2011年12月27日火曜日

私のメールはとても怖かった!-語助詞重要!-[中国語レッスン]

中国語レッスン4回目で最終日。今日は「語助詞」の練習だった。
 担当教師が用意してくれたプリントに沿って説明を受ける。説明はわかるけど、使えるかなあ…という疑問が頭の中に浮かびながら、進む。そして、最後に練習問題。「また授業を欠席した学生にメールする」というもの。実際にそういうメールは書かないと思うが(私ならわざわざメールしない)、でも、似たような状況は絶対起こるだろう!と思える状況。
 まずは、内容を先に考える。これも少し時間がかかったが、なんとか考えて、とりあえずスカイプのチャットで送ってみた。それに対してもいくつかアドバイスがあって、次は、その文に「語助詞」をつけないといけない。
 用意してくれたプリントの説明と例文を見ながら、つけられるものを探していく。途中で、私が書いたどの文に「語助詞」がつけられるかを教師に確認すると、私がつけられないと思っていたものにもつけられるとのこと。あ、そうか…。結局、自力でつけられたのは一つだけ。あとは、教師に教えてもらった。やはり、理解するのと、自分で使うのとの差はまだまだ大きい…。
 でも、やっとこれで、メールの例文を手にすることができた。これは大きな成果!これとプリントとにらめっこすれば、今後、なんとかやっていけるような気がする。
 「ちなみに、語助詞を全くつけなかったメールはどんな感じ?」と聞いてみると「うーん、人によるけど…」と言われ、「じゃあ、このメール受け取ったとしたら、どんな感じがすると思う?」と聞くと「壓力很大(すっごいプレッシャー)と答えが返ってきた。

人物:王小明
事情:又再一次缺席老師的課程

王小明同學你好:
你最近還好嗎?
因為你這禮拜也沒來上課,我有一點擔心你
你下禮拜如果再缺席的話,可能你沒辦法參加考試
如果你有什麽問題的話,來辦公室找我討論
上の太字の部分が「語助詞」。これがなくても意味は相手に通じる。「語助詞」があるのとないのとでは、受ける感じが全然違うらしい。
 書き方によっては、「語助詞」がつけられないことがある。例えば最後の部分は
如果你有什麽問題,可以跟我講一下。
と書いていたのだが、どうやら「一下」だと「語助詞」がつけられないので、上記のように書き方を変える必要があった。

 この4回の中国語レッスン、私にはとても収穫が多かった。そして、たくさんプリントを用意してくれて、今後、これは私の大事な参考資料になると思う。担当教師が「とても大変だった」と言っていたけれど、本当に時間をかけて作ってくれたのだなというのがわかるものだ。
感謝!!!

2011年12月24日土曜日

【本】「あなたの話はなぜ「通じない」のか」の方法をやってみた

あなたの話はなぜ「通じない」のか (ちくま文庫)
あなたの話はなぜ「通じない」のか (ちくま文庫)山田 ズーニー

作文の授業でこの本に書いてある方法を学生に紹介し、少しやってみた。結果はどうなるかわからないが…。

なぜこれを使ったか。私が読んで腑に落ちたこと、実際にやる方法が書いてあったこと、実際にやってみて考えが整理されたこと、等が理由だ。

読んでいてまず、「そうだよね」と思ったところ。
たとえば、高校生が「命」というテーマで20枚の論文を書く場合、問いが立たない頭では、とうてい字数が持たない。
「自分は問いが立たない、思考停止だ」と自覚していればまだいいのだが、多くの生徒は自分の意見がないという空白に耐えられない、何かで埋めようとする。
それでどうするかと言うと、凶悪殺人とか、無差別テロとか、わざわざ極端に悪い例を、引っぱってきて裁くのだ。「命」とお題を与えられて、「凶悪殺人」を持ち出せば、それは誰でも「悪い」と意見を言える。だがそれは、その生徒が心から言いたいことではない。
意見が言おうとして言えないために、わざわざ極端に悪い例を引っぱってきて裁く。
この論法を私は「悪魔の小論法」と呼んでいる。悪魔だって、呼び出さない人の前にはそう簡単に現われない。それをわざわざ探しにいくから悪魔の小論法。(p.66)
こういうのは、本当によくある。自分もやってしまいがちだ。

今回の作文の授業では、予め2人が書いた同じテーマに対する意見文を提示し、その元テーマに対して自分の意見を書く、という課題設定にした。この意見文だが、去年「気になるニュースを紹介し、自分の考え、思いを書く」という課題の際に、学生から提出された文章。たまたま、同じニュースを2人が選び、さらに、2人の意見が全く異なっていた。去年、それを発展させたいと思っていたのだが、実現できずにいて、今年利用させてもらうことにした。

この本の中では、色々なるほどと思うところがあったのだが、利用させていただいたところ。(+授業の流れ)

意見となぜ(p.48)
「意見となぜ」は、論理的なコミュニケーションの大原則だ!
考える道具→問い
「問い」という言葉は学生には慣れていないものなので「質問」に変えた。(授業で学生と話していて「疑問」にしたほうがよかったことに気づいた。)

問い発見の手段として2つが載っていたが、授業では「とにかくたくさん問いをたてること!一人最低15個!」と言ってやってもらった。実際、授業にネタを持っていく前に自分でもやってみたのだが、なかなか面白かった。学生はみんなうなりながらも考えて書いている。一つも書けない人は「思考停止」と本に書いてあります、と言いながら黒板に「思考停止」と書くと、みんな苦笑。(もしかして、「思考停止」という言葉の印象が中文と日本語では違うかも…。)
15個書けたという学生はいなかったが、10以上書いている学生は数人いた。だいたい7、8個書いた学生が多い。結構面白い問いもあったので、何人かに発表してもらった。自分が書いたものと違うのがかなりあるでしょ?と言うと、うんとうなづく学生たち。

問題発見力、多角的考察力、論理的思考力(p.85)
これが「問い」で説明できて、納得が言ってしまうのがこの本の最もいいなと思った部分。
この三つ、大事だってよく言うよね、と言うと学生も「うんうん」。
問題発見力→「問い」を発見する力。
多角的考察力→さまざまな角度から問いが立てられること。
論理的思考力→「問い」と「問い」を筋道立てて配列する力。

どうやって問いの視野を広げるか(p.76の図)
ここまで来て、ほぼ時間がいっぱいいっぱいになってしまったので、最後にこの図を紹介しておしまいにした。学生の「問い」はいくつかのカテゴリに分けられたのだが、それを示した後、いくつか発展的な問いがあったので、それってこれだよね、という感じで説明。

さあ、どんな文章を考えてくれるのだろう。こんなことを1回やっただけでどれだけ使えるか分からないが、少なくとも、困った時に取り出してくる道具にはなってくれるはず(と思いたい)。

山田ズーニーの本はなんどか買いたいリストに入れていたものの、本屋にとって手にとって、まあ今はいいかな、と買わずに帰ることが何度もあった。それを何度か繰り返し、なぜだか忘れてしまったが、前回ついに購入。買ってよかったと思った本。


2011年12月23日金曜日

聴解自律学習サポート4 学生の声(中間報告から)

学生に「計画通りに学習できているか、学習している感はあるか」等の質問に答える形で、中間報告をしてもらった。(この自律学習サポートの始まりについては→聴解自律学習サポート)そこから気づいたこと。

1、計画通りにはいかない
多くの学生が、当初の計画通りには進んでいないという回答。自分の計画が「現実的ではない計画を立てていた(太理想化)」「最初、全然やらないでこれではだめだと思い始めた」「夜疲れてしまってできなかった」等々の記述。
学生の計画書を見た時点で、「できないだろうな」と思っていたが、予想通り。でも、一度計画作成に失敗することも必要だと思う。自分がどれだけできるか、自分のことを知るのも、やってみなければわからない。
自分の計画していたことが「こんなに時間がかかるとは思わなかった」というのもあった。ドラマを聞いて、わからない単語を調べて…というのをやるのに、ものすごく時間がかかり、当初思っていたほど、「聞いている量が少ない」とのこと。文字起こしをしたことがある人なら経験済みだと思うが、聞いたものを書き取るというのは、予想以上に時間がかかる。こんなに時間がかかるの?と、私も最初は驚いたものだ。たぶんそれと似た感覚だろう。

2、学習に対する疑問
・この練習方法でいいのか
・このやり方だと量があまり聞けないが、これじゃ少ないんじゃないか
・好きなものだけ聞いていていいのか(偏っているのではないか)
・時々、何をやっているんだろう???と思ってしまう(こんなやり方で勉強になっているのか)
・聞いたものを書いているが、自分が書いたものがあっているのかわからない。


3、学習している感はあるか
これについては、思った以上に「ある」の回答が多かった。(まあ、教師に向けて書いているからというのもあるかも知れないが)ああよかった、と思ったのが、「以前はTAと会話していてわからないことが多かったけれど、それがわかるようになった。効果ある!と思った」という記述。別のところで効果があることを実感できるのは嬉しいものだ。

 疑問点等を書いてきた学生には、授業の休み時間等にひと通り聞いてみた。報告を出してもらってから2週間経ってしまったので「最初は全然わからなかったけれど、今は慣れてもう大丈夫」という学生もいた。最初はわからなかったが、慣れるとわかってきた、という学生は上記3の項目の中でも書いている学生がいた。
ニュースを聞いている学生は「言っていることはわかるのだが、流れみたいなものはよくわからない。」と言っていた。たぶん、私が英語を読んでいる時に感じたことと似ているのではないか、と感じた。一つ一つはわかるのだが、段落のつながりや段落を超えて全体を通して何を言いたいのか、というのはまた一段上の理解の気がする。
 
 今まで、リソースの情報を提供することばかりに私の関心があったが、学習方法についても情報があったほうがいいと強く感じた。それは、私が英語多読をやっていて助けられたこととも関係がある。英語多読の場合、本1冊リソース情報と学習方法について書いてあり、よく読んでいた。よくある挫折感、できない感にどう対処するかや、学習の今後の見通しなども、ある程度は情報として提供できると思う。そういうことも、リソース情報の提供と同じくらい、いやそれ以上に必要だと感じた。
 計画通りに行かない、ということについてもどう対処するか。Sapotaのようなサービスが中国語ネットでないかとさがしてみたが、うまくさがせなかった。twitterは学生がほとんど使っていないので、Sapotaは使えない。学生が普段アクセスするFacebook等を利用できるものは何かないのかなあ。学習記録のつけ方をスマホのアプリでさがすとか、何か考えたい。

2011年12月18日日曜日

「吧」の間違いに冷や汗![中国語レッスン]

中国語レッスン3回目。「語助詞」の使い方と私が書いた手紙の添削をしてもらった。
 「語助詞」語気助詞とも言うが、とにかく私はこれがメールの中で使えなくて困っていた。これがなくても意味は通じるのだが、でも、これがないとなんともぶっきらぼうな感じがするはず、とずっと思っていた。
 担当教師が、今日も丁寧なプリントを用意してくれて、それに沿って解説。意味はだいたいわかるんだけど、とは思っていたが、整理されたのを見ると、ああ、こういう時に使えばいいんだ、と改めて納得できた。

例えば、
1、「囉」→話の終わりの時につける。
これは、まったく使ったことがなかった。話の終わりというのはわかりやすいので使えると思う。
2、「呢」→質問文の時につける。
質問文でこれがないと、やはりぶっきらぼうな感じになるということだ。今まで何度やっていたことか…。

 次の「吧」の説明のところで、えっ?ちょっと待てよ。
 私はこの「吧」は、勝手に日本語の「でしょ?」のような意味合いで使っていた。でもプリントの例文を見ると、疑問文の最後にこれをつけると「不耐煩」とか「無奈」とか、とにかくあまりよくない意味合いが書いてある。担当教師に「疑問文に吧をつけるとよくない意味になるの?」と聞くと、うーんと考え、そうだ、とのこと。私がうろたえていると、「なんか例を言ってみて」と言われたので、つい最近前の学生に出したメールに使った気がしたので、その例を挙げた。私が使った例は、学生といっしょに食事する約束でいつにしようかという時に、「週末は確か(あなたは)授業があるよね」のような感じで「吧」を使ったのだ。それを聞いて担当教師「うーん、確かにそれはあんまりよくない感じになる」とのこと。
………かなりの衝撃、冷や汗……。「でしょ?」と言いたいときには「吧」ではなく「對吧」を使えばいいと教えてくれた。

 次は、手紙の添削。教師の助けを借りてなんとか書き終えることができた。この手紙では、去年中国語レッスンで習った「當」を使えることができたのは、自分としては嬉しかった。それ以外では、途中、内容が少なすぎると言われたので、いろいろ考えて書き足したものが、ほぼそのまま使えたのも「おお」という感じ。それでも、書き終わってどっと疲れた様子の私を見て、担当教師が「上達したよ」と言ってくれた言葉の嬉しかったこと。お世辞でもなぐさめでも、それでも言ってもらえると嬉しいものだ。(私は教師としてちゃんと「ほめ」ているかなと反省した。)

 来週は、最後のレッスン。私が使えない「語助詞」について、担当教師も私からのメールを何回か受け取って、そのことがわかったらしい。私がぶっきらぼうな感じがする、というのを「ああ、わかる」と言っていた。次週は「語助詞」の練習問題を用意してくれるそうだ。楽しみだ。

グーグルピンイン入力-「中英切替」と「読点入力」-

 何を触ってしまったのかわからないが、言語バーの「中」のところが「A」になったままで、押しても押しても「中」にならない。「A」は英文字入力なので、このままでは中国語入力ができない。あっちこっちさわっても、どうにもならず、結果、アンインストール、再インストール。それでもだめ。今度は、「自分の設定を残す」のチェックをはずし、もう一度アンインストール。再インストール。…………。これを3回繰り返し、はたと思いついた。もしかしてCapsLock?ピンポーン!何かの拍子にCapsLockキーを押してしまったようで、CapsLockを解除したら、無事に「中」が表示され、中国語入力ができるようになった。(今思えば、「中」のところをクリックして英文字入力した場合は「英」と表示される。「A」となった時点で、CapsLockが原因だったということか??)
 時間のかかったわりにあっけない解決であったが、途中あれこれグーグルピンイン入力をいろいろいじっている間に、わかったことがあった。
 
 普段、便利に使っているグーグルピンイン入力であるが、一つだけ不便に感じていることがあった。それは、少し前にブログにも書いたが(メールの書き方-たかが:、されど:-[中国語レッスン])「、」の入力ができないこと。中国語は「、」と「,」の二つの読点があって、これを使い分けている。普段はそんなに使うことはなく、一つですんでしまうのだが、それでもたまに使いたい状況が出てくる。

 さて、私が見つけたのは、この「、」を打つ方法。言語バーの一番右にある丸型の記号をクリックするといろいろ選ぶことができる。その中から「軟鍵盤」を選ぶと、これまた選択肢がいろいろ出てくる。どれかを押すと、キーボードが表示され、読点やら記号やら入力できる文字が出てくる。「、」を入力するためには、「標點符號」(簡体字表示なので私には少し読みづらかったが)を選ぶと、その中にある。そう言えば括弧も( )「 」以外は入力できないなあと思っていたが、それもこれで解決。
 
 その後、もう一つ。日本語入力だと、括弧は「かっこ」と入れると括弧の種類が表示されて便利だ。もしかしてと思って、ピンイン入力で「點」と入力したら、「丶」が出てきた!しかし、これが、微妙に違うように見える。フォントを大きくしてみると、やはり、微妙に違う。うーん、これはなんだろう??とりあえず、今後は、「軟鍵盤」で読点を入力することにする。

 私は台湾の注音は読めるが書けるほど覚えていなかったので、グーグルピンイン入力に出会うまでは、中国語入力にかなり苦労していた。うろ覚えの注音を使う、日本語で入力する、中国語のホームページから単語をコピーする、とにかくどれをとっても面倒なことこの上ない。そんな状態でも学生とMSNでチャットしていたこともあったのだから、今考えれば驚きだ。グーグルピンイン入力は私の中国語の世界を広げてくれた、というのは言い過ぎかもしれないが、そう言いたいぐらい影響があった。中国語入力が楽になり、まずネット検索をよくするようになった。メールも書くようになり、プリントに中国語を入力することも多くなった。
 よくここまで来たもんだな…と思った今日であった。

2011年12月16日金曜日

初級の会話で使える「~という」表現

今日見て「そうそう、そうなの」と思ったブログ記事。
“ミソカレギュニュ”ってなんだ???(台湾で日本語を教える毎日)

そこに書かれていたのは、学生の紹介でありがちなのは、
青森で有名なのは“ネブタ”と“アスパム”と“ミソカレギュウニュウ”です。
という言い方。それを
青森で有名なのは、①「ねぶた」という【祭り】        です。
②「アスパム」という【観光ビル】
③「みそカレー牛乳」という【ラーメン】 
のように「~という」を使って説明させるようにした、というもの。(とまでは詳しく書いていなかったが、私はそう理解した。) 

この「~という」の表現、初級の教科書ではあまりみないのだが、私も初級の会話の教材によく使っていた。初級の会話では自分の身の回りのことを表現する、ということを目的にしていたのだが、自分の出身地を話すのにしても、好きな食べ物を話すにしても、中国語まじりになってしまうのは避けて通れない。
台湾の地名では「台北」を「たいほく」と書く教科書もあれば「タイペイ」と書く教科書もあるのだが、それはどっちでもいいとして、じゃあ「嘉義はなんて言うんですか?」と聞かれて「かぎ」と言おうが「ジャーイー」と言おうが、その地名を知らない人にとっては何のことだかさっぱりわからない。はっきり言って、言い方などどちらでもいいのだ。「嘉義というところに住んでいます」と言ってはじめて、「嘉義」が地名のことだと理解してもらえ、「嘉義」がどこのことだかわからなくても、とりあえず、分かった気になって次の話を聞こうと思えるのだ。
食べ物についても、一つ一つ日本語に翻訳していくことなどできない。だいたい翻訳したからと言ってわかってもらえないことが多いだろう。「~というデザート」なのか「~という果物」なのか「~という食べ物」なのか、の区別をつければ少し前に進める。食べ物については、それを簡単に説明する方法として「~みたいなものです」という言い方もやったことがある。詳しい説明ができるレベルの学生なら、簡単な説明を練習するのだが、それもできないとなると、とりあえず「~みたい」と言ってお茶を濁しておくしかない。「~みたい」は、単語を覚えればよいだけなので楽なのだ。

「という」は、学生にとっては少し言い難いらしく、最初は、ぎこちない感じで言っていたが、「とYou」って言えばいいと言ったり、私が教材に何度も使ったせいで、1年間の最後にはみんなかなり便利に使ってくれるようになっていた。

2011年12月11日日曜日

言語学習の「気づき」[中国語レッスン]

2回目の中国語レッスン(1回目はこちら)、引き続きメールの書き方。担当教師が用意してくれたプリントで学習した。このプリントで、たぶん、担当教師が意図していなかったと思うところが私には非常に役に立った。

プリントは、メールの構成(正しい配置)、見本例、相手の言い方や末尾の言い方の用例、それに練習問題があった。この練習問題、担当教師の意図は「相手の名前や末尾の挨拶がないことに気づく」ということだったが、最初、私は、そのことに気がつかなかった。気がつかなかったというより、なんというか、見てすぐわかることなので、そこがポイントだとは思わなかった。(こういう練習問題、私も作っちゃってるな、とその時思った。)
練習問題の文章は、正式な書き方をしておらず(問題のポイントだったところ)、さらに、本文もかなり「口語的」なものだった。練習問題の後に参考例として、同じ内容を比較的固い言い方で書いた文章が書かれていた。これが実に、わかりやすかった!

元々、私の中国語は、口語のインプットアウトプットの方が圧倒的に多い。だから、自分で何か書いていても「これって、口語的だよなあ」と思っていたことがよくある。そして、たまに、頂いたメールの中から使える表現を抜き出して使っていたのだが、「これって、文体ごちゃごちゃだろうな」とも思っていた。

プリントの中の、口語的文と固い文を比較して読みながら感じたこと。
1、あ、頭の中でこう考えた時は、こう書き言葉に直せばいいんだ。
2、あ、これ、メールでよく見る言葉。こうやって使えばいいんだ。
上記1については、本当にあたり前のことなのだが「我爸爸」が「我父親」、「你們學校」が「貴校」。どちらも、私としては理解ができているが、こうやって並べてみると、すっと頭に入って来るし、今度から、こうやって切り替えよう、と思えた。
2は、例えば「因此」「能否」。特に「因此」はメールでよく見ていた。面白いのが「因此」で、口語的な文章の中ではこれにあたる言葉が書いてない。そうか書くときはもう少しロジックを考えて接続詞を使ったほうがいいんだと思った。「能否」は、私が見るのは「可否」だが、たぶん同じようなものだろう。(確認すればよかった)例文は「能否請」になっていて、「これは請~と言いたい時に、書く時はこう書けばいいの?」と聞くと、そうだという答え。「請~」は、メールではよく使っていたので、「おお使えるぞ!」と感じた。

担当教師からの解説でわかったこと。末尾によく使われる「祝恭喜發財」などの「祝」だが、「祝」の字の後で改行し、続きは次の行に書くのが正式だそうだ。言われて少し考えたが、覚えがない。それから、「貴校」の前は二文字開けること。相手をさす尊敬語、自分をさす謙譲語の前は二文字空白部分をおくことで敬意を表す。これは見たことがある。「公文(公式文書)」で見かけたような気がするが、見た時は、変に空いているなとしか思わなかった。

プリントはその後、実際にメールを書くという練習問題が二問あった。一問目は「大学でクリスマスパーティーを開催するのでその招待状を学生宛にメールする」というもの。プリントの最初の見本例が一つは「長いこと会っていない友だちに宛てたメール」、もう一つが「大学のイベントの招待メール」で、この2つ目の例を使えばできるものだった。その場で書き、担当教師に見せる。これはまあ簡単だった。次の問題が「長いこと会っていない友だちに書くメール」で、これは見本例の1を参考にするものだと思うが、そのままだとちょっと簡単すぎるし、実際、私はたぶんそんなメールを書かない。そこで、実際にこういうメールを送る相手には誰がいるだろう…と考えて、思いついたのが、以前の職場でお世話になった先生。私からはかなり目上にあたり、「正式な文書」を書く相手だ。早速、担当教師に「メールを出す相手を変えていい?」と交渉し、交渉成立。これは次回までの宿題になった。自分としては、実際的ないい課題だと思ったが、時間をおいて考えてみると、かなりチャレンジング。でも、本当に送りたいなと思ったし(実際、大変ご無沙汰していて失礼極まりない)、是非、完成させたい。

今、実は別の授業用に第二言語習得についての話をするべく準備しているのだが、その為に何冊か本を読み返している。ちょうど「アウトプット仮説」を読んだところで
理解可能なインプットだけでは十分ではなく習得にはアウトプットも必要だと言われている。それは、アウトプットをすることにより、(1)自分が言いたいことと言えることのギャップに気づくことができ、(2)言語形式に注意を向けることができる、(後略)
このことが、とても実感できた1時間のレッスンだった。見本例もあり、個々の言い回しについても理解していたものもあり、わからなかったものは解説してもらったのだが、実際に手を動かして書いてみると、いろいろ迷うことがある。また、「招待状」についても、クリスマスパーティーはしないと思うが、例えば「研修会」などを開催してその招待状メールを送るというのは、可能性がないわけではない。「クリスマスパーティーを研修会に変えたら、ここはどう変えればいいんだろう?」など、それまで漠然と見ていたものを、もっと注意してみるようになる。(というより、この手のメールは受け取っていたのだが、今までは、書き方や言葉遣いに注意して見てこなかった。)今までも、もらったメールの中で使える言い回しには注意していたつもりだったが、でも、やはり何か心もとなかった。これから受け取る中国語メールの見方が、変わるような気がする。



2011年12月9日金曜日

台湾の高校の第二外国語教育のニュースから

@AIBYCHANのツイートから知ったニュース。以下が記事。

高中第二外語 日文最夯

  • 2011-12-07
  •  
  • 【中央社】
     教育部今天表示,100學年度第1學期高中開設第二外語課程,總計233所高中開設1585班,共有5萬4658名學生修讀第二外語課程,其中以日文最多,其次是法文。
     教育部持續補助高中開設第二外語課程,100學年度第1學期高中開設第二外語課程有233所高中、1585班,語種包含日語、法語、德語、西語、韓語、拉丁語、義大利語、俄語、越南語及印尼語,開設學校數較99學年度第1學期增加8校、班級數增加257班,人數增加8104人。
     教育部統計,學生修習第二外語以日文人數最多,有將近3萬8000人,初步分析原因是台灣與日本地理位置相近,還有許多多媒體素材是日文所致。
     教育部表示,學習第二外語能增加競爭優勢,未來教育部將持續加強辦理第二外語課程,並鼓勵學校開設更多語種的第二外語課程,以培育更多優質的第二外語人才。1001207
教育部(文部省)の発表によると、今学年度の第一学期に第二外国語を実施した高校は233校、1585クラス、全部で5万4658人が履修した。昨年度の第一学期に比べ、学校数では8校、257クラス、人数では8104人の増加。
外国語の種類は、日本語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、韓国語、ラテン語、イタリア語、ロシア語、ベトナム語、インドネシア語がある。最も履修人数が多いのが日本語で3万8000人、台湾と日本が地理的に近いこと、各種メディアで日本語のものが多いことがその原因であると分析している。
 この日本語の履修者が多いことの分析だが、ここで言われていることはまあよく言われることで、ちょっと「そうかなあ」と思わないこともない。記事の中では、日本語についで多いのがフランス語だとあるので、たぶん、並んでいる外国語は履修者が多い順になっているのだと思う。それを見ると、韓国のほうが地理的にも近いしメディアでの接触する機会も多いと思うのに、ドイツ語、スペイン語よりも下になっている。私が思う日本語が多いという理由は、今まで日本語が多かったからそれを継続していること、日本語を教える人材なら簡単に見つけられること、だと思う。
 実際、以前の勤務校で、大学評価(評鑑)の際に「日本語以外にも第二外国語科目を設置して、学生の選択肢を増やすように」と言われたが、実際に、じゃあ、どうやって教員を確保するかというと、これが難しい。都会ならば、選択肢もあるのかも知れないが、そうでなければ外国語を教えられる人などそう見つかるものでもない。高校の教員の任用がどうなっているかは知らないが、大学の場合、大学で教えられる学歴を持ち、なおかつ、平日の昼間にちょっとだけ来てくれるという人、と考えればそうそういないことがわかるだろう。実際、ドイツ語が一般教養科目で選択できた時もあるのだが、私が見ていた限りでは、ある一時期だけだった。先の大学評価のコメントを受けて話していて候補にあがったのは、同じ県内の大学にいる教員に来てもらうということ。開設できる科目は、教員が確保できる科目、ということだ。世の中がどうのとか、学生の学習には何がいいかとかの問題ではない、というか、そういう問題にできない。
 高校のことはよく知らないが、でも、似たような問題はあるのではないかと思う。第二外国語だけを教えて授業数が確保されることはそうそうないと思うので、複数校かけもち、という状況になるのではないだろうか。或いは、近くの大学で教えている教員に来てもらうこともあるだろう。とにかく、何を科目にするか、は実際問題の解決が必要なのだ。

 以前読んだ「外国語教育のリ・デザイン」で、それはそうだ、と思った部分。
Candelier,M.&G. Hermann-Brennecke(1993)が指摘しているように、学習言語の選択は情報の有無で大きく変わる。たしかに何も情報のない環境で「入学後はどの外国語を学びますか」と聞かれたら、「マレー・インドネシア語をやりたい」と答える若者は、ふつうのいまの日本の高校生の中にはいないだろう。(中略)したがって何も情報を与えずに学習言語の選択を迫るのは、社会に存在している各言語に対するステレオタイプのイメージを助長する以外のなにものでもない。確かにそのほうが事務的には新学期の準備が楽であろう。しかし未来に羽ばたいていく若者の教育現場である大学では、規成の観念を打ち壊し、新しい価値を生み出していくことこそが使命のはずである。

 今日の記事を読んで思ったのは、もう少し、理念とか思想がほしいなということ。それがないと「第二外国語をしないと」「何ならできる?」という流れになってしまいがちだ。

 最後にもう一つ。「優質的第二外語人才」ってどんな人のことをイメージしているんだろう?

    

2011年12月4日日曜日

メールの書き方-たかが:、されど:-[中国語レッスン]

ブログ文章作成をした中国語レッスンから1年(学習支援と自律学習[中国語レッスン])。きのうから、また中国語レッスンを始めた。今回のテーマは、メールの書き方(自分で設定)。ブログ文章作成もやりたいことではあるが、先学期から授業担当している学校で、学生や助手の人からメールが来ることがよくある。書けないことはないのだが、自分で書いていて「なんかなあ」と思うことが多く、メールが来るたびに「返事書かなきゃ」といやあな気持ちになっていたので、この気持ちを解消したいと思った。
 きのうは、レッスン第1回目。担当教師(学生)からの課題は「記号の使い方」。
 レッスン開始前に、メールを送っていたのだが、その中で私が使った記号に間違いがあり、それを直すことと、その他の記号の使い方を教えてくれた。
 私が間違えた記号というのは「;」。メールの最初に名前を書いてその後ろにつけたもので、正しくは「:」。私も気がついてはいたのだが、「ま、どっちでもいいか」という気持ちだった。私が「;」にしてしまったのは、入力で「:」をどうやって打てばいいかわからなかったからだ。
 中国語の入力には、私はグーグルのピンイン入力を使っている。見た目のキーボードと、入力し出てくるものが違うので、特に記号を打つときなどはときどきどこを打てばいいかわからない。「どっちでもよくない」ことがわかり、あれこれやったあげく、今までの「;」を打つときにShiftを押せば出てくることがわかった。
 このことで思ったことは、「どっちでもいい」「大したことない」という感覚ってあるなあということ。学生が書く作文を見ていて、読点や句点が中国語になっていることがよくある。読点や句点が中国語、というのは、「、」や「。」が下ではなく中心に打ってあるのだ。これは、フォントを日本語フォントに変えればすむことなのだが、学生はこの一手間をかけない。そしてそれは、私が「:」の打ち方がわからなくて、一手間かけなかったことと同じだ。
 台湾で、日本語が書いてあるものをよく見かけるが、そこにもこの「、」「。」が真ん中になっているものが実はよくある。これを見ると私は「なんだかなあ」と思ってしまう。文章全体がなんとなく胡散臭く見えてきてしまったりする。(心狭い!)自分が書く時も、たかが一手間をかけたほうがいいのだろう。
 きのうのレッスンでは、「;」「:」に加え、「、」「,」の違い、「;」「:」の文章中での使い方についても学習した。今まで文章を見ながらなんとなく思っていたことだが、説明してもらってすっきりした気がする。
 「、」と「,」だが、これも今使っているグーグルピンイン入力だと入力のしかたがわからない。今までは「ま、いいか」と思っていたが、これも入力のしかたをさがすか、さもなくば、コピー&ペーストで直していかないといけないと思った。昨日、少しだけさがしてみたのだが、まだ入力方法はわからない。(コピー&ペーストは面倒だからできれば避けたいなあ)

 以下、次のレッスンのためのメモ。
やりたいこと。
①自分が書いたものを見て直してもらいたい。特に、私が書くものはあっさりしすぎている気がするので(日本語メールでも、以前、父に「電報メール」と言われたことがあるが)、もう少し温かみのある書き方をするのにはどうしたらいいか。
② ①のことは、私が終助詞を使えないことが原因の一つだと自分では思っているので、終助詞の使い方を知りたい。

 去年のレッスンの時にも思ったのだが、内容的に相手に伝わるものだと、それ以上はあまりコメントがもらえない。私の学習だから要望は担当教師(学生)に伝えないと。

2011年11月30日水曜日

聴解自律学習サポート3 ドラマからオーディオドラマへ

前回、聴解自律学習でドラマをやりたいと言っている学生が多いことを書いたが、今週、ドラマを聞いてどうだったかを聞いてみたところ
「字幕がなかったら全然わからなかった…」という学生がいた。
その隣にいた別の学生とのやりとり。
私:「聴解練習やった?何やった?」
学生:「字幕見ながらドラマ見た」
私:「見て、どうしたの?」
学生:「……」
私:「見た、以上?」
学生:「……」
私:「どうだった?」
学生:「面白かった!」
私:「なんか、勉強した感じする?」
学生:「没有!(ないです!)ハハハ」

字幕なしで見たらわからなかったという学生は、やはりこの方法は無理だ、と思ったらしい。別の方法にしたい、「アニメかなあ」というので、オーディオドラマをすすめてみた。
オーディオドラマはリソース紹介のプリントにも書いておいたのだが、iTunesからダウンロードするもので、その学生にとっては「iTunes???」と、iTunesもわからない。

実は、このオーディオドラマ、去年、私の中国語作文レッスンの時に、紹介する文章を中国語で書いていた。その場で、学生にその紹介文章を見せると
「面白いかも…」
という反応。
iTunes??なので、私がiTunesでダウンロードしたファイル渡すことにした。

今日、学生に「どうだった?」と聞いてみたところ
「面白い!聞きたい!」
という返事。「没有!」と元気よく答えた学生ともう一人の学生と3人でそれを聞くことに決定した。

私がオススメのオーディオドラマを面白いと言ってもらえたこと、ほぼ1年眠っていた私の中国語紹介文が陽の目を見たこと、がとってもうれしかった。
なんだかわからないものを聞いてみようとは学生はなかなか思ってくれない。そんなことをする学生は、私なんかがああだこうだ言わなくても、自分で好きなものを勝手に聞いて勝手に学習しているのだ。中国語の紹介文がどれだけ役に立ったのかはわからないが、とりあえず、学生に「聞いてみてもいいかな」という気持ちひとおしするものにはなった気がする。

ちなみに、私が学生に紹介したのは
泣きたいときのクスリ2008
私がこれをすすめた理由は、まず、一つ一つが短いこと。Podcastの一つは4分強なのだが、前後にコマーシャルが入っているので、実際のストーリーは2分ぐらい。2分なら、わからなくてもなんとか耐えられる長さだと思う。4回分で一つのストーリーが完結する構成になっている。全体としても長すぎないのがいい。それから、声の出演がテレビでも見たことのある俳優が何人か入っていることも理由の一つ。誰だかわからない声よりも多少馴染みのあるほうがいいかなと考えた。

とにかく、選んでもらえたのが妙にうれしかった。

【関連記事】
聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出
聴解自律学習サポート
学習支援と自律学習[中国語レッスン]

2011年11月25日金曜日

聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出

前回書いた「聴解自律学習サポート」。先週の授業でおおかた練習計画書を出してもらった。
結果、かなりみんな違うリソースを使い聴解学習をしていくことになった。

個々の学生と話していて気づいたこと、メモ。

○ドラマやりたい学生たち
今回、ドラマを選択した学生が結構いた。(まあ、いるだろうなとは思っていた。)「字幕を見てドラマを見るのはすすめない」とリソース紹介のプリントにも書いておいたが、それも個々に確認し、それでも学生は「字幕を見ないで聞いてみる」と言っていたので、そのままにしておいた。学生に聞くと、今まで字幕を見ないでドラマを見たことはない。字幕を見ているとなんとなくわかる、という感覚を持っている。うーん、字幕見てわかるのと、全く見ないのとでは全然違うだろうな、と思いつつ、とりあえず、やってみたことがないのだったら、できるかどうかやってみればいい、と考えている。ある学生は、計画書を提出したあと、「あとで変更してもいいですか」と聞いてきたので、1週間の期限をつけ、変更を認めることにした。(1週間やってみて、というのは先週も言っておいたのだが、やった学生はほとんどいなかった。)

○どう練習していいかわからない学生たち
授業の中でシャドーイングを行なっている。シャドーイング用の課題を音声とスクリプトでもわたしてあって、授業中に1回行い、あとは自宅で学習、テストの中にも組み込んだ。テストの時、学生たちは結構シャドーイングが難しいと言っていたが、あとになってみると会話と違いできるできないが学生たちに自覚されやすいからなのではないかと思った。
今回の聴解練習計画でも、「聞いてどうするか」でシャドーイングと書いた学生が何人もいた。リソースの中にもシャドーイング練習のものを紹介していたこともあるかもしれないが、一つ気になったのは「シャドーイング以外に練習のしかたがわからない」という声があったことだ。
その他、「歌を聞いて歌詞を見てわからない言葉の意味を調べる」というものがあったが、「それってあんまり聞く練習にならないんじゃないの?」というと「うーん」。練習にならないこともないが、一つ間違えると聞いていることに何の意味ももたなくなるので突っ込んでみた。結局その学生「何すればいいかよくわからない。何すればいいと思う?」と聞いてきた。その学生は教材は使いたくないと言っていたのだが、「聴解の教材で練習してみたら?」とアドバイスした。何をしたらいいかわからない学生にとっては、教材はわかりやすく、理にかなった練習を提示してくれると考えたからだ。

どう練習するか。もっと練習方法を提示しないと、とは思うのだがそれについて情けないことにあまり手持ちのものがない。魔法のような練習方法があるとも思っていないが、いくつかバリエーションがあり、私が英語多読の時にやりやすいと感じたような、全体の見通しがあるものを提示したいなと思う。

私は個人的にはオーディオドラマ系がいいと思うのだが、選んでくれた人はいなかった。(選んでもらえるように篤姫で人気の宮崎あおいの名前もあげておいたのだが…)
英語の多読のかたわら、オーディオブックを聞いていて思ったのだが、ドラマのよさは、ある程度内容の予測ができることだ。多少聞き取れないところがあっても、わかるものは全体のストーリーはある程度理解できる。これが、ドラマのようなストーリのないものだと、なかなかついていけないことがある。(英語のチーズなんたらは、私は挫折してしまった。)
別途、自主学習ができるように、オーディオドラマを使った教材みたいなものを一つ作ってみるか、と思った。

2011年11月18日金曜日

聴解自律学習サポート

あるクラスで、「自律学習」サポートを始めた。サポートと言っても、「自律学習」をすることは学生には強制してあるので、サポートというのは変な気もするのだが、他に言い方も思い浮かばないのでとりあえずそう言っておくことにする。

そのクラスは口頭コミュニケーションのクラスで、自律学習は、何か自分で「聞く」ことが課題である。事前に聴解リソースを紹介するプリントを配り(これは前にも書いた「聴解のリソースを増やすには?」も参考にさせていただいた。)、その中からでもいいし、それ以外に自分がやりたいことを選んでもよく、とにかく、自分で何か聞くものを決め、学習計画を立て、それにそって学習をしていく(ということを強制する)ものだ。今は、中間テストが終わった直後で、期末にその学習課題にもとづきテストを行い、それが成績にも反映される。

昨年、同じようなことをK先生がなさったが、その時は学生はほぼ同じリソース(ネット上にある旧日本語能力試験2級用の聴解問題)を使い、すでに2級に合格している学生だけ、自分で1級用の教材を選びそれで学習していたということだった。自分で学習計画を立てるというのは、学生にとっては難しいことだろう。今回の私のクラスでも、聴解のリソースのプリントを作ったものの、ほぼみんな2級の問題をやるのではないかと予測していた。

先週の授業で、学生が自分の学習計画を書くためのプリントを配り、説明をした後、しばらく時間をあげて考えてもらった。プリントに書きこむ項目は↓。
① 現状(今、1日、或いは1週間にどのぐらい日本語を聞いていますか。)
② 現在の問題点、或いは、希望
③ 聴解に使用するもの(リソース)
④ 練習内容(そのリソースを使って何をするか)
⑤ 練習予定(必ず、「数字」を入れて書いてください。)
⑥ 練習の記録の方法
⑦ 今学期末までの目標
⑧ テストの内容

何人か学生が書き始めていたので、見てみると、K先生の時とは違い、2級の問題を書いている人がいない。逆にあったのは「日本のドラマ」「歌」、台湾で出版されている日本語学習用の雑誌の付録のCDを書いている学生もいた。

日本のドラマを選ぶ学生はいるかも知れないと思っていたが、一応リソースを紹介したプリントで「中国語字幕つきドラマを使うのはすすめない」と書いておいた。日本のドラマと書いた学生には、その場でもそのことを話し、説明した。もちろん、日本の番組を見てうまく学習する学生もいるとは思うが、そういう学生はただ見るだけではなく、見ながら何かをしているのである。(以前聞いたものだと、日本のコントを見てそれを友だちと再現している学生がいた。そこまでできればすごいものだと思う。)私が思う、学生が陥りやすいいまいちパターンは、字幕付きで日本のドラマをただ見るだけで学習した気になってしまうというものである。案の定、書いている学生の中に、使うリソース「日本のドラマ」、練習内容「聞く」、それだけしか書いていないものがあった。「日本のドラマって何見るの?」「聞いてどうするの?」と言うと、「えー、よくみんなドラマ見ながら日本語勉強するって言うじゃん。」のような答え。

その他、学生に思わず突っ込んでしまった記述。「できるだけ毎日3時間聞きたい。」元は中国語で書いてあったのだが、「聞きたい[希望]」「できるだけ[盡量]」という言い方はしない!っていうか、毎日3時間はどう考えても無理でしょう、と言ったら苦笑していた。その学生には悪いが、他の学生にもこういう書き方はしないように、「できるだけ毎日3時間」という壮大な目標をたてるより、「1日5分、毎日、絶対」のほうがいいと話した。

この計画書、提出は来週。来週の授業でもう一度調整するが、最終的にどんなものになるのだろうか。結局は、去年と同じで2級の練習が並ぶのか、それとも種々雑多なものが並ぶのか、楽しみだ。そして、どうサポートするのか、考えないと…。

【関連記事】
聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出
聴解自律学習サポート3 ドラマからオーディオドラマへ
聴解自律学習サポート4 学生の声(中間報告から)
聴解自律学習サポート5 期末報告から

2011年11月15日火曜日

相手の呼び方のつづき 「親しさ」への感覚

前回、台湾の学生が仲良くなるにつれどう相手の呼び方が変わるか(相手の呼び方【中国語】)、ということについて書いた。その時の授業で聞いたもう一つ面白かったこと。

最初に名前がわからなかったときの「同學」から、次は、名前が分かって「下の名前(呼び捨て)」に変わるということを書いたが、これについてのある学生の解説。
この下の名前だけという言い方は「装親切」だ、というのである。「装親切」の「装」は「~のふりをする」という感じだろうか。「親切」は日本語の親切とは少し違い「親しい」とか「フレンドリー」という意味を持っている。(この「親切」という言葉、なかなか日本語にするのはやっかいだなと思っている。)つまり「装親切」というのは、「親しい風を装う」ということになるだろう。その学生いわく、本当に親しくなってからも、下の名前だけ、ということもある。親しくなってからは、ニックネームや、フルネームに移行する場合もある。

私が面白いと思ったのは、親しいか親しくないかではっきりとした線引きをしないようになっている、ということだ。

日本語の場合、タメ口になったり相手を呼び捨てにしたり、というのは、「上から下」か或いは相当親しいという意味を持つ(と思う)。親しくない相手に、タメ口・呼び捨てを使うと失礼な感じを受ける。親しい間柄かどうか、親しいかそうでないかに大きく線が引かれている。

これも私の勝手な思い込みかも知れないし、少し乱暴なまとめ方かも知れないが、台湾の場合、相手に対して「親しさ」を見せるのが一種の礼儀であり、相手を尊重していることにもつながる。「私はあなたと親しくしたいと思っていますよ」という態度を見せようとする。逆に、日本語の場合、相手と一定の距離を保つのが一種の礼儀につながる。それが言語使用にも表れているように感じられる。

ずっと以前のことだが、学生が卒業後ビジネスホテルに勤め始め、そこの日本人駐在員客と「普通体」で話している、というのを聞き、びっくりしたことがある。「普通体じゃなくて、です/ます体で話したほうがいいよ」と言ったのだが、学生は「だって、その人とは仲良くなったし、親しい相手には普通体でしょ」と言っていた。まあ、よく話を聞くと、相手の駐在員の人も楽しく話しているようだし(学生から聞いたところではだが)、相手が気を悪くしていないのならば、私がとやかく言うことではないので、それ以上は何も言わなかった。(短大卒業したての若い女の子に、友だちのように話しかけられて喜んでいる駐在員、みたいな様子を想像してしまった。)

台湾から日本へ留学した学生が、「日本の学生は少し仲良くなるのは簡単だが、とても仲良くなるのは難しい」と言っているのを一度ならず聞いたことがある。「親しさ」の境界が、感覚的に違うことも原因の一つかもしれない。もちろん、こういうことは台湾ではどうだ日本ではどうだ、という風にはっきり分かれるわけではないし、個人の感覚によっても違いはかなりあるだろう。ただ、ある年齢を超えたら「私達って仲良しだよね」とあからさまに確認することはないと思うので、そこをどこから感じるかということの中に、言語感覚は影響していると思う。


相手の呼び方【中国語】

授業で、日本語での相手との親密性が変わって相手の呼び方が変わるという例をドラマを元に紹介した。その後、「じゃあ、みなさん中国語ではどう?」と言って、学生たちの例を聞いた。そこで面白いなあと思ったこと。

呼び方の順番。
1、同學(会ったばかりでまだ名前がわからない時)
2、下の名前だけ(名前が分かったらこれに変わる。まだ「知り合い」程度)
3、ニックネーム
4、フルネーム

「同學」というのは、そのまま日本語にそっくり置き換えるのは難しい。言葉だけの意味では「クラスメート」という意味もあるし、教師が学生全体に呼びかける時も「同學們」(学生の皆さん)と言う。正式な場で学生の名前を呼ぶ時は「○○○同學」となることもある。

2は、下の名前そのまま呼び捨てである。これだとまだそんなに仲良いという感じではない。この感覚は日本語と大きく違う。もし、このルールを日本語で使ったら、全く違う印象をもたれる。(そういう人はあまりみたことがないが。)

多くの場合、1と2の順番は不動なのだが、ある学生から異論があった。その学生の感覚だと、あまり親しくない時は4のフルネームで呼び、仲良くなると下の名前だけになる、という意見だった。
それについて、別の学生からの意見。同性間と異性間では違うかも知れないとのこと。例えば、男子学生が女子学生と呼ぶ場合、親しくない場合にはフルネーム、親しくなると下の名前だけになる、ということだ。

3と4は、人によって感覚が違うようだ。いずれにしてもフルネームが親しさを感じさせるというのは、私にとっては感覚的につかみづらい。

もう一つ、「你」や「我」の変わりに名前を言う時は、あるか。あるとしたらどういう時?という質問もした。「你」についてはわからないが、「我」については以前、例を耳にしたことがあるからだ。

「我」について出た意見。
1、「小朋友(子ども)」が自分のことを言う時に使う。
2、「裝可愛(かわいいこぶっている)」の時に使う。
学生の友だちの呼び方で日本語と全く違っていたのに、これは日本語と同じ感覚なので、「そこは同じなんだ」と逆にびっくり。
ちなみに2については、女性のみが使い、男性が使うと気持ち悪い、とのこと。女性が使って、かわいいと思うか思わないかは「人による」とのこと。そこも同じか。

名前については、前にも「敬意表現としての名前の使い方」で書いたが、今日の例も実に面白かった。

2011年11月5日土曜日

中国語の「変態」はそんなに「変態」ではない

つい最近、Podcastを聞いていて中国語の「変態」の意味が日本語の「変態」の意味とは違うことを知った。
CSLPod UpperIntermidiate 跳槽
この中で上司のことを「変態」と形容する部分がある。そこの解説を聞いていたら、
変態→自分が嫌いな人のことを形容する言葉。
例文1)私の隣人は「変態」だ。毎晩12時にカラオケを始める。
例文2)うちの社長は「変態」だ。毎週、休日出勤させる。
日本語にすると「ホント、やなヤツ」というぐらいだろうか。
なあんだ、そうだったんだ。

実は、もう5年前ぐらいになるだろうか「変態!」と言われたことがある。幸い面と向かってではないのだが、あるチェーンの電気店からバーゲンか何かのお知らせ勧誘電話を受けた時のことだ。こっちは仕事中で忙しいさなかに電話をうけ、相手はこちらのことなんかお構いなく早口で言うことだけをまくし立てる口調だったので、途中でさえぎって「私、外国人だから聞いてもわからないから。」と言った。普通はこれで、「あ、そう」という感じで電話を切ってくれるのだが、その時相手は「どこの国の人?」と聞いてきた。ちょっと腹が立ったので「あなたに関係ないでしょ。」と言ったら、
△&■%◇○☓■☓&◎&□%$=▼&……………
相手は何か外国人に恨みがあるようで、怒った口調でまくし立てている。何を言っているのかほとんどわからないし、そんなもの一生懸命聞く気にもならない。電話を切ろうと思ったところで相手が一言。
変態! 〈ガチャン〉
最後のその一言だけ聞きとれた。はあ???なんで私が変態なの?呆れるやら悔しいやら、そしてちょっと悲しい気持ちも…。

それ以来、その店を見る度になんとなくこの日のことが思い出されていた。

そして、2週間程前「変態」の中国語の意味を知った。ま、でも「変態」なんてもう言われないだろうな、と思っていたら、先週、テストについて説明していた時に
学生:先生、変態(bian4  tai4)。ヘンタイです。
うわ、人生二度目の変態呼ばわり。中間テストの話はさておき、「変態の意味はね…」と中国語と日本語では意味が違うことを解説。変態の意味について解説することになるとは思いもよらなかったので、こちらもしどろもどろ。
学生:じゃあ、日本語の変態ってどんな人?
ええと…。とっさに具体例は思い浮かばなかった。



2011年11月4日金曜日

日本語パフォーマンスを評価する

前に書いたコンテストのこと。
その朗読コンテストは、審査員3人が教員ではなく、会社の方々だった。今回初めて審査員をする方もいれば、前にも審査員をしたことがある方もいらした。

最後に講評があって、その中で言われていたこと。

自分も東京出身ではなく人のことをあれこれ言えないが、という前置きがあって、
アクセントが違う。
「か」と「が」の発音が区別できていない。
促音「っ」の発音ができていない。
などという内容があった。

「か」と「が」に関しては、聞いていた私は感じていなかったので面白いなと思った。音声的な違いよりも、アクセントから違和感を感じるのではないかと推測した。

また、今回の朗読コンテストは違いがあまりはっきりしないので、あえて点数に違いをつける意味で、という前置きの後、
始まりと終わりにお辞儀をした人を高く評価した。
という話もあった。この時に確か、そういう礼儀のような日本文化も知ってほしいという話だったと記憶している。

やはり、というか、そういうところを見ているんだなと思った。「お辞儀」や「挨拶」は、駐在員の方がよく言われることだし、日本のいわゆる「会社のマナー」でも言われていることで、こういうところでも評価対象になるのだなと思った。(この話が伝わり、次回は学生たちがみんなお辞儀をするようになるのだろうか…。)

 ぱっと見た相手を評価するというのは非常に難しいと思う。私自身も先学期の学期末に代講で学生の発表の評価をして、その難しさを実感した。

 その授業は1年生のいわゆる会話のクラス。私は、その大学の2年生は担当したことがあるが、1年生は接したことがなく、2年生も、会話のクラスを担当したのははるか昔のことだったので、1年生の学年末に学生がだいたいどのような状況なのか、というのは、あまり感覚がつかめていなかった。いくつか項目を決め、5段階で評価するようにしていたのだが、「とてもよくできる」か「とても厳しい状況」かはつかめるものの、それ以外の学生はだいたい同じような評価になった。評価しながら、普段担当している学生ならば、もう少し評価にばらつきが出るのではないかと思っていた。ということは、私がしていた評価は、その場での評価ではなく、普段のパフォーマンスと比較しての評価だったということだ。

 以前、会社で外国人の採用担当をしていた友人から「教育経験のない人は評価ができない」ということを聞いたことがある。少し難しい単語を言うと、「お、こいつはできる」と思ってしまう。少しつっこめばできないことがわかるのに、そこでつっこまずに相手のペースのままで判断してしまって、できない人を採用してしまう、ということだった。(OPIで言う、いわゆる「おはこ」みたいなことだろう。)

 これを聞いて、そういうこともあるだろうなとは思っていて、その時は自分だったらそんなものに惑わされないぐらいの妙な自信があったように思うが、知らない学生の評価をして、自分のできなさに自信がふっとんでしまった。と同時に、みんなどういう観点で評価しているのだろう、というところも大いに気になった。

 その意味で、この朗読コンテストの講評は興味深かった。こういう「教育場面」と、例えば会社の面接などでは、評価する側も見方が違うかもしれないが、参考になると思った。

2011年11月3日木曜日

第4回中東日本語教師オンライン研修 「聴解のリソースを増やすには?」

先週の土曜日のこと。私は中東とは関係ないのだが、twitterで流れてきた「聴解リソースを増やすには?」のタイトルにひかれた。ちょうどその時、学生に配る聴解リソースを紹介するプリントの作成中で、私にとって実にタイムリーな内容だった。

第4回中東日本語教師オンライン研修「聴解のリソースを増やすには?」

【追記】
上記の内容はむらログの聴解リソースを増やすには?に概要がある。

ustreamをライブで聞くのは二度目。(前は趣味で伊達公子選手の番組を見た。)twitterでログインはしたものの、ちょっとそこに書くのは遠慮してしまった。
後になって思えば、主催している側の方は、相当やりにくい状況にあると思う。実際の研修会であれば、聞いている人の反応がその場でわかるのだが、オンラインではtwitterなどで反応しないかぎり、聴衆の状況が全くわからない。音が聞こえないなどのはっきりした問題は反応があるが、それ以外について、普通の会場で聞こえるような「へえー」という声や顔がわからないのだから、進める側はやりにくい中手探りでやっていくしかない状況なのだなと思った。

ライブを見ながら、紹介されていくリソースを実際に自分で見て、気づいたことをメモしていった。ustreamは録画で見ると少々かったるく感じることもあるのだが、ライブで見るとそれを感じなかった。日本語能力試験の海外での受験者の聴解部門の得点の低さがグラフ化されていて見やすかった。学生へ聴解の練習を進めるのにも説得力があると思った。紹介されていたリソースは、知っているものもあれば知らないものもあって、参考になった。
どのぐらいの時間だったかは忘れたが、内容も充実していてあっという間に時間が過ぎた。こうやって、遠くにいながら、話を聞くことができたり、途中スカイプのチャットでの話を見たり、参加しようと思えばtwitterで意見を言うこともできる。以前、研修会でスカイプで日本の先生に講演をしていただいたことがあるが、その時も、便利になったものだと感じた。

しかし、後で、「私の聞き方ってどうなの?」と考えてしまった。数年前から学会に行くとPCカシャカシャという風景を見るようになった。私はまだそういうことをしたことがないのだが、なんとなく、雰囲気に違和感を感じてしまう。人の話は顔を見て聞け、的な感覚が抜けないのだろう。
今回は、相手には見えないということもあり、話を聞きながら、話に関係のあることではあるが、いろいろ勝手にやりながら聞いていた。こういうことを続けていくと、実際に話を聞きに行ってもカシャカシャやることに抵抗がなくなるのかもしれない。

話は横道にそれるが、こないだ、ある先生との話で、今の学生はメールの書き方を知らないで先生に対してもきちんとしたメールが書けない、ということが話題になった。その時に、我々の世代(漠然とした我々世代ではあるが)は、書くということが、鉛筆やペンを持って紙を前にして、という日常とは少し違う姿勢をとるので、気持ちも自然と「ちゃんとした」「日常とは違う」ものになっていた。しかし、今は日常の中で書くことが頻繁に行われているので、「書く」ことが日常の一部となり、その延長線上で教員宛てにもメールを書いてしまうから、つい普段の話、のようなものになってしまうのではないか、という話をした。

以前、学生がいわゆる内職をしているのを注意して「でも、ちゃんと聞いてますから。」と言われ、結構びっくりしたことがある。こういう現在のテクノロジーに慣れていくと、「話の聞き方」にも変化が出てくるかもしれない。

2011年11月2日水曜日

学生の“やったー!”という顔

きのうのできごと。私の話を聞いて理解したあと、得意そうな顔をして握手を求められた。

非常勤の勤務校でいわゆる会話の授業の後、学生2人が私のところに来た。中間テストを前にして、宿題の提出状況に不安があり、質問をしてきた。

宿題で会話練習をして、2人ペアになり、最後は宿題で会話を録音し、会話を文字化したものとともに提出することになっている。きのうは、教室で前回の宿題を返していた(文字化したものにいくつか注意点を書き返却)のだが、その2人の学生は録音したものは提出していたが、文字化の提出がなかったので返すものがなかった。私もうっかりしていて、その2人にそのことを伝えるのを忘れていた。

2人は、宿題を出したはずなのに、私から何も言われないので宿題が出ていないことになっているのではないかと不安になったらしい。今までの宿題の提出状況を書いたファイルを見ながら、未提出のところが黄色でマークされているので、「今から出してもいいか」と聞いてきた。

 ここまでのやりとりであるが、2人の学生は中国語で話し、私はほぼ日本語で返していたと思う。

 この2人、いつも教室で一番後ろの席にもう一人の友だちと3人で座っている。もう一人の友だちがいつも通訳役になり、教室での私の話を2人に伝えていたり、私に伝えたいことを変わって私に伝えたりしていた。私が彼らに話しかけると、2人はすぐもう一人の学生の方を向いて助けを求めていた。

 その2人が2人だけで来ると、今度はそのうちの1人が間をとりもつ役割になった。

「今から出してもいいか」と質問に対して、「録音したものは出しているし、もうフィードバックもしたし、今からWORDのファイル(文字化)を出しても意味がないよ。宿題を出さないと減点するけれど、録音したものを出しているから、そんなに大きい減点にはならないし。これからの宿題を全部遅れないで出せば成績も心配することはない。」と伝えた。これを伝えている間、ちょっとわかりにくい内容なので、中国語で話すか日本語で話すか迷ったが、言葉を選びながらとりあえず、最後まで日本語で話してみた。

 通訳役に転じた学生、自信のなさそうな顔をしながらももう1人の学生に中国語で説明。その後、私の方を向いて「あってるでしょ?」という顔をしたので、「うん、そうそう。」と返した。

 そして、手を差し出す。一瞬なんのことかわからなかったのだが、私も手を出し、握手。

 それを聞いていたもう1人の学生、私に日本語で質問しようとした。結局、言いたいことが言えなくて、中国語になってしまったが、でも、その学生はそれまで私に日本語で話しかけようとしたことがほとんどなく、あっても即座に切り替えていた。今回は、あれこれ言おうと試みていた。

 こうやって、「できた」と思ったり「自分もできるんじゃないか」と思って試したり、そういうことが感じられた一場面だった。

 私は、過去、学生に「日本語で話す」ということを極力強制しないできた。この学校と学習の位置づけが違う、ということもあるが、いろいろ考えてそうしてきた。ここは台湾なのだから中国語を話せ、日本語を勉強していて日本語の教師相手なのだから日本語を話せ、という考えが好きではなかった。

 今は、ある場面では、強制するところもある。そうすることへの迷いもある。学生にとってわかりやすい言い方をあれこれ選びながら、学生のわからないという顔に耐えつつ、日本語で話すことに疲れてしまうこともある。学生とのやりとりが中国語である程度できるようになった今、何が学生のためで、何が自分のためなのか、自分でもよくわからなくなっている。

 迷いは持ち続けたいとも思う。でも、今日は、よかったなと思えた。



2011年10月28日金曜日

羽田国際空港のサービス―気配り―

以前、羽田空港で、「ああ、日本に帰ってきたなあ」と思う出来事があった。今日の日経ビジネスオンラインの記事「新しい海外への玄関口:羽田旅客ターミナルのサービスの裏側」を読んで、記事の内容とは直接は関係ないのだが、その時のことを思い出した。

私が「日本に帰ってきたな」と思ったのは、いわゆる「気配り」のサービスを受けたことである。

帰国して羽田に着いてからのこと。

①スーツケースの受取りで
ぐるぐる回っているところからスーツケースを取ったときのこと。私は一応自分のスーツケースかどうか、タグを見て確認することにしている。チェックインの時につけられるタグに名前が書かれているので、確認しようと思ったが、名前が書いてあるところが見当たらない。タグの白い紙をあれこれ見て、たぶん???という表情をしていたのだろう、
「ご協力ありがとうございます。お分かりでしょうか?」
何といったか正確には覚えていないのだが、こんな風に声をかけられた。ちょうどその時、名前が書いてあるところが見つかった。
その時は、これだけで声をかけられるんだ、と、ちょっとびっくりした。

②京急の改札口で
改札口はSUICAで入ったのだが、残金が残り少ないことに気づいた。改札のすぐ横に精算機があり、電車が来るまでに時間があるので、そこでチャージをしようと思って近づいた。見てみると、SUICAがチャージできないように見えたので、カードを手にしたままホームへ行こうとすると、
「SUICAのチャージですか?できますよ。」と声をかけられた。
改札のところに駅員さんが立っていた。
再び精算機に戻り、チャージ完了。

この二つが立て続けに起こった。びっくりというか感心した。
どちらも、私の動きを見て、何をしたいのかを理解した。そして、そこで必要な手助けをしようとしてくれた。

日本だから当たり前だと思うかも知れないが、そうでもない。
実際、某携帯電話会社では、そのあまりの応対に唖然としたことがある。
電話機を買いに行ったのだが(それも、古い携帯だと今後使えなくなるので早急に買い換えるようにというメッセージが頻繁に携帯会社から送られてきたから買いに行った)、
店員「こちらには在庫がありません。」以上。
私「どちらの店に行けばありますか。」
店員「それは店ごとに管理していますからこちらではわかりません。」以上。
私「じゃあ、この近くに他の店はありますか。」
店員「二店あります。」以上。
私「それはどこにありますか。」
……
という会話が交わされた。
(途中から不快感が顔に出ていたかもしれないが、一応大人なので、丁寧に応対しようと心がけた。)

その後、その店員のどこに腹を立てたのか、考えた。その店員は、私のその質問に直接答えていただけだ。私が腹を立てないようにするには、私が何をしたくてその質問をし次にどういう行動をしようとするかを考えて答えることだ。

実はこの「気配り」という言葉、学生たちに説明するのが厄介な言葉だ。なのに、何かを読むと、よく出てくるし、「気配り」という意味がわからないと全体の意味がつかめないことも多い。いつもどうやって説明しようかと頭を悩ませていたのだが、「気配り」のない応対を受けて「気配り」が感覚ではなく理解できた気がした。

「気配り」は心ではない。頭だと思う。

2011年10月21日金曜日

ちょっと好きになった「日本語朗読コンテスト」で思ったあれこれ


昨晩、勤務校の学内「日本語朗読コンテスト」を見に行った。結果、とても面白くて、行ってよかったと思った。気づいたことを書いておきたい。

元々「○○コンテスト」、「〇〇大会」みたいなものは、そんなに好きなほうではなかった。朗読コンテストが行われることは知っていたが、いつあるのかも気にしていなかったし、行こうとも思っていなかった(すみません)。ちょうど、私の授業日に行われていたことと、主催者の先生から「見に来ない?」と一言、お声をかけていただいたことが大きい。逆に考えれば、何かを主催してポスター貼っただけで関係者が見に行くと思ったら大間違いということ。対面で伝えるのは大きい。

学生たちが朗読したのは、「福娘童話集」のサイトにある日本の昔話。先生がいくつか選んでいたものの中から、学生が好きなものを選んで朗読した。学生の中には「アフレコ大会」のように、声色を変えて読んでいる学生もいて、なかなかうまい。一人の学生は、私の耳には、「これ誰か声優の声に似ている」と感じた学生もいて、かっこよい声をしていた。

朗読コンテストでいいな、と思ったのは、学び始めた学生から上級者まで同じ土俵にたてることだ。これがスピーチコンテストだと、ある程度学んだ学生しか参加できない。スピーチコンテストでも、たまに意味がわからず、まる覚えをして参加する学生もいるが、質疑応答があるとそれが見えてしまうし、元よりそういう人の参加を想定していないだろう。朗読コンテストでは紙を参照することができるので、意味がわからなくても読めればよい。更に、実際、朗読の上手下手は聞いてわかるが、それが必ずしも日本語の上手下手とはかかわりないこともあるように見えた。

この大学の日本語は第二外国語としての科目である。授業は学期ごとで、全学の学生が選択して履修する。第二外国語であるが、なかなかの実力者もいて、ディベート大会で、日本語主専攻のチームに勝ち優勝した学生たちもいる。今回は、その学生たちが裏方に周り、「小老師」として朗読の指導をしたり、きのうのコンテストでも司会や審査員の接待、はては私の通訳までしてくれた。
こういうコンテストがあると、学内の日本語好きな学生が集まってくる。そこで、自分の前を行く先輩たちを見ることができる。私が担当する「日文(一)」クラスの学生も見に来ていた。(日文一はいわゆる0初級クラス)私と目があって「今日は見に来てみたんだ」というので「来年は参加したら」と言うと「うん、参加する」とやる気まんまんでこたえていた。

全体として雰囲気もよかった。最後の表彰で、優勝者に審査員の先生が「もう一度(朗読)やる?」と言ったら、みんなから「もう一度、もう一度」と声があがり、優勝した学生がもう一度朗読をした。その学生「いいの?」と言いながらも、紙を見ずに朗読を始め(すごい!)、途中ですかさず裏方の学生が紙を渡し、最後まで朗読を終えた。優勝した学生も、「もう一度」と言った観客も、機転をきかせた学生も、お見事!だった。

2011年10月18日火曜日

英語が役に立った(?)―3gaからMP3へのファイル変換―

元々、「役に立つ」とか「実用的」という言い方は好きではないが、昨晩、実感したこと。

スマートフォンで録音した音声ファイルを人に渡したかったが、ファイルを見ると3ga。これをMP3などに変換しなければいけない。ネットでフリーの変換ソフトをさがしたが、見つからない。音声系のフリーソフトは以前もさがしたことがあって、日本語でさがしていると見つからないが、英語でさがすと見つかることもある。今回も、検索ワードを英語にして検索、ほどなく見つかった。3gaの変換ソフトではなく、3gp→MP3の変換ソフトだったのだが、先にファイルの拡張子を3gaから3gpに変えておけばよいとのこと。すぐできて、問題解決。

ちなみに参照したページはここ
ダウンロードした変換ソフトは、3GP to MP3 Converter

実際、こんな検索は「英語」というほどのものではなく、3gaとかMP3とかはそのまま、後はカタカナ語を英語の単語に置き換えればできてしまう。あとは、少しだけ忍耐力を持って読めばいいだけのことだ。

思ったのは、「英語ができると世界が広がりますよ」「日本語のものだけ読んでいても狭い世界のことですよ」と言われても、私なんかが原文にあたって読むより、どなたかが翻訳してくれたものを読む方が、時間的に節約になったり、さらには内容の理解も深まったりする。だから、なんとなく「おっしゃることはわかりますが、でもね…」という気持ちがなくはなかった。

でも、こうやって目の前の問題を解決してくれると、「ああ、役に立った」と実感できる。
実際、他の仕事をしたかったのに、日本語ページをあれこれ検索し、使えないソフトを1つダウンロードしてしまい…などしてかかった時間は1時間弱。その後、英語に切り替えて数分で解決してしまったのだから、この差は大きい。

些細なことだけれど、こういう実感ももしかして大切なのかもと思った。

2011年10月13日木曜日

「団塊の世代」は男性を指すことが多い【授業メモ】

文章の中に「団塊の世代」という言葉があったとき、男性をイメージすることが多いと思います。

ずいぶん前になるが、非常勤で教えている大学に、日本から視察に来ていたN先生といっしょに食事をしてお話した。その時に、聞いたこと。

N先生は日本の大学の留学生センターで仕事をしている。

「団塊の世代」という言葉を聞くと、N先生はまず、男性をイメージすると言う。そう言われれば、私もそうだ。雑誌や新聞などの中で、「団塊の世代の○○さん」と書いてあったら、無意識のうちに男性をイメージしていると思う。そういう言葉の持つイメージを、学生に伝えたいと、「団塊の世代」という言葉が載っている文章を探し、それが男性をさしているか女性をさしているか、を学生に調べてもらった。結果は、「団塊の世代」は男性に言及していることが多かったとのことだ。

世代を表す言葉でいうと「バブル世代」や「団塊ジュニア」などがある。それらも、ある種のイメージがあるだろうと思う。また、感覚的に、ある時期に使われる「バブル世代」と、別の時期に使われる「バブル世代」とは、別の意味・イメージを持っているのではないかと思う。今の「バブル世代」は、40代半ばぐらいの年齢で、会社などである程度の地位を持つ世代になっている。今使われている「バブル世代」は、やはり男性を指すことが多いそうだ。私自身は「バブル世代」といわれてもあまり男性をイメージしない気がするが、「バブル世代」が今の歳になる前、もう少し時期をさかのぼって使われ方を見ると、使われ方が違うのではないかと思った。

「団塊の世代」、世代的にどの世代のことを言っているかということだけでなく、それが持つイメージ、使われる文脈などを調べるのは面白いと思った。

2011年10月11日火曜日

「いい文章」-自分の価値観

 いわゆる作文の指導をしている時に、「これって日本の国語教育っぽいな」と、自分の考えている方向について思うことがよくある。
先日も学生に「とても」以外に、「とても」を表す言葉はないか、と聞かれた。「非常に」とか「大変」なのだが、それも文体によるし…と説明したあとで、「『とても』を使わずに、具体例、様子の描写などをして表すほうがいい。」と話した。今担当している大学2年生の文章作成指導では、「具体的な記述」を一つのキーワードにしている。これは、思い返せば、私自身が教育を受けている過程で言われていたことだ。

ずっと前のことだが、非常勤で本務校以外の大学の授業を担当し、そこで出会った学生のこと。使っている言葉は、難しいものはないのだが、内容がわかりやすく、とても豊かで、「いい文章を書く学生だな」と感じた。本務校の同僚にもその学生の作文を見せ、「うちの学校にはいないよね、こういうタイプの文章を書く学生。」と言って、二人で感心していた。
その学生との授業は1学期だけだったのだが、学期終了後に、たまたまメッセンジャーで話をした。その学生が「文章を書くことにはずっと苦手意識を持っていたが、今回の授業は楽しかった。今までの学校生活の中で自分が書いた文章を褒められたことは一度もなかった。」と言っていた。それを聞いて、やはりどこか私の思う「いい文章」と彼らの受けた教育の中でのいい文章は違うのではないかと思った。

文章でもう一つ。履歴書につける自己PR文(台湾では「自傳」)について。人によっては日本語、英語、中国語の三つを書いて送るらしいが、どれも内容を少し変えるらしい。例えば、日本語で書くときは、自分の長所なんかは控えめに、短所もまじえて書く。でも、中国語で書くときは、長所はオーバー気味に、短所なんか書く必要がない…というように。
迷うのは、日本語で書くがその日本語の読み手は台湾人も日本人も想定されるような場合。どのスタイルを選べばいいのか…。

友人から聞いた話。うろ覚えだが、簡単に言うと、友人が書いた英語の論文を読んだ二人の先生が言ったこと。一人は「よくわかる」、もう一人は「わかるが、書き方がいまひとつ」。友人はオーストラリアで学んだのだが、「よくわかる」と言った先生はオーストラリア人、「いまひとつ」はアメリカ人だった。「英語論文の書き方」という言われ方をするが、「英語論文」のお作法も一つではないということだろう。

自分の価値観の押しつけになってはいないだろうか…。そういう疑問がいつも頭の中にある。解決策にはなっていないのだが、自分の持っている価値観を自己分析し、その価値観を言葉にして学生に提示する。とりあえずはそうやってしのいでいる。

2011年10月9日日曜日

「いつでもいいです」という礼儀[中国語]

少し前のことになるが、学生からアンケートに回答するように頼まれ、「いつまで?」と聞いたら「いつでもいいです」という答えが返ってきた。「じゃあ、来年!」と冗談まじりに返したのだが、その後、このやりとりを思い返してみた。

私が「じゃあ、来年!」と答えたのは、「いつでもいいです」という回答に違和感を感じたからだ。

私が思う、こういう状況での〈普通〉の会話では、
「いついつまでに必要なので、それまでにお願いします。」
という答えが返ってくる(はず)。

思い返してみると、何か頼まれごとをして期限を聞き「いつでもいいです」と言われたことは、今回が初めてではない。むしろ、何回もそう言われているのではないかと思う。今まであまり深く考えなかったが、何回もそう言われているということは、それは、
〈学生たちは〉そう答える習慣がある
と考えるほうが妥当だろうと思った。

ふと、以前書いた「あなたが決めるべきこと」を思い出した。
日本では家を訪問して飲み物を勧められたときに「何でもいいです」と答える人が多いが、これをやるとヨーロッパ人は「あなたが決めるべきことを何で私が決めなくちゃいけないのか」と怒ることが多い。
そんな内容の記事を読んだ後で考えたこと。逆の立場で学生に「何でもいいです」のような答えをされて、内心腹を立てたことを反省した。

以前も書いた、
「余計なことをお願いするのですから、先生の都合のいいようにしてください。」
この気持ちが、「いつでもいいです」にも出ているような気がする。そして、先生たるもの、常識を持っているので「来年」などということは言わない、という思いを持っている。
そう考えると、ちょっと大人気なかった自分が恥ずかしい…。

辞書を引かない英語多読-言葉の意味の類推-

前に書いた自律学習の発表討論会で、私は自分の100万語多読の学習について話をした。100万語多読は、①辞書は引かない、②わからないところはとばす、③合わないと思ったら途中でもどんどんやめる、という原則があるのだが、それについて、発表後に出た質問。
本当に全然辞書を引かなかったんですか?
私は1年と少しで100万語に到達したが、その間、辞書を引いたのは、確か2回か3回。多読のやり方が書いてある本には、「どうしても辞書を引きたくなったら引いてもいいが、読んでいる間に引くのではなく、読んだ後で引く」というように書いてあったと思う。そのとおりにした。(ちなみに、私は言われたことをきちんと守るような性格ではなく、英語多読の方法に関しては、私の性格、学習スタイルに合っていただけのことだ。)
辞書を引かないで意味がわかるようになるんですか?
わかるようになったのもあると思う。何度も同じようなところで出てきて(例えば「 」の後ろとか)、その他の文脈があると、あ、そういう意味かな、と思うこともある。
それから、カタカナ語として知っていたものが、英語で出てきて、あ、そうなんだ、みたいなものもあった。
色々意見があると思うが(科学的な研究もあると思うが)、個人的な感触としては、元々単語自体は知っているが使い方に慣れていないものに慣れる、というのが多読のいいところだと思う。いわゆる英語的な言い回し、に慣れる。それは語句の使い方もあるし、文構造みたいなのもあると思う。
私は英語文法は苦手意識があって、読んでいると、もうちょっと文法がわかればなあと思うことがあった。(高校の英語復習本を買ってはみたが、そう言えば、途中まで読んでその後読んでいない。)
多読だけで全てがうまくいく、という人も中にはいるかも知れないが、多読+他のやり方との併用がよいように思う。


【関連記事】
多読

2011年10月8日土曜日

台湾のことわざ その2

前回紹介した台湾のことわざの続き。

熊と虎を怒らせるより、気の強い女性を怒らせるほうが恐い。(惹熊惹虎,毋通惹著刺查某) [台湾語]
そのままの意味。「刺查某」が気の強い女。

一粒のねずみの糞だけで、一杯の粥がだめになる。(一粒老鼠屎,壞了一鍋粥)
僅か一つの悪いもののせいで、全部がだめになるという意味。

良い馬は後ろの道の草を食べない。(好馬不吃回頭草)
来た道を振り返らない。決めたことはどんなことがあっても、元に戻さない。普通は、破局した恋人ともう一度付き合うのは無理という意味。

二日で魚を捕り、三日で網を干す。(兩天捕魚,三天曬網)
魚は腐りやすいので本来は売る当日に魚を捕らなければいけない。二日で魚を捕って三日で網を干すのは怠惰で気が短いということ。今はそこから、やる気がなく持続力がない人を非難する時に使う。

2011年10月4日火曜日

ジャニーズ、アニメ、漫画、ゲーム以外に何かないのか?

「自律学習」にも関連するが、ちょっと考えたこと。

 アニメが好きで日本語を勉強するようになったとか、ゲームをしていて自然と日本語を覚えたとか、そういう話はよく聞く。私はアニメもゲームもほとんど興味がないので、その好きからどうやって日本語を勉強しようという気持ちになるのか、未だによくわからない。
 ジャニーズファンのパワーも驚くほどだ。私はジャニーズ系のコンサートに1度だけ行ったことがあるが、ファンというわけではない。実際、本当のジャニーズファンに会ったのは台湾に来てから。ある調査でインタビューをお願いした方がジャニーズファンで、そのつながりで2人インタビューの相手を紹介してくれた。喫茶店に来てもらい順番に3人にインタビューをしたのだが、久しぶりに会ったその3人は、インタビュー後の雑談で、興奮した様子でジャニーズについて語っていた。私は話にはたまに参加する程度だったのだが、会話は全て日本語。気をつかってもらっているのかと思いきや、私が先に帰ると言った後も、台湾人3人で日本語でジャニーズ話を続けていた。その後もたくさんのジャニーズファンに会った。日本語が上手だなと思うと、後でジャニーズファンだと言うことがわかり、「やっぱりね」と思うようになった。

 前置きが長くなったが標題の件である。学習言語で何がしたいかや、何か興味があることがあると学習が促進されるというのはよく言われること。ジャニーズやアニメ等はそのいい例だ。ただ、ジャニーズやアニメにはのれない学生も多くいるだろう。
 大学で日本語主専攻の学生には元々日本語には興味がなかったけれど、入試の結果で日本語学科に入ることになったという学生がいる。また自分は他の学科に行きたかったけれど、親に言われて日本語学科にしたという学生もいる。そういう学生が、周りの熱意ある学生を見て、自分でも何か好きなことを見つけて勉強したい、と思ったときに何があるだろうか。実は、わりと心にひっかかっていて長いこと考えているのだが、思いつかない。
 何でもいいと言えばもちろんそうなのだが、「何でもいいんだよ、好きなことで」と言われて、「はいそうですか。じゃあ…」と考えられるのなら、学生も苦労しない。元よりそんな学生は人に相談なんかはしないわけで、私が相手にするのは「何でもいいと言われても見つけられない」という学生だ。
 去年担当したクラスの学生に「源氏物語が読みたいけれど、何か読みやすいものはないか」と聞かれたことがある。その後話していてわかったのだが、「日本語を理解したい。日本語の奥にある考えを理解したい。そのためには古典を読むべき。」と思って、古典の代表作として源氏物語を読みたいと思ったようだ。古典を読みたいっていうのなら「徒然草」や「枕草子」のほうが読みやすいと思うよ、と言ったら、「じゃあ、読んでみます」と言っていた。そういう風に考える学生もいるんだなと、その時思った。これも「何か」の一つではある。
 合わなかったら次!ぐらいの軽い感じで考えられるように、10ぐらいはリストの準備をしておきたいなあ。

2011年10月3日月曜日

台湾のことわざ

作文のクラスでことわざ紹介を書いてもらった。面白かったので、いくつか紹介。

お金は足が四本、人は足が二本。(錢四腳,人兩腳)[台湾語]
足が四本のほうが走るのが速いので、お金に人は追いつけないお金を稼ぐのは難しいという意味。

牛は北京へ行ってもやっぱり牛。(牛牽到北京還是牛)
人の本性は変わらない。

イタチが鶏に年始の挨拶をする。(黃鼠狼給雞拜年)
イタチは鶏の天敵。イタチが鶏に挨拶するというのは実は食べたいと思っている。心に陰謀があることのたとえ。

ニワトリの腸、鳥の腹。(雞仔腸,鳥仔肚)[台湾語]
ニワトリの腸も鳥の腹も両方とも小さいことから、ケチのたとえ。


紹介することわざは「動物」「数字」が入っているもの、という限定をつけたもの。[つづく]

2011年10月2日日曜日

第二外国語の「日本語」が目指すもの

前に書いた発表討論会でのこと。「日本語自学ハイウェイ構想」の発表の質疑応答で、高校で日本語を教える先生から「ハイウェイ構想をどう高校の日本語に応用していけばいいのか」というような主旨の質問が出た。(何とおっしゃっていたかは、うろ覚え。でもこのような内容だと私は理解した。)
その後も、みんなの自由討論で、「持続的な学習をしていくには…」のようなことを話していたときに、高校の先生や、大学でも第二外国語担当の先生からは、「自分の現場とは離れている」というような主旨の話が出た。(と思う。)
 私は高校で教えたことはなく、先日の発表で高校での授業時間数は60-64時間ぐらいというのを聞き、改めてその時間数だと「何をしたらいいんだろう…」という気持ちになるだろうと思った。すでに書いたが、私も大学の第二外国語で「ここは何をすると考えればいいんだろう」と考えたことがある。

 台湾で日本語を学んでいる学生で、「仕方なくやらされている」という状況はよくある(私の知るところでは)。私の以前の勤務校は「日本語を履修しなければならない」学生ばかりの状況だった。もちろん好きで学んでいる学生もいるが、ずっと「なんでやらされなきゃいけないの」と思っている学生もいる。
実際、「日本語」を勉強しなければならない理由など、ない。履修しなければならない状況に置かれている学生は、学校が開講していたのが「スペイン語」ならスペイン語を、「ドイツ語」ならドイツ語を勉強していたのだろうから、例えば、ひらがな五十音を覚えなければならない理由などない。

私の勝手な思い込みかもしれないが、台湾では外国語はまず英語、そして第二外国語としては日本語がかなり主流であったように思う。二番手の日本語はわりとゆるぎなく二番手だった。先日、高校で教えている教員に聞いたのだが、彼女が教えている高校は今までは第二外国語は日本語だけだったが、新たにスペイン語など他の言語も取り入れられ、教員としての彼女は授業時数が減ることになってしまった。(元々は専任教員だったのだが、授業時数が足りないので専任扱いにはならないとのこと。詳しい事情はよくわからないが、私が高校の教員だったら、かなりあせるような状況だ。)たぶんそういう状況は今後も続いていき、ゆるぎなかった二番手の日本語は、その位置が変わっていくのだと思う。

最初に書いた「自学ハイウェイ構想」を高校の日本語にどう応用していくかであるが、私は大学の日本語主専攻と高校の第二外国語とは、違うように思う。ハイウェイ構想の比喩を借りるのならば、大学の主専攻日本語は運転免許を取得し車でどこかへ移動することが目的であるが、高校一年生(第二外国語は一年や二年次に履修するようになっていることが多いらしい)に、運転免許を取得させることはできないし、じゃあ、全員に原付の免許を取得させようというと、別に原付免許なんていらない(台湾ではそうでもないかも知れないが、日本では)という人も多いだろう。もう少したとえを続けると、そこであり得るのは、たぶん、交通ルールを理解したり、車を運転している人の視点や視界を理解して、自分が歩行者としてや自転車に乗る際に交通事故をどう避けるかなどの、安全教習的なものだと思う。
話を戻すと、高校の第二外国語での目的は、「日本語」を習得することそのものにあるのではないだろう。発表討論会の高校の先生の発表原稿を見ると、高校の第二外国語の位置づけは「培養興趣的科目」(教養科目、興味関心を育成する科目)とある。「興味関心を育成する」と勝手に訳したが、興味関心の育成はなかなか厄介だ(日本の小学校の英語教育の悩みと共通するところがある気がする)。しかし、大事なことは、たとえどんな言語を学ぶにせよ、共通した目標がそこにはあるはずだ。少なくともそういう前提に立たなければならない。
発表討論会の中で引用した 
我々は長いこと「言語」という枠にとらわれすぎていたのではないだろうか。学習の楽しみとは?学習の成果とは何か。
ここを本当に真剣に考える必要があるのだと思う。そしてそれは、どんな外国語でも共通するものであり、そこから、じゃあ日本語の例で考えると…、というのが第二外国語教育なのではないかと思う。

これまた全く知識足らずの可能性もあるが、今は、「大学での日本語教育があって、高校の日本語教育があって…」という繋がりで捉えられている気がする。それもそれでよいが、高校のいろいろな外国語担当の教員が繋がっていく、そこでいっしょに考えていく、という繋がりも必要だと思う。そして、ゆるぎない二番手だった日本語の教員が、今までの蓄積された知恵や悩みを元に、リーダーシップをとっていけたらよいなあと思う。

2011年9月30日金曜日

研究会参加メモ-「自律学習」に集まった関心事-「自律的な言語学習のデザインとその支援」 発表討論会

先週、非常勤の勤務校で標記の研究会が行われた。小規模なものだったので集まる人は内輪だけかと思っていたが、他大からも院生を含め参加者がいて、「自律学習」という言葉には関心があるのだと感じた。私も拙い発表をさせていただいた。
当日は「自律を目指すことばの学習」の桜美林大学の齋藤伸子先生もスカイプで講演をしてくださり、そのやり方も初めてのものだったので、色々と面白かった。当日の発表、討論を私なりにまとめ、思ったことを含めメモしておきたい。

○「楽しく走れる日本語自学ハイウェイ構想」
発表原稿のまとめのところで「日本語教育でもさまざまなリソースが用紙されているが、これまではリソースの平面的な羅列にとどまっていた感がある。それをどのような形で学習者に提示していけばよいか、ここでは、われわれの生活に身近な高速道路を例にシステムの全体像を考えてみた」とあるが、運転免許を取得して高速道路を走る楽しみを学習支援システムに置き換えて考えるというものだ。
私の理解で乱暴にまとめてしまうと、
今はリソースはたくさんあるけれど、ばらばらに提示されていたが、学習者が自分の学習の通る道を見通せるような提示の仕方をし、そこには、教師だけでなく、いろいろな人が関わるようにできるといい。その提示の仕方、他の人が関わることができるような仕組みを教師が作っていくことを考えたい(通る道筋を提示すること、教師以外の人が関わることが自律学習につながる)
ということなのではないかと思う。
「燃料」を比喩に、語彙の重要性も強調されていた。発表者の先生は、学生に語彙リストをわたしているということだった。日本語では基礎語彙で理解できる範囲が狭く、語彙数が大きな意味を持つからだ。ただ単に教科書に出てくる語彙を覚えましょうというのではなく、将来的にどのぐらいの語彙力がないと、理解ができないかという道筋を提示して、そこにいく道順を語彙リストとして提示しているということなのだろう。 

○「スカイプを通した中国語学習支援の一考察」
 私も支援してもらったが、この研究会の主催校のK先生担当授業「日語分科教学法」で、学生たちが学習者のニーズを聞いてコースデザインをし学習支援を行った。その学生による発表だった。
元々曖昧な学習者のニーズ(台湾ドラマを中国語で楽しみたい。教科書のような言葉ではなく、台湾人が日常的に使っている文法を知りたい。台湾の友だちへのメールなどを添削してもらいたい。)だったが、年末に高雄を旅行することがわかり、高雄旅行で使える会話を目的にしてコースデザインを行なっていた。
 レッスンは週2回、スカイプを通して1時間だが、毎回、予習用の聴解音声、その文字化ファイル、レッスン当日は会話音声ファイル、補充教材、など、多彩なものが用意され、製作した学生たちはさぞ大変だったことだろうと思った。
 発表の最後に学習者から高雄旅行の後に送られたお礼のメール(中国語と日本語)があった。コースの中で、「バスに乗る。バスの運転手さんとの会話」というのがあったが、それも実際に使ったということだった。学習者の「使えた」達成感が目に浮かぶようだった。
 実は時間がなくて聞けなかったのだが、曖昧なニーズからどうやって高雄旅行のことを聞き出せたのかが知りたかった。結果的には「高雄に旅行するんだからそのためにそこで使える中国語を勉強するのが、実際に使えるし、実用的でいい」と思うが、私たちが実際に「何が勉強したいですか。今、何に困っていますか」のようなニーズの聞き方をされても、「高雄旅行に行くので…」という答えは出てこないことも多いと思う。「自律学習」でも具体的な到達可能な目標設定をするのが難しいことが語られているように思うが、ニーズや目標と学習デザインを結びつけるのは結構難しい。今回は見事に成功させていたが、どうやってそこに到達したのか、そのプロセスを知りたかった。

○「高中第二外語基礎課程自律學習的可能性與問題點」
 タイトルを日本語にすると「高校第二外国語基礎課程の自律学習の可能性と問題点」になるかと思う。
 発表者の先生が高校の第二外国語選択日本語クラスで行った学生のポスター発表の取り組みが紹介された。
 ポスター発表は、生徒たちを6-8人のグループに分け、自分で日本語の素材をさがし、それについて説明するポスターを作るというものだ。
選択で日本語を履修している生徒たちは、元々日本のものが好きないわゆる「哈日」な生徒たちで、日常生活の中で漫画や商品やドラマなどで「なんとなく知っているけどはっきりわからない日本語」を「はっきりわかりたい」という気持ちを持っているという。
 この活動で面白いと思ったのは、「他の人に教えてあげる」という活動目的、グループ学習では日本語が得意な生徒が他の生徒に教えるという「協同学習」的な要素が出てきたこと、またアクネス洗顔料という商品を紹介したグループの発表が好評で、それは、広告の中でニキビ対策の洗顔方法が歌になっているのだが、その内容を知ることで、日頃ニキビに困っている多くの高校生にとって「実用的だった」ということだ。
 私の記憶では口頭発表の時にはあまり触れられていなかったように思うが、発表原稿を見ると下のように書いてある。
最後,重要的是長久以來我們會不會因為課程名稱的「外語」這兩個文字的影響,而把焦點過於放在「語言」這個框架裡?學習的樂趣是什麽?學習的成果該如何定義?這也許未來的研究課題吧!!
(勝手な簡訳:授業名称の「外国語」という言葉に影響され、我々は長いこと「言語」という枠にとらわれすぎていたのではないだろうか。学習の楽しみとは?学習の成果とは何か。今後の課題だろう。)
高校の第二外国語は大学入試とも関係なく、実際の時間数はだいたい60-64時間ぐらい。これは1週2時間で1年間の課程だが、1学期間だけという学校もあるらしい。そんな時間数でいったい何ができるのだろう?そんな風に思っている高校の教員も多いのではないかと思う。高校だけでなく、大学の第二外国語科目を担当している教員にしても同じかもしれない。そう言えば私も、やむなく日本語を学習することになってしまった学生たちを前にして、ここは何をするところだと考えればいいのか、と悩んだことがあった。
 この発表は、そんな現場から、学習者が自分の実際の生活とつながる学習(自分で見た・聞いた素材を持ち込む)、自分が学んだことを人に伝えて喜んでもらうことで学習の達成感を感じる、そこが「自律学習」と関係するところだということだろう。

○「インターネットを使った、日本語学習時に於ける問題解決方法の提案」
 発表の主旨をまた乱暴にまとめてしまうと、実際に日本語を使う機会が乏しい学生たちに、実際のコミュニケーションをとる機会を提供したい。それに、インターネットの質問箱サイトが利用できるのではないか、ということだった。
 へえ、と思ったのは、日本の質問箱サイトを取得するのに台湾からだとIDが取得できないものがあるということ。紹介されていたのはOKWaveだったが、OKWaveは台湾からでもIDが取得できるが、話の中であったのは確かYAHOOはIDが取得できない(か、投稿ができないか忘れたが)ということだった。
 この発表では、教室の教師から与えられる課題をこなすことが学習になっている学生たちに、いかに実際使用機会を与えるか、実際使用機会を通して個々の問題点や課題を見つけてもらう機会を持たせたい、ということから始まっている。そこが「自律学習」とのつながりなのだろう。


 この発表討論会に参加して思ったのは、「自律学習」という言葉での関心はそれぞれだということ。時には、思っていることが違っていて、話がかみ合わないと思えることもあるし、その状況は自分のいる現場とは離れていて話にのれない、という雰囲気になることもあった。私自身も終わってから、今日の話はどうまとまっていくんだろう、と考えてしまった。
 ちょっと話は横道にそれるが、以前大学院生と話していて、彼らが思う「自律学習」が「学生が目標を決めて自ら楽しく勉強をし続けいていく」という像を思い描いているように感じられ、「それはなんかちょっと気持ち悪い」とコメントしたことがあった。院生たちには思いっきりびっくりされてしまったが、その思いは今も変わっていない。
 みんな「自律学習」と聞いて思うことはいろいろあって、共感できない部分もあったりする。でも、そこで、じゃあ「自律学習ってなんですか」のようなことを考えていっても、それは時には必要なことではあるけれど、前に進むことがなかなかできない。ここに集まってきた人たちは、現状肯定そのまま持続という姿勢ではなく、何かやっていこうとか、何か考えていこうとか、そういうことを思っている人たちだ。その思いは充分伝わった気がする。
 「自律学習」をタイトルに掲げた発表討論会はこれで二度目(この大学主催の)だった。三度目もしたいということだったが、次回はもう少し突っ込んだ話がしたいなと少し思った。

2011年9月26日月曜日

「ジーパン」は古い!

 聴解教材を大学院生たちと作っている時のこと。
以前録音した会話で「ジーパン」と言っている人がいたのだが、大学院生に言わせると
「大学生なのにジーパンなんて変」と言う。
ジーパンという言い方は古く、おじさんかおばさんのようだ、というのだ。
以前録音したその会話では一人が「ジーパン」一人が「ジーンズ」と言っていて、現実を反映しているようだった。

私個人の語感では、「どっちかな?台湾の学生にはどっちがわかりやすいのだろう?」と思うぐらいで、どちらが古いという感覚はなかった。

そういえば、こないだ別の大学の台湾の学生に聞いたところでは、みんな「ジーンズ」だと言っていた。さすが、学生は「きちんと」新しいほうの言い方を習得している。

その前に、別の学生から、私の語彙では「オーバーオール」を日本語では何と言うか聞かれた。学生には「私の知っている単語では『オーバーオール』と言います。『オーバーオール』と言えば相手にわかります。でも、洋服の言葉はよく変わるので、今は何というかわかりません。『オーバーオール』と言ったら、なんかおばさんみたい、と思われるかも知れません」と答えておいた。

今日、大学院生に「オーバーオールって、今はなんて言うの?」と聞いたら、答えの単語は全く聞き覚えのないもので、「サロンパス?」か「パンパース?」と聞こえてしまうような単語だった。
ちなみに、ネットで調べたところ「サロペット」「ロンパース」のようだ。
ロンパースは、ベビー服について多く使われているようだが、よくわからない。
院生いわく「サロペットって思っていたんですけど、その言い方も古いかも」とのこと。

どちらにしても、私が学生に話したことは正しかったようだ。

……ついていけない。

2011年9月10日土曜日

電子書籍を買えないわけ

スマートフォンを買った理由の一つが「電子書籍を使ってみたい」だった。電子書籍を体験したいということが一つ。また、家の中に本がかなりあり、引越しの時はそれは大変だった。
GALAXY S IIを選んだのも、電子書籍を読むのに、画面が大きめのほうがいいだろうと思ったことが理由の一つだった。
そしてスマートフォンを買った。でも、まだ電子書籍を買えないでいる。
わけは、いろいろ考えて、電子書籍は不便だなと思うからだ。

私はよく人と本を貸し借りする。専門書を同僚の先生や学生に貸したり、面白い本を学生や姉や友だちにすすめたりする。電子書籍になるとそれができない。そうすると、貸し借りする可能性があるような本は、普通の本を買うことになる。
本をある部分コピーして授業で使うことがある。電子書籍はコピーができない。そうすると、これいつか使えるかも、と思う本は普通の本を買う。
英語多読の本を電子書籍で買おうかと考えた。これは他の人と共有する可能性はない。辞書で何かを調べようとするのも電子書籍のほうが便利かもしれない。しかし、私が読むのは台湾でも売っている一般的な本なので、台湾で普通に本を買ったほうが安い。本にもよるが、例えば英語多読ではまったSophie Kinsellaの本。台湾でよく使うネットでの価格は221元。Amazon.comのKindle Storeでは8.39ドル。221元を米ドルに換算すると7.56ドルなので、台湾のほうが安いのだ。
人と絶対共有しないであろう本を電子書籍で買おうかと考えた。角川の新書なので電子書籍があるかと思ったがなかった。

話は少しそれるが、角川の新書の電子版をさがしている時に紀伊国屋のサイトを見たのだが、海外在住の場合は買えないと書いてあった。買いたい物があるわけではないのだが、なぜ????と思った。以前、雑誌の電子版で海外のみ配信というニュースを読んだことがあるが、雑誌がOKならば本も基本的にOKなのではないかと思うが、理由がよくわからない。

いくつかフリーでダウンロードできる洋書をスマートフォンにいれてみた。でも、別段どうということもなく、わくわくすることもなかった。(お金を払わないものに期待していはいけない。)

うーん。どんなことがあれば、電子書籍を買う気になるのか…。





2011年9月9日金曜日

SIMロック解除 docomo→台湾

前のエントリーで書いたスマートフォン、店頭でSIMロックが解除できると聞いて、解除した。6月末には解除したのだが、その後、本当にただなんとなーーく、壊れたらどうしようと思って、SIMカードを入れ替えていなかったのだが、ついに台湾の携帯電話のカードを入れて使うことにした。

このSIMロック解除、ドコモショップに行って1時間もかかり3000円も払った。1時間もかかったのは、たぶんそのショップでSIM解除をした客は私が最初だったからだと思う。店のどの人も慣れていない感じで、何度もいろいろ電話で問い合わせをしていた。さらに、「別のSIMカードを入れて何かおきても私たちは一切サポートしませんよ。自分でやってね。」というのを、やんわりと遠まわしに言うものだから、最初は意味がこちらに伝わらず、会話がちぐはぐになってさらに時間を取られた。

私の台湾の携帯は友人たちからあきれられるほど古いもので、普段も使っていたのは電話とショートメッセージ(SMS)を受けるのみ。SIMカードも2Gのまま(たぶん)。わけもなく心配だったのは、このSMSをきちんと受け取れるかということ。クレジットカードを使ったり、ネットで購入したりすると、このSMSで連絡が来るので、これが使えないと不便なことも多い。これは友人に頼んでテスト送信してもらい、受け取れることを確認。電話は自宅の電話から電話してみて、OK(確認するまでもないが一応)。
これで、使っていくことにした。(うじうじしていたわりにはあっさり簡単。)

SIMカードを入れ替えたあとのあれこれ。

①グーグルのアカウントのパスワードを入力するようにメッセージが出てくる
SIMカードを替えるともう一度入力しなければいけないらしい。

②電話帳の同期し忘れを発見
パスワードを入力した後で気づいて遅かったのだが、電話帳でグーグルの連絡先機能を使っていたのだが、端末で入力して同期していないものは消えていた。

③アンドロイドマーケットで購入ができない
知っている人が見たら「あったり前じゃないか」ということなのかも知れないが、アンドロイドマーケットでアプリを買おうと思ったら、無料のものしか表示されなかった。仕方がないので、もう一度SIMカードをdocomoのに戻したら、有料のものも表示されるようになった。購入して、もう一度SIMカードを戻す。

④twitterへのログインに手間取る
元は、スマートフォンに入っていたSamsungのアプリを使っていたのだが、不便だと思ったので、公式サイトのアプリを入れた。しかし、ログインができない。何度やってもできない。ネットで調べてみると、そういう人は多いらしく、「Wi-Fiからだとログインできないことが多い。その場合は3G接続にしてログインするとできる。」と書いてあるが、3G接続は台湾のSIMでは私はできないし、日本のSIMを入れて3G接続するなんて…と思ってあきらめていた。実はネットでも、twitterのページではログインできない状態が続いていたので、それを解消したり、いろいろやっているうちに、なぜかできてしまった。

SIMカード交換には関係ないが、疑問を一つ。スカイプのお金を払って電話するシステムについて。
元々PCでスカイプを使っていて、日本へ電話をかけていた。最初はスカイプクレジットを購入したが、その後月額プランの方が私にとっては割安だとわかり、その後は毎月月額プランを購入している。スマートフォンでも使えると便利だと思い、スカイプアプリを入れたのだが、最初に購入して残っているスカイプクレジットは出てくるのだが、月額プランの方は出てこない。なんで?
月額プランは日本への電話のプランなので、日本のSIMカードだと出てこないのかなと思っていたが、SIMカードを入れ替えても相変わらずだめ。

ちなみに、スカイプではビデオ通話はできないと思っていたが、これもあれこれやってみるとできるようになった。後で調べてみると、Galaxyもできるようになったらしい。

SIMカードの入れ替えをしようと思った最大の理由は、着信音が変更できるから。携帯音痴で着メロには無縁だった私。台湾の携帯でももちろん着メロはできるはずなのだが、私は設定がわからず、やってみたがうまくいかなかった。まあいいかなと思っていたのだが、最近(少し前から)、耳が年をとってきて、着信音が自分の電話か他人の電話か(はたまたテレビの中のものか)が、わからないことが多くなった。自分の好きな音楽にすればそういうこともなくなるし…というなんとも「今さらその理由ですか??」という理由。

2011年9月8日木曜日

携帯音痴がスマートフォンに奮闘

6月末に発売されたばかりのGalaxySⅡを買った。それまでソフトバンクのプリペイドを使っていたので、ドコモにも新規契約。とにかく、携帯電話のことはよくわからず、購入からスマートフォンを実際に使って、???の連続。パソコンを使い始めて戸惑う高齢者の気持ちがよくわかった気がする。

スマートフォンを買おうと思ったのは、まず、諸事情あってソフトバンクの携帯からドコモの携帯に変えようということが一つ。新しく買うのなら、スマートフォンにしたい。
スマートフォンにしたいと思ったのは、台湾で学生が結構スマートフォンを使っていることが大きい。授業の時に、発音がわからないのをスマートフォンでちょちょっと調べ、音声を聞いている学生がいたり、私が不注意でもらした「う・る・さ・い!」という言葉を聞きとって―
[以下、実際の会話は中国語]
学生「先生、今なんて言った?」
私「え?何も言ってないよ。」
学生「ウルサイ?」
私「え?そんなこと言ってないよ。」
学生「ウルサイってどういう意味?」
私「そんなこと言ってないって。はい、じゃあ…」
授業後、学生がスマートフォンで調べた画面を見せて
学生「これでしょ。」
私「………」
学生はかなりスマートフォンを活用しているし、たぶんこれから学習にも使われていくだろう。自分も使って理解したほうがいいと思ったのだ。また、姉が買った、というのも大きい。

さて、ここからが奮闘記。携帯事情がわからないことによる???や、スマートフォンがわからないことによる???など、いろいろ。その他、使ってみて、こういう機械だとこういうところがいい、というような気がついたこともある。

???であたふたした自分が結構面白いこともあり、雑多に記録。

①料金プラン云々が理解できない
携帯の料金プランはいろいろややこしいとは聞いていたのだが、本当に、理解できなかった。「○○はどうしますか?」と聞かれるのだが、○○が何なのか今ひとつわからない。また、各種サービス(?)をつけるかどうかも、つけると基本料金が割引になるとかなんとか…。「パケット」の概念も今ひとつわからず…。ちなみに私は「iモードメールって何ですか?」と質問したほどの日本の携帯事情知らず。

②タップって??
高齢者パソコン教室では「クリック」という言葉を使わずに説明するという話を読んだことがあるが、私もスマートフォンの動作用語がわからなかった。私の頭ではタップ=クリックと変換。その他の用語はいまだに覚えていない。使いかたがあまりにもわからなかったので、GalaxySⅡユーザーズガイドを買った。

③電話が受けられない
自分で一番情けないというか笑えたのがこれ。電話がかかってきたのだが、「応答」と書いてあるところを触れても応答してくれない。「どうして???」と思っている間に電話は切れ、こちらからかけ直し。3回ぐらいこれを繰り返し、触るだけではだめで、少し横にスライドさせればいいということに気付き、ようやく電話にでられるようになった。

④電話がかけられない
ずっと電話帳からかけていたのだが、ある時、家に電話しようとしたらキーパッドが出てこない(家の電話番号は電話帳には書いていないので)。3分ほど路上であたふたし、一番上にある部分を横にスライドさせると「キーボード」というのが出てきて、それに触れて解決。

