(好馬不吃回頭草)
来た道を振り返らない。決めたことはどんなことがあっても、元に戻さない。普通は、破局した恋人ともう一度付き合うのは無理という意味。

二日で魚を捕り、三日で網を干す。(兩天捕魚,三天曬網)
魚は腐りやすいので本来は売る当日に魚を捕らなければいけない。二日で魚を捕って三日で網を干すのは怠惰で気が短いということ。今はそこから、やる気がなく持続力がない人を非難する時に使う。

2011年10月4日火曜日

ジャニーズ、アニメ、漫画、ゲーム以外に何かないのか?

「自律学習」にも関連するが、ちょっと考えたこと。

 アニメが好きで日本語を勉強するようになったとか、ゲームをしていて自然と日本語を覚えたとか、そういう話はよく聞く。私はアニメもゲームもほとんど興味がないので、その好きからどうやって日本語を勉強しようという気持ちになるのか、未だによくわからない。
 ジャニーズファンのパワーも驚くほどだ。私はジャニーズ系のコンサートに1度だけ行ったことがあるが、ファンというわけではない。実際、本当のジャニーズファンに会ったのは台湾に来てから。ある調査でインタビューをお願いした方がジャニーズファンで、そのつながりで2人インタビューの相手を紹介してくれた。喫茶店に来てもらい順番に3人にインタビューをしたのだが、久しぶりに会ったその3人は、インタビュー後の雑談で、興奮した様子でジャニーズについて語っていた。私は話にはたまに参加する程度だったのだが、会話は全て日本語。気をつかってもらっているのかと思いきや、私が先に帰ると言った後も、台湾人3人で日本語でジャニーズ話を続けていた。その後もたくさんのジャニーズファンに会った。日本語が上手だなと思うと、後でジャニーズファンだと言うことがわかり、「やっぱりね」と思うようになった。

 前置きが長くなったが標題の件である。学習言語で何がしたいかや、何か興味があることがあると学習が促進されるというのはよく言われること。ジャニーズやアニメ等はそのいい例だ。ただ、ジャニーズやアニメにはのれない学生も多くいるだろう。
 大学で日本語主専攻の学生には元々日本語には興味がなかったけれど、入試の結果で日本語学科に入ることになったという学生がいる。また自分は他の学科に行きたかったけれど、親に言われて日本語学科にしたという学生もいる。そういう学生が、周りの熱意ある学生を見て、自分でも何か好きなことを見つけて勉強したい、と思ったときに何があるだろうか。実は、わりと心にひっかかっていて長いこと考えているのだが、思いつかない。
 何でもいいと言えばもちろんそうなのだが、「何でもいいんだよ、好きなことで」と言われて、「はいそうですか。じゃあ…」と考えられるのなら、学生も苦労しない。元よりそんな学生は人に相談なんかはしないわけで、私が相手にするのは「何でもいいと言われても見つけられない」という学生だ。
 去年担当したクラスの学生に「源氏物語が読みたいけれど、何か読みやすいものはないか」と聞かれたことがある。その後話していてわかったのだが、「日本語を理解したい。日本語の奥にある考えを理解したい。そのためには古典を読むべき。」と思って、古典の代表作として源氏物語を読みたいと思ったようだ。古典を読みたいっていうのなら「徒然草」や「枕草子」のほうが読みやすいと思うよ、と言ったら、「じゃあ、読んでみます」と言っていた。そういう風に考える学生もいるんだなと、その時思った。これも「何か」の一つではある。
 合わなかったら次!ぐらいの軽い感じで考えられるように、10ぐらいはリストの準備をしておきたいなあ。

2011年10月3日月曜日

台湾のことわざ

作文のクラスでことわざ紹介を書いてもらった。面白かったので、いくつか紹介。

お金は足が四本、人は足が二本。(錢四腳,人兩腳)[台湾語]
足が四本のほうが走るのが速いので、お金に人は追いつけないお金を稼ぐのは難しいという意味。

牛は北京へ行ってもやっぱり牛。(牛牽到北京還是牛)
人の本性は変わらない。

イタチが鶏に年始の挨拶をする。(黃鼠狼給雞拜年)
イタチは鶏の天敵。イタチが鶏に挨拶するというのは実は食べたいと思っている。心に陰謀があることのたとえ。

ニワトリの腸、鳥の腹。(雞仔腸,鳥仔肚)[台湾語]
ニワトリの腸も鳥の腹も両方とも小さいことから、ケチのたとえ。


紹介することわざは「動物」「数字」が入っているもの、という限定をつけたもの。[つづく]

