2010年11月23日火曜日

学習支援と自律学習[中国語レッスン]

こないだから、中国語の作文レッスンを受けている。これがとっても楽しい。教師として、学習者の気持ちが実感できる、自分の作文が直されることで私が学生の作文を直すときに思っていた疑問が解決する、などもあるが、とにかく、純粋にとても楽しい。

この中国語レッスンは、K先生の「分科教学法」という授業で、学生たちが中国語学習支援[教育]を行っているものに、参加させてもらっているものだ。学生たちはチームを組み、学習者の要望を聞いて、学習プログラムを作っているらしい。私は「中国語で、日本語学習者に、ネット上の役立つリソースをブログのような形で紹介したい。その文章を書けるようになりたい。」という要望を最初に伝えた。レッスンは、メールでの課題の受渡しと、週1回のスカイプでの対面レッスン(約1時間)である。

きのう3回目、スカイプのレッスンがあった。

これまで書いた作文は、自分が希望した「ネット上リソース紹介」の作文もあるが、先生側から出された文章の要約や、「台湾の印象」「私の故郷」というテーマの作文。先生側から出されたものは、自分が書きたいと思っている文章とは、傾向もジャンルも違うのだが、それはそれで、自分の書けない文がどういうものかよくわかって、いいかなと思っていた。

きのうは、レッスンの最後に「これから5回レッスンで、最後にテストをします」と言われた。

え~テストですか!と最初聞いた時には、「ひゃーどうしよう」と思ったが(思っただけでなく、そういうリアクションをしたので、先生側には思いっきり笑われた。ほんとに、職業、教師のくせにうろたえるなんて情けない)、「 この授業でどれぐらいできるようになったか知りたいので」と言われて、「そうだよね。」と納得。

その後「テストのやり方を相談したいんですが。私たちの提案は、最後に、教材の紹介の文を書いて、それがいいかどうか見たいです。いいですか。」と言われた。
「もちろんいいですよ。」と言ったあとで、こちらも
「どうやって評価するんですか?」と聞く。
「読んで、役に立つと思うかとか…」と言うので、じゃあ、と言って、その後は先生側に質問、要望をした。

きのうのこのやりとりを思い返してみて、実に興味深い、と思った。まとめると、
1、まず、テストを設定することによって、先生側も学習者側もレッスンのゴールを共有することができた。
2、どう評価されるかを聞いて、より具体的な課題が見えてきた。
3、 疑問点を先生側に聞きやすくなった。

ありきたりなまとめになってしまうが、「これって、自律学習と学習支援だ」と思った。

私は当初「 ネット上のリソースを紹介する文章を書けるようになりたい。」という希望があったのだが、他の文章を書いているうちに、「これもいいかな」と思っていた。無駄な学習はない、と言えばそうだし、だからこそ「これもいいかな」と思っていたのだが、テストが設定されたことによって、本来の目標に戻ることができた。これはよかったと思う。たぶん、このまま他の文章を書き続けていたら、それはそれでよかったけれど、自分の当初の目標は、ほとんど解決されずにいたと思う。レッスンが終わっても当初の課題が残ったままで、不満とまではいかないが、物足りなさを感じていたかもしれない。

私とこのレッスンの先生とは、このレッスン以外では、私が教師で先生側は私の学生という関係にある。気にしなくてもいいのかもしれないが、「あんまりああだこうだ要望しても申し訳ないなあ」とか、「あっちも授業で教育活動について実習しているので、私の要求をはいはい聞いているだけではつまらないだろうな」とか、妙な遠慮があって、私はあまり色々なことを言えないでいた。 でも、テストとその評価を聞いて、「じゃあ」ということで疑問、要望をぶつけることができた。以下、私がした質問と要望。

1、[質問]学習者の立場として、どんなWEBリソースを知りたいと思うか。
「聴解」と言われたので、私が最初に書いた文章(ラジオドラマ)は、方向としては間違っていなかったということがわかった。私自身も、聞けるリソースを紹介したいと思っていたので、それはよかったと一安心。

2、[質問]私が最初に書いた紹介の文章を読んで、そこに紹介されているものを利用したいと思うかどうか。
「うーん」と即答をさけていたので「わかりました。いまいちってことですね。じゃあ、どうしたらいいですか。」と質問。そこででてきた答えは、
A、ラジオドラマのストーリーについて、もっと書いてあるといい。
B、全体のストーリーの紹介があり、その他に、第一話はどんな内容、第二話は…というように、それぞれの内容の紹介もほしい。
おお、了解。全体のストーリーの紹介は少し書いたのだが、それでは足りないということだ。あまり全部を書いたら聞く楽しみがないかなと思ったが、自分の英語多読の本選びでも、詳しく書いてあるほうが興味が増すと思ったことを思い出した。(例えばアマゾンの本の紹介だけでは物足りなく、レビューの中にストーリーについて詳しく書いてあると読んでみようかなと思った。)

3、[質問]まじめな文章とか友だちみたいな文章とか、文章の雰囲気があると思うけれど、中国語にもありますよね。どっちがいいですか。
「友だちみたいな文章」という答え。それはそうだよねと思った。

4、[疑問]私が以前書いた文章を友だちみたいな文章にするには、どうしたらいいですか。
「助詞」を使うこと。

5、[要望]私が書きたいような、WEBリソース紹介の中国語の文章をみたい。

6、[要望]私が書いた文章を友だちみたいな文章に直してほしい。

以上がきのうのだいたいのやりとりだ。
今回のレッスンでは、自分の書いた文章を直してくれる人がいる、というのももちろん大きいのだが、こうやって、書いた文章についてフィードバックをもらい、今の自分の文章力に足りないところが見つけられるというのも、とても大きい。