⑤写真が逆さまに写る
カメラ機能で写真を撮ったのだが、なぜか写真が逆さま。なぜ?と思ったら、スマートフォンを横にして撮影した時の、持ち方が逆だった。シャッター部分が右になるように持つのが正しく、私は左側にしていた。普通に誰でも右側に持つものなのだろうか。

⑥写真がうまく撮れない
元々デジカメの時も、シャッターを押すつもりが電源ボタンを押してしまったということを何度もやらかしていて、写真とも相性が悪い。今回は、シャッターボタンに触れていない(と思う)のに、勝手に写真が撮られてしまい、それもピンぼけ。何枚も撮ればそのうち成功するのだが、なんとも効率が悪い。それに、電話を持つのとシャッターを押すのとでどう態勢を取ればよいのかがよくわからない。

⑦請求された料金にびっくり
忘れていた頃に、料金請求が来た。1000円ちょっとの料金プランだったのだが、請求額が8000円を超えていて、びっくり!初回は事務契約手数料とやらで3000円とられている。(あまりに驚いたのでドコモに電話して確かめたところ、初回は必ず請求されるものらしい。そんな説明受けたっけ?)パケット代が高額になっていたのだが、よーーく思いだしてみると、spモードメールとやらがわからなくて、ドコモショップで聞いたときに、そこでインストールされたが、あの時のパケット代ではないかと推測。いろいろ調べて、3Gモードは切っておかないと勝手につながってしまうことがあるということがわかった。


あんなにあたふたしたのに、書いてみると大したこともない気がしてきた。楽しいこと、便利なこともいろいろあり、トータルでは買ってよかったと思うことのほうが多い。

2011年9月2日金曜日

ビジネス日本語の教材に最適?[本]

オトナ語の謎。 (新潮文庫)
オトナ語の謎。 (新潮文庫)糸井 重里,ほぼ日刊イトイ新聞


タイトルは半分冗談、半分本気。
いわゆる社会人が使う日本語の語彙や表現を取り上げて使われ方、意味を解説している。
例えば、
-マネージャー-
学生諸君のイメージと社会人のそれが大きく異なる言葉。社会におけるマネージャーは、レモンの輪切りを用意したりはしない。部下を持つ管理者をそう呼ぶのだ。言葉の上に「フロア」や「プロダクト」などをつけることもある。…
私も初めて社会での使われ方を知った時に、あまりの違いに驚いた記憶がある。

「この本の生まれ方。」に
…簡単にいえば、日本語ってものはおもしろいよなあ、というような軽い知的好奇心をテーマにした読み物だったのです。
…というわけで、ここにオトナの言語を学ぶ、世界で最初の教科書が誕生したのです。
とあるが、読み物としても面白く、また、日本語教科書的な説明もなされている。日本語教科書的な説明は、普通に読めば面白いところなのだろうが、私が読むと「そうそう。こういう説明って必要」と真面目に思う。
-よろしくお願いいたします-
オトナの世界における万物の始まりが「お世話になっております」だとしたら、世界が終わる日に交わされる挨拶はこの言葉。すべての終わりにオトナはこう添える。
学生からもらう簡単な手紙やメールで、よくある内容が依頼だが、最後に「ありがとうございます」と書いてあるものが多い。「謝謝」をそのまま日本語にしたと思えば普通なのだが、日本語で読んでいくとちょっとカチンと来るだろうなと思う。以前学生に「最後は、『ありがとうございます』ではなく、『よろしくお願いします』!」と半分冗談で言い切ったことがあるが、私の感覚もそんなにはずれてはいなかったらしい。
-とぶ-
オトナが「とぶ」というとき、状況によってその意味はおおむね3つあるという。
「ちょっと神戸へとんでもらえるか」
この場合は急な出張、強制的な移動を意味する。
「午後の会議とんだから、急に暇になったよ」
この場合は、なくなることを意味する。ちなみにデータがなくなることも「とぶ」である。
「高橋さん、○○支社にとばされたらしいよ」
この場合は左遷を意味する。…
こんな書き方が結構多いのだが、これが教科書的ですごい!と思わせる。同じ単語で状況によって意味が違うもの。まとめて説明してもらえるとわかりやすくすっきりする。
-クリアー-
…「問題をクリアーしました」だと問題を解決したことになるが、「問題をクリアーにしました」だと問題がなんなのかようやくわかりましたよい、ということになり、進行状況に雲泥の差があることを覚えておこう。…
これも、なるほど!だ。こういう一字だけの違いで意味が違うというのは学生にとっては重要。
-通す-
伝票や原稿など、オトナはさまざまなものを通すが、もっとも通すのは「話」や「企画」である。先方に通したり、うやむやで通したりするのである。…
こういう、他のどんな言葉とセットでよく使われるかという説明も多い。
-そういうことで-
…そんなとき「どういうことだ?」とか思ってはいけない。要するに「今日はこれで終わりです」という合図なのだから。
談話レベルの説明。
-目を通す-
書類などをザッと読む、ということ。しかし、ほんとにザッと読んだだけだと「目を通しておけと言っただろう!」などと怒られてしまうから注意。上司から「目を通しておけ」といわれた書類は熟読するくらいでちょうどいいのかもしれない。…
この説明も、ほお、だ。言葉を言葉通りに受け取ってはいけないことはよくある。でも「目を通すってどういう意味?」と聞かれて、ここまでの説明をしてくれる人はそういない。私も「ザッと読むって意味だよ」と説明して終わりだ。

本の最後には索引もついている。読みながら、「索引あるかな?」と思って後ろを見たら本当にあって、見事。

私自身はこの本を移動中の電車の中で読んでいて笑いがおさえられず、ふきだしたりにやついたりしていた。そんな面白おかしいものを目指しているのではないが、「こういう説明があれば学生にわかりやすいし、役に立つ」という解説方法で、なんというか…脱帽した。

この本、元々は、どなたかのブログで「そうなんですね」のあいづちについて書いてある、というのを読んで、読んでみようと手にした本。糸井重里は、別に深い理由もなくなんとなくあまり好きではなかった(今まですみません)のだが、読んでよかった。


2011年8月13日土曜日

[本]ヒューマンな英語授業がしたい!-かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする

ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする
ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする三浦 孝,池岡 慎,中嶋 洋一


授業ネタ満載の本。コミュニケーション活動の例がたくさん載っている。ずいぶん前から持っていたのだが、途中まで読んでそのままになっていた。今回、最初から読み返し読み終えた。

私は英語の授業をしているのではないが、この本の9頁にある
「本当のコミュニケーション」とは何なのか。たとえば英語のネイティブ・スピーカーと話さなければ本当のコミュニケーションとは言えないのか。
「意味のあるタスク」とは何なのか。
「学習者にとって意味深い言語」とは何なのか。(一部略)
実は、ここ20年ほど日本に輸入されてきたCommunicative language Teachingの理論では、こうした詰めの部分が、しっかりと解明されていない。こうした詰めは、英語を母語として話す国々ではあまり必要のないものであり、むしろ実際に教育を行う現地(つまり日本の中学・高校)の生徒、教師、文化、教育制度に合わせて、現場教師の智恵を集大成して行うべきものであり、本家本元は日本にあるものである。
この部分は、そのまま単語を置き換えれば今の自分の状況として考えることができる。
この他にも、この本は思わず「そうそう」と言いたくなるところが随所に出てくる。

例えば、現在の状況として(6頁)
(1)たとえ教師がコミュニケーション活動を指示しても、生徒が活動に入ろうとしない。たとえば「4人のグループに分かれて机を寄せて向い合いなさい」と指示しても、無視して動こうとしない。
(2)生徒が一応表面上はコミュニケーション活動に参加する振りをするが、実際には活動しない(たとえば日本語で私語を交わしてお茶をにごし、教師が巡回して来た時だけ英語でやっている振りをする)。
これは(4)まであるのだが、どれをとっても「そうそう」と思う。(自分が今までどれだけ失敗してきたかという証明であるが…。)

既存のタスクへの考え方にも「そうそう」がある。例えば「問題解決型のタスク」で、従来からある「犯人捜し(殺人事件の犯人を、関係者の供述や目撃証言などからつきとめる活動)」や「生き残りゲーム(気球や救命ボートの乗組員が、乗り物を救うために誰が1人犠牲になるかを議論してきめる)」は
場面設定に難がある。殺人事件も、気球墜落も、前向きな設定ではなく、忌むべきネガティブな場面である。しかも生徒の人生とあまりにかけ離れた絵空事であり、イメージが浮かばない。このような場面設定が話し合うニーズをさほど喚起するとは思われない。「そんな絵空事の事件の犯人当てなんてどうだっていいよ」「べつに気球なんて乗ることないし、誰が生き残ったっていいじゃない」と冷めた声も聞こえてきそうである。
とある。もちろん、こういう設定がものすごく盛り上がることもあるのだが、盛り上がらないからといって「この学生たちはノリが悪い」というわけではないのだ。私もこの例ではないが、同じタスクで活発に活動できた授業としらけてしまった授業を経験している。
よく、「日本語でさえ意見が書けないのに、まして英語なんて…」と諦めてしまう人がいる。しかし、それは逆で「英語」というフィルターを通すからこそ、書きにくいことも書けてしまうのである。英語なら詩やラブレターも、照れくさいことも平気で書ける。気持ちをオブラートに包むような感覚になるのだろう。
これは、ずっと以前に私が授業でした「ほめる」の時に感じたことと同じで、やはりそうなんだと思った。

しつこく「そうそう」を書いてきたが、この「そうそう」は大事だと思う。よく研究会などで実践報告があると「◯◯の学生だからできること、うちの学生には無理」と言う声が聞かれる。この本は、そういう「うちの学生には無理」という言い訳や諦めをさせないようにできている。

「どんな学生にもできる」という主張は、綿密な段階を追ったタスク(コミュニケーション活動)の計画にある。
孤立したコミュニケーション活動をただ単に寄せ集めただけでは、その瞬間は生徒が面白がるかもしれないが、全体として意味有る授業とはならないのだ。(中略)「どこから」「どこへ向かって」「どのようなルートで」の中・長期的見通しの幹があってこそ、個々の活動が意味を持ってくるのである。
私なんかは、教科書が予め指定されている授業では、たまに時間に余裕がある時に「時間があるからコミュニケーション活動をやってみようか」という場当たり的なことをよくしてしまっている。反省。

いくつか、授業でやってみようと思ったコミュニケーション活動の概要をメモしておきたい。

チェーン・レター(141頁)[意見を書く]
紙を全員に配り、最初に各自にトピックを選ばせる。
選んだトピックについて自分の意見(考え)とその理由を書かせる。
決められた時間(例えば3分)書いたら、その紙を一斉に次の生徒に渡す。
次の生徒は、その意見に対して自分の率直な意見を書くよう支持する。
これを繰り返し

マイクロ・ディベート[意見を話す]
3人1組になり、同じ論題でYes,No,Judgeをそれぞれ体験する。
10分でワンセット。流れは以下。
1.肯定側立論(1分半)
2.否定側反駁(1分)
3.否定側立論(1分半)
4.肯定側反駁(1分)
5.自由討議(2分)
6.結果発表、振り返り(3分)
この流れで、3ラウンド行う。
マイクロ・ディベートに入る前に論点、肯定・否定、の立論メモを書いておく。対戦直前に立論メモを見せ合うのも有効。そうしないと論点が同じでないと意見が咬み合わなくなることがある。

私は実はディベートは好きではないというよくいる人間の一人だった。実際にディベート大会を見たこともあるが、各自が自分の言いたいことを言っているだけで、そこに言葉を通したコミュニケーションがあるように見えず、心地が悪い感じがした。準備の過程などを通して考えれば意味のある活動だと思うのだが、どうにもやってみようという気にはなれなかった。でも、このマイクロ・ディベートは、1対1での意見交換なので、コミュニケーションができるのではないか、やってみたいと思った。

Strategic Interaction[話す]
 読んだところの私の理解では、ロールプレイに似ているのだが、異なる点もある。ロールプレイと似ているので、学習者にとっては上級の活動だが、この本では本来の上級向け活動に加え、初級者向けの活動も紹介されている。

元々のStrategic Interaction
役割Aと役割Bが相互に別々のシナリオを与えられる。
(ロールカードとシナリオという用語の違いはあるが、ここはロールプレイと同じ)
役割Aのシナリオと役割Bのシナリオはすれ違っている。さらに、シナリオは状況を述べるにとどまり、「~しなさい」という指示がない。
(ここがロールプレイと違うところ。)
「相手の出方が予測できない」「状況説明だけで、行動を指示しない」シナリオがStrategic Interactionの特徴。
授業では、グループに分かれて各役割の準備をする(15分)。
1.役割を理解。
2.相手の出方を予測し、交渉プランを目標言語で準備。
3.相手の出方がわからないので、交渉プランは複数のオプションを準備。
4.相手グループと実際にやりとりをする代表者を選出。
グループの代表者各1名が実際に交渉する(5分)
代表者は必要を感じたときにはいつでも交渉を中断して自分のグループに立ち戻り、助言を受けることができる。またグループ員たちも、必要と思う場合にはいつでも代表者を呼び戻して助言を与えることができる。
振り返り活動(10分)

代表者がグループに戻って相談したり、代表者を呼び戻すことができる、というのがいいなと思う。

Strategic Interactionの導入活動―第1段階「こんな時あなたならどうする?」
予期しない他人の出方に、どう対処するかを考えるもの。
場面とそれに応えるセリフが選択式で与えられる。学生は選択肢の中から応答を選ぶ。創作したい学生は自分で考えてもよい。

今、新学期の授業でやってみようと計画中。

2011年8月6日土曜日

音声教材自作 ボイスチェンジャーの失敗

音声教材を作るためにボイスチェンジャーを使ってみた。結果は失敗。PCで聞いているだけならまだよかったが、教室でスピーカーを通すと音が割れて、何を言っているかもわからなかった。調整の仕方がまずいのかもしれないが、とりあえず簡単にはいかないということはわかった。
前からやってみようと思っていたので、こうしてやってみてうまくいかないことがわかったのは、それはそれでよかった。
もしかしたら、また挑戦してみようと思うかもしれないので、今回の失敗作の製作過程を書いておく。

使ったボイスチェンジャーソフトはこれ。
AV Voice Changer Software Diamond Edition

ネットで検索すると「神ボイスチェンジャー」とも呼ばれている。「神」だからすごいんだろうな、と単純に思った。買うと1万円以上する。今回は、無料のお試しで使ってみた。使えるのだったら1万円を出してもいいかなとも思っていた。

このボイスチェンジャーをさがしあてるまで、2、3無料のソフトを試してみたのだが、どれもだめだった。「だめ」というのは、テレビドラマで犯人が電話をしてくる時に声を変えるような、そんな変な声しか出なかった。いかにも機械音だし、また音も割れていて教材に使えるようなものではなかった。
もう記憶もおぼろげなのだが、試してみたのの一つはこれ。
MorphVox Junior
その他、英語で検索をかけて1つか2つやってみた記憶がある。(フリーソフトはPCの動作が不安定になることがあるので、使わないと決めてすぐアンインストールした。)

神ボイスチェンジャーは、YouTubeの【ボイスチェンジャー】完璧な女声に性転換してみた【男→女】を聞いて、普通の声に聞こえるなと思った。


ソフトの操作方法は、下記のサイトに詳しく説明がある。

結果は、最初に書いた通りである。教室に持っていったので、そんなにいい音質ではないが使えるものと思っていた。しかし、大スピーカーに耐えられるようなものではなかったようだ。

もしかしたら、設定の方法を変えれば、うまくいくのかもしれない。しかし、たぶん、それはとても大変で、「労多くして功少なし」の気がする。

元々、なぜボイスチェンジャーを使ってみようと思ったのか。
以前は気軽に録音を頼める同僚がいたのだが、その同僚がいなくなってからは同じ職場に録音を頼める同僚がいなかった。当時の職場はあまり共同で何かをすることをしないし、日本語の音声教材を作ると言ってネイティブ以外の先生が簡単には引き受けてはくれないだろうし、何より私以外の先生はとても忙しくて余分なことをしてもらうのは気が引けて、頼んでみようとも思わなかった。(たぶん、私だけではなく、そういう教師は結構いるのではないだろうか。)
とにかく、私以外の声がもう一つほしい。ボイスチェンジャーが使えれば、もっと録音ができて簡単に音声教材が作れる!と思った。

でも、結果うまくいかなかったのもあり、また、「もっとソフトの使い方がうまくなれば…」と思わないこともなかったが、そこではたと思った。そんなことに時間をかけているよりも、
誰か気軽に頼めるような人と人間関係を構築しその人に頼む
或いは
学生に頼んでいっしょに録音してもらう
というほうが、同じ手間暇をかけるのでも、そちらのほうがいいのではないか。学生の場合、最初は嫌がるかもしれないが、学生にとってもいい練習になるし無駄なことにはならない(と都合よく考える。)

ということで、ボイスチェンジャーを使うのは、これにておしまい。

2011年8月3日水曜日

[本]会話教材を作る

会話教材を作る (日本語教育叢書 つくる)
尾崎 明人 中井 陽子 椿 由紀子 関 正昭
4883195287


タイトル通り、会話教材を作るための理論と実践をまとめたもの。教材例も多数あってわかりやすい。私が役に立つと思ったのは、いくつかの部分での理論的なまとめだ。なんとなく感じていたが整理できていなかったものを整理してまとめて提示してくれている。

以下、自分のための覚書。

1、交流会話と交渉会話(第1章第1節)
話すことには「独話」と「対話」がある。「対話」は2つのタイプがあり、面接や会議などの談話管理者がいるものと、日常の会話のように談話管理者がいないものがある。この談話管理者がいないものを「会話」と呼ぶ。
「会話」には「交流会話」と「交渉会話」の2つがある。「交流会話」は話すこと自体を目的としてる、いわゆる「雑談」。「交渉会話」は何かの物事を具体的に処理することを目的とする会話。「交流会話」と「交渉会話」は、別々にあるわけではなく、1つの会話の中に両者が含まれることもある。
「交渉会話」はある程度談話の型があるのでその談話展開の型とそれに関わる言語表現を指導する。「交流会話」は、何を話題とし、その話題をどう導入、展開、終結させるかが指導のポイント。

この「交流会話」と「交渉会話」、なんとなく2つの違いがあると思っていたが、こうやって名前をつけてもらえるとはっきりしてわかりやすい。「交流会話」は、「導入、展開、終結」ということをあまり意識していなかったので、なるほどと思った。一つの話題を深められない、尋問のように、質問、答えを聞いて、また次の質問、ということがおこりがちでどうにかしたいと思っていたが、やはりここが指導のポイントだったのかと思う。この「導入、展開」については、第3章第2節で、初対面の会話(雑談)での会話展開について、実際の会話と会話参加者へのフォローアップインタビューが掲載されており、面白い。

2、モデル会話の自然さ(第1章第4節)
モデル会話の自然さには、言葉の自然さと内容・展開の自然さがある。言葉の自然さは、日本人から見て不自然であっても学習者のレベルに応じた「自然さ」で構わない。しかし、内容・展開の不自然さは入門レベルであっても避けることができるし、避けるべき。
あまり考えたことはなかったのだが、とても納得。

3、聞き返し(第2章第3節)
聞き返しには基本的に①反復要求型(もう一度言ってください。)、②説明要求型(~はどういう意味ですか。)、③聞き取り確認型(~と言いましたか。)、④理解確認型(ホッチキスってステープラーのことですか。)の4つに分けられる。
聞き返し回避の方略は消極的回避(分かったふりをする)、積極的回避(分からない語には言及せず、ほかの方法で意味を確認する)に分けられる。
説明要求型の聞き返しには、話の流れを中断してしまったり、聞かれた側の日本人がうまく説明できずに気まずくなることもある。学習者には、理解確認型の聞き返しや聞き返しの積極的な回避を指導する必要がある。
聞き返しの種類は、理解はしていたが、それを明確に教材化したことはなかった気がする。また、説明要求型の聞き返しがうまくいかないことは、実際に多く(説明しても余計わからなくなってしまい、お互いに気まずい)

積極的な回避の例は

佐藤:私がそこまで迎えに行きますから、塩釜口の改札口は1か所しかありませんからね。
ファン:はい、分かりました。そこで待っていればいいんですね。
(「迎えに行く」が理解できなかったが待ち合わせの場所で待てばいいことを確認している。)

積極的な回避の指導は、「自分がわかった範囲のことを相手に伝える」ことだろうか。(約束の際に時間や場所を繰り返して確認することを学生に言ったら「しつこいんじゃないか」という反応が返ってきたことがあったが、これもそう思われるのだろうか。)

4、コミュニケーションの機能(第2章第4節)
①事実関係を伝える活動
事実などの情報のやり取り
②心の動きを表す活動
自分の感情や評価を伝える
③相手に働きかける活動
他者に働きかけて行為をさせる、了承を得る
④交流していく活動
おしゃべりなどによって、相手への関心を示す、自分を知ってもらう
⑤メタ言語的な活動
発話している言語自体についての説明、行っているコミュニケーション活動に対する言及
⑥言葉で遊ぶ活動
言葉の響きや美しさ、リズム、繰り返しなどに焦点を当てて楽しむ

6つの機能は相互に絡み合って用いられる。

「②心の動きを表す活動」は、あまり注意してやっていなかった気がする。Facebookなどのコメントによく使われる感じがするが、意識してやってみたい。

5、会話のフロアー(第2章第4節)
会話の空間を参加者たちがどのように共有しているかを捉える概念。
「心理的な時間と空間において何が起こっているかが認識されているもの」
「話題、または、機能(からかいや応答を引き出す等)、あるいは、この2つの混合、を含むもの」
聞き手の参加の度合いにより以下の2つに分かれる
「単独的フロアー」
1人の参加者がフロアーを独占し、他の参加者がそのフロアーに協力している状態
「共同的フロアー」
参加者すべてがそのときに展開している会話に参加し、フロアーを共有している状態 
フロアー別の会話練習活動デザイン例
①モノローグによる単独的フロアー →学習者が1人ずつクラスで口頭発表。
②ダイアローグによる単独的フロアー →グループでインタビュー。
③共同的フロアー →ディスカッション
学習者にとって、フロアー参加の難易度に変化を持たせた会話練習活動が必要。

確かに、授業中に意見を言うなどは、共同的フロアーで難しいのだろう。(学生が授業で意見を言うために、というのが、以前、勤務先の会議で話題になった。)その時は、何を言うかという内容に焦点があたっていたような気がするが、フロアーの形態も考慮に入れて、授業設計をしないといけない。

こうやって整理されたのを見ていると、自分がしていることは、偏りがあって、必要なのに取り入れていないものがあることに気付く。全体を通してバランスよくできるように見直したい。


2011年8月2日火曜日

音声教材自作 マイク(ヘッドセット)購入

音声教材を録音するために、新しいマイクを買った。結果として買い物としては失敗だったように思うのだが、録音の音はよくなったのでそれだけでもよしとしたい。(値段をかけただけのものかどうかは???)

買ったのはこれ。
美國Plantronics Audio650 USB電腦耳機麥克風

台湾元で2750元。円に換算すると、今は円高なのでまあまあかと思うが、実際のところは日本で1万円弱ぐらいの価格の買い物をした感じだと思う。

今回さがしていたのは、マイク性能がよいもの。よく録音するのだが、器材関係はあまり知識がなく、マイクの性能を考えたときに、いいものとしてはノイズキャンセリング機能があるものぐらいしか浮かばなかった。
それと、録音について書いてあるいくつかのサイトを見てUSB接続のものがよい、とあったのでUSB接続ができるものをさがした。

学生が教科書の音声がほしいというので、先学期から録音していた。今回は、まだ録音していなかった課の単語やら文型やらを教科書の記述通りに録音した。

使ってみた結果。

1、USB接続は使えなかった。
USB接続だとPCのノイズが入らなくてよい、ということだったのだが、実際にUSBで接続して録音すると、ノイズが入らないどころか大きくなってしまった。実は、買ったものより100元安いものでUSB接続のみというものがあったのだが、少々不安だったので、普通にマイク端子につなぐのとUSBに接続するのが両方できるタイプを買ったのだが、正解だった。

2、録音の音はクリアになった。
このヘッドセットで録音したものだけを聞いていたときには、ノイズもないことはないし、大したことはないんじゃないかと思っていた。試しに前に使っていたヘッドセットを出して録音して聞いてみると、音が違う。新しいヘッドセットで録音したほうが、とても音がクリアだ。それと比べると古いのは、音がこもって聞こえる。

3、「~ます」の「す」が耳障りではなくなった。
自分の録音を聞いていてずっと気になっていたのが「行きます。」などの最後の「す」の音。なんといえばいいのか、空気を出している音が耳障りで聞きづらかった。それが、解消されて、普通の音として聞こえるようになった。ここが、今回の買い物で一番満足しているところ。

4、音が割れる
録音した後で聞いてみると、思ってもいないところで、ところどころ音が割れるところがある。なぜなのかよくわからず、未だに研究中。教科書を見たりPCの画面を見たりと頭が動いてしまうのがいけないかと思い、なるべく動かさずに録音してみたりしている。

その他、「す」の音のほかに気になっていたのが、自分の息つぎの音や、たぶん口の中で唾液をのみ込んでいる音が、しっかり録音されてしまってそれが耳障りだった。無意識にやってしまっているのだが、息つぎの時は録音を一時停止し、唾液はのみ込まずとも話せるので注意してしないようにしたら、よくなった。

前から音声教材を自作していたが、以前は、いわゆる教科書付属CDの録音のような、アナウンサーのような明瞭な発音で、はっきりくっきりした音声教材を目指しているわけではなかった。むしろ、普通の人が話しているようなもののほうがよいし、ノイズもある程度あったほうがいいと思っていた。なぜなら、日常で聞く音声というのは、アナウンサーのようなはっきりした発音を聞くことはごくまれであるし(聞きにくい話し方をする人はたくさんいる)、周囲の雑音の中で会話することもよくあることだからだ。教材があまりクリアーな音声であると、教科書のCDは聞き取れるが、普段の会話は聞き取れない、なんていうことになるのではと思っていた。

しかし、自分の外国語学習用にPodcastなどを聞いて思ったのは、音声教材は実際耳にする音とはやはり違うところがたくさんあるということだ。例えば、普通の会話であれば多少の沈黙も相手の姿形が見えるので気にならないが、音声だけだと、沈黙の1秒がとても長く感じるし、なんのための空白なのかと少しイライラしてくる。こもった音も、周りの状況でいたしかたないなと感じることもあるが、音声だけを聞いていると、これもストレスを感じる。
さらに、私が気にしていた「す」の音や唾液をのみ込む音も、マイクを通した作られた音だから耳に入ってくるのだ。

以前は、「気負わずそのまま録音してそのまま聞いてもらえばいい」と思っていたが、上記のようなことから、ある程度、音質を「きれいに」したほうがいいと考えるようになった。それが、今回、マイクを買った理由だ。

ただ、何事もやり過ぎはよくないだろう。「自然さ」を残しつつ、クリアな音を追及しすぎず、という姿勢でいきたい。

2011年7月30日土曜日

中国語のPodcastレビュー その1

中国語のPodcast(音声)をiPodに入れて、車の中で聞くのが最近の習慣。このPodcast、いろいろ試しているのだが、今までさがして聞いてみたものについて、感想と覚書を書いてみたい。(私が聞いているのは、日本語が入っているものはなく、説明も中国語か英語のもの。)

私は車の中で運転しながら聞いている。Podcastの中にはPDFでテキストファイルを配布しているものもあるが、そういうものは私は全く利用していない。なので、Podcastの作り手が意図した学習方法と違う場合もあるから、以下の私の感想は、「ながらで聞いた場合の…」という条件付きだ。PCに向かってテキストも見ながら、というのであれば、また別の感想も出てくるだろう。

もう一つ私の聞き方だが、iPodでいろいろなPodcastを一つのプレイリストにして、シャッフルして聞いている。制作側が流した順番に聞いているわけでもない。ずいぶん勝手な学習者の勝手な感想である。

1、 ChinesePod
一番最初に聞いたPodcastで、最初のが私のPodcastの基本になっているからかもしれないが、一番好きなもの。私が見つけたのはもう数年以上も前で、その頃は音声は無料で聞くことができたのだが、今は残念ながら有料になっている。私は、「これから有料になります」というアナウンスを受けた後で、その時にあったものは全てダウンロードし、聞いていた。今は、各レベルのサンプル1エピソードのみ聞けるようだ。
前に、このChinesePodのあるエピソードについて話題にしたが(ChinesePod 上司が部下に注意するとき)、今、ホームページをみたら、サンプルがそのエピソードだった。

ChinesePodは5つのレベルに分かれていて、私が聞いたのは「Intermediate」と「Upper Intermediate」。この2つはどちらも、JennyとJohnの二人による進行。Jennyは女性で中国語ネイティブ、Johnは男性で中国語学習者という役割。最初に短く、その日の会話についての紹介があり、次がモデル会話。その後、モデル会話について解説をし、最後にもう一度モデル会話が流される。
ChinesePodですごいと思うのは、レベルごとの内容設定の的確さだ。私にとっては、Intermediateはほぼ知っている単語や表現で構成されており、わからないものはいくつか。そしてそのいくつかは解説で必ず取り上げてくれる。Upper Intermediateになると、流して聞くのはずいぶん辛くなりわからない部分も増える。IntermediateとUpper Intermediateで、聞いていると差がはっきりしている。これは、教材としてはしごくあたり前で、そうであるべきなのだが、実は他のものを聞いていると実体はそうではないことが多い。解説してほしいものには解説がなく、もう知っているものに長々解説があったりする。それをきちっとしているところがすごいと思わせる。
また、解説の仕方だが、JennyとJohnの二人で普通に会話しているように自然に解説が入っている。英語と中国語を交えた解説なのだが、言語の切替もとても自然だ。Intermediateでは英語の解説が多く、Upper Intermediateになると中国語が基本で英語は補助的に入っている。二人の役割だが、Johnは学習者の立場から質問し、それにJennyが答える。Johnの質問も似たような単語の意味との違いを聞いたり、発音が全く同じ単語を取り上げたりと学習者のツボをおさえてくれている。PDFでテキストも見られるようだが、それを見なくても音声だけで理解できるようになっている。
有料になってしまったのは残念だが、ここまでの質のものを無料で提供してほしいというのは学習者としてわがままかなとも思う。では、私はお金を払ってこれを聞くかというと、今のところは中国語圏にいるので思わない。でも、将来、中国語圏にいずに学習を続けたいと思ったら迷わずこれを選ぶと思う。

2、 visualmandarin
ダウンロードしたChinesePodの音声が残り少なくなってきて、他のポッドキャストをさがし、見つけたのがこれ。結論から言うと、これは好きではなく、途中で聞くのをやめた。

visualmandarinはレベルは4つに分かれていて、聞いてみたのはIntermediateとAdvanced。(途中で聞くのをやめたので、私が聞いたのは、初期に作られた音声のみ。なので、今はもしかしたら改善されているかもしれない。)
IntermediateとAdvancedの両方に共通しているのだが、音声に妙なエコーがかかっている。これがとても聞きづらい。とくに私は車の中で、それもボロ車の高速運転中に聞いているので、音声はほぼ最大にしないと聞こえない。そこにエコーがかかっている音声だととても聞きづらいのだ。

Intermediateについて。AliceとTheresaの2人で進行している。Aliceは「我是你們的中文老師、Alice」と言っていて、先生役。Theresaは英語で解説を加えるという役回り。
番組構成は、最初にその日のトピックに関する二人の会話があり、次にモデル会話。その後、二人の解説になっている。(ChinesePodと似た構成。)解説では、モデル会話の中の文型をあげ、その文型についての解説や文型を使った他の例文が紹介される。私にとっては、とりあげている文型よりも、Aliceが話す中国語のほうがわかりにくいところがあると思ったり、Theresaが英語で話す部分が、そんなことは中国語で言われてもわかるから中国語で話してほしいと感じるところがある。また、Aliceの中国語の部分とTheresaの英語の部分が、それぞれ長すぎて、わからなかったらわからないまま進んでしまう時間が長過ぎる気がする。もう一つの部分を短めに話して、AliceとTheresaが頻繁に交互に話すようにしてほしいと思う。

次は、Advanced。Advancedには、2人の会話で進行させていくもの、ストーリーの朗読、ニュースの紹介がある。2人の会話で進行させていくものは、進行役はリーシャンとツォンツォン(に聞こえる)。名前が英語名ではないことからもわかるように、Advancedは中国語のみ。2人であるトピックについて話す。リーシャンは自分のことを「老朋友」と言っていて、ここでは学習向けの教材という形式はとっていない。
Advancedは私には難しかった。visualmandarinは、Intermediateの次がAdvancedなのだが、差が非常に大きく感じた。ストーリーの朗読は全くと言っていいほどついていけなかった。よかったのはニュース。3、4分で3つほどのニュースを紹介している。Advancedは、また時間をおいて聞いてみようと思うかも知れない。

トップページではemailを登録するようになっているが、私は登録せずに、音声のみをダウンロードした。emailの登録画面を無視して、Learning Center→Videos&Podcasts→レベルを選んでいけば、そのレベルのPodcastが出てくる。

3、Mandarin Chinese Lessons with Serge Melnyk
上記のリンクはホームページだが、私はiTunesでPodcastに登録している。上記のホームページからはPodcastへの登録リンクが見当たらない。
これも結構前に見つけていたのだが、最初一度聞いて面白くないと思いあまり聞かず、Podcastの更新もやめていた。でもある時聞き直してみて、シャドーイングにぴったりではないか、と思った。
このPodcastはSergeという男性が英語をベースにレッスンを構成している。レベル別はなく、1からの通し番号がついていて、現在は226まである。数字が大きくなるにつれ難易度が増していく。
番組の構成は、最初に英語でトピックについて説明があり、次がモデル会話。モデル会話のあとに、語句や文型について、Sergeが英語で解説していく。解説というより、英語で翻訳するというシンプルな形だ。取り上げた語句や文型はSerge以外に女性の声でも繰り返される。文型を使った例文も英語での翻訳や女性の声での繰り返しがある。
このSergeと女性の発音がものすごくはっきりしている。私は自分が発音するのも聞き取りも苦手で、有気音と無気音の違い、nとngの違いも全くだめなのだが、この二人の発音ははっきりしていて、「あ、この音は有気音なんだ」と気がついたことがある。例文も適度な長さで、話す速度も学習者用の速さなので、聞きながらシャドーイングがしやすいように思う。
最後にもう一度モデル会話が流される。 今聞き直して見て気がついたが、最後のモデル会話の前に、「もう一度モデル会話を聞きます。それぞれの文をリピートしてみてください。」と言っているので(ChinesePodでは最後のモデル会話の前に「もう一度聞いてみましょう」としか言っていない)、やはりこれは「聞く→リピート」という練習用に作ってあるのだなと思う。


上記の他には以下のものも私