2011年10月2日日曜日

第二外国語の「日本語」が目指すもの

前に書いた発表討論会でのこと。「日本語自学ハイウェイ構想」の発表の質疑応答で、高校で日本語を教える先生から「ハイウェイ構想をどう高校の日本語に応用していけばいいのか」というような主旨の質問が出た。(何とおっしゃっていたかは、うろ覚え。でもこのような内容だと私は理解した。)
その後も、みんなの自由討論で、「持続的な学習をしていくには…」のようなことを話していたときに、高校の先生や、大学でも第二外国語担当の先生からは、「自分の現場とは離れている」というような主旨の話が出た。(と思う。)
 私は高校で教えたことはなく、先日の発表で高校での授業時間数は60-64時間ぐらいというのを聞き、改めてその時間数だと「何をしたらいいんだろう…」という気持ちになるだろうと思った。すでに書いたが、私も大学の第二外国語で「ここは何をすると考えればいいんだろう」と考えたことがある。

 台湾で日本語を学んでいる学生で、「仕方なくやらされている」という状況はよくある(私の知るところでは)。私の以前の勤務校は「日本語を履修しなければならない」学生ばかりの状況だった。もちろん好きで学んでいる学生もいるが、ずっと「なんでやらされなきゃいけないの」と思っている学生もいる。
実際、「日本語」を勉強しなければならない理由など、ない。履修しなければならない状況に置かれている学生は、学校が開講していたのが「スペイン語」ならスペイン語を、「ドイツ語」ならドイツ語を勉強していたのだろうから、例えば、ひらがな五十音を覚えなければならない理由などない。

私の勝手な思い込みかもしれないが、台湾では外国語はまず英語、そして第二外国語としては日本語がかなり主流であったように思う。二番手の日本語はわりとゆるぎなく二番手だった。先日、高校で教えている教員に聞いたのだが、彼女が教えている高校は今までは第二外国語は日本語だけだったが、新たにスペイン語など他の言語も取り入れられ、教員としての彼女は授業時数が減ることになってしまった。(元々は専任教員だったのだが、授業時数が足りないので専任扱いにはならないとのこと。詳しい事情はよくわからないが、私が高校の教員だったら、かなりあせるような状況だ。)たぶんそういう状況は今後も続いていき、ゆるぎなかった二番手の日本語は、その位置が変わっていくのだと思う。

最初に書いた「自学ハイウェイ構想」を高校の日本語にどう応用していくかであるが、私は大学の日本語主専攻と高校の第二外国語とは、違うように思う。ハイウェイ構想の比喩を借りるのならば、大学の主専攻日本語は運転免許を取得し車でどこかへ移動することが目的であるが、高校一年生(第二外国語は一年や二年次に履修するようになっていることが多いらしい)に、運転免許を取得させることはできないし、じゃあ、全員に原付の免許を取得させようというと、別に原付免許なんていらない(台湾ではそうでもないかも知れないが、日本では)という人も多いだろう。もう少したとえを続けると、そこであり得るのは、たぶん、交通ルールを理解したり、車を運転している人の視点や視界を理解して、自分が歩行者としてや自転車に乗る際に交通事故をどう避けるかなどの、安全教習的なものだと思う。
話を戻すと、高校の第二外国語での目的は、「日本語」を習得することそのものにあるのではないだろう。発表討論会の高校の先生の発表原稿を見ると、高校の第二外国語の位置づけは「培養興趣的科目」(教養科目、興味関心を育成する科目)とある。「興味関心を育成する」と勝手に訳したが、興味関心の育成はなかなか厄介だ(日本の小学校の英語教育の悩みと共通するところがある気がする)。しかし、大事なことは、たとえどんな言語を学ぶにせよ、共通した目標がそこにはあるはずだ。少なくともそういう前提に立たなければならない。
発表討論会の中で引用した 
我々は長いこと「言語」という枠にとらわれすぎていたのではないだろうか。学習の楽しみとは?学習の成果とは何か。
ここを本当に真剣に考える必要があるのだと思う。そしてそれは、どんな外国語でも共通するものであり、そこから、じゃあ日本語の例で考えると…、というのが第二外国語教育なのではないかと思う。

これまた全く知識足らずの可能性もあるが、今は、「大学での日本語教育があって、高校の日本語教育があって…」という繋がりで捉えられている気がする。それもそれでよいが、高校のいろいろな外国語担当の教員が繋がっていく、そこでいっしょに考えていく、という繋がりも必要だと思う。そして、ゆるぎない二番手だった日本語の教員が、今までの蓄積された知恵や悩みを元に、リーダーシップをとっていけたらよいなあと思う。