こういう学習支援、ほかにもやってほしい人が大勢いるんではないだろうか。

2010年11月21日日曜日

会話か聴解の教材アイデア(映画の予告編)

さっき、むらログの「最近の映画の予告編を集めてみました。」のページを見て、思い出したこと。

「ドラマの内容を語る」というようなことを、会話や聴解で教材にしたいと同僚などとも話していたのだが、なかなか実現できないでいた。考えたのは、内容は知っているが日本語タイトルはわからないドラマを、相手に内容を説明してわかってもらう、というシチュエーションを考えているのだが、こういうのは、実際に会話をしてみると、相手の知っている知識を利用しながら話していることが多い。ストーリーをいくら上手に説明したところで、相手がそのドラマのことを全然知らなかったら、あまり会話にならない。(というより、寂しく会話が終わってしまう。)全ての人が知っているようなドラマなら、大した説明も必要なく簡単にわかってしまうし、知っているか知らないかわからないようなドラマは、もし知らなかったとしたら、あまり理解ができない。だから、教材作成には難しいと思っていたのだ。

でも、こういう会話、実際には本当によくある。(少なくとも私はよくする。)日本のドラマや映画だけでなく、ハリウッド映画などでもそう。日本のハリウッド映画のタイトルは英語がそのままカタカナにされているが、台湾では翻訳されているので、元の映画のタイトルは知らない、という学生も多い。俳優の名前もよくわからないけれど、ストーリーはわかる。そうなると、「あの映画面白かったよ。」と言って、内容を説明し、「ああ、私も見たいと思ってた。」とか、「あ、こないだ私も見た。」なんていう会話を何度したことか。

だから、なんとか教材化できないかなあと、ずいぶん考えていたのだが、なかなかよいアイデアがなかった。

だが、映画の予告編を利用すれば、できるかもしれない。映画の予告編を見てもらって、その中で自分が見たいのはどれか、みたいな状況であれば、なんとかできるのではないかと思う。共通理解部分として、映画の予告編が使えるのだ。

これ、以前にも思いついていたのだが(その時もむらログのページを見てだったような気がする)、すっかり忘れていた。思い出した今のうちに、教材化の相談を始めよう。

2010年11月19日金曜日

とりあえず言ってみる「交渉社会」

 以前、日本から台湾に遊びに来た友人が言っていたこと。「台湾は交渉社会だと思った」。
いくつかエピソードがあるのだが、その一つが、レストランでのこと。レストランに来る前にデパ地下でお刺身を買ったので、行った先のレストランで
「できたらこれ、お店の冷蔵庫にいれておいてもらえませんか?」
と聞いたところ、その店はベジタリアンのお店なので、
「中に魚が入っているので悪いけどできません」
と断られた。
そのやりとりを見ていた友人は、「店の冷蔵庫に入れてくれるように聞く」のもびっくりだし、「店員もとりあえず店長に聞いてみる」のもびっくりだった、ということだ。

これは、今日、台湾人の友人から聞いた話。
日本人の友人と台湾の新幹線に乗ろうとした時のこと。駅構内の7-11で買い物をしていたら、新幹線の出発時間ギリギリになってしまい、慌ててホームに行こうとしたのだが、エレベーターがなかなか来ない。(荷物が大きかったのでエレベーターに乗ろうとしたらしい。)結局、ホームに着いたら乗ろうと思っていた新幹線は出発してしまって乗り遅れてしまった。
エレベーターには、別の中年男性も乗っていて、その人も友人たちと同じ新幹線に乗るはずだった。その男性が、乗り遅れた後に駅員をつかまえて言ったことには
「エレベーターがなかなか来なかったから私が乗るはずの新幹線に乗り遅れた。駅ではちゃんと係員が乗客を誘導するべきだ。私が乗り遅れたのは駅側の責任だ!」
簡単に言うと、こういう内容だったらしい。
結局、その男性の主張が通り、乗車券を次の列車に換えてもらうことができた。もちろん友人たちもいっしょに。
それを見ていた日本人の友人、
「乗り遅れたのを駅のせいにするなんて、有り得ない…。」

台湾人の友人は、
「台湾ではそういうのよくあるけど、日本ではあまりないですね。」
それを聞いた私は、
「でも、そういうの言っても、相手にだめって言われたら、わりとすんなり引っ込むことも多いよね。」
友人「そうですね。」

思えば、よくある気がする。私自身も学生から
「この授業がなければ午後授業がなくて自由な時間になるから、授業の時間を変更してほしい。」
みたいな要望をうけたことがある。
最初に聞いたときは、「おいおい、そんな理由でか!」と思ったものだった。何回かそういう要望を聞いていると、こっちも慣れてきて「疲れるからやだ」みたいな理由でも、相手は「じゃあ、いいです」と引っ込んでくれるので、気軽に聞き、気軽にお断りすることも多い。

そう、とりあえず、言ってみる。だめだったらあきらめる。そんな感じなんだと思う。

私が暮らしていた日本社会では、相手に絶対的な非があると思ったときにしか相手のことを責めないし、自分にどうしても、という理由がなければ要望を言ったりしない。そうなると、相手に聞いてもらえないと、激怒するか、困り果てるか、で、相手に対する不満が残ることが多い。

とりあえず言ってみる社会に慣れてしまうと、そのほうが楽な気がする。



(前述の新幹線での男性の交渉は「壓下去〈プレッシャーをかける〉」なのだそうだ。とりあえず、相手にプレッシャーをかけ、自分を優位に立たせておいて、それから交渉に臨むということらしい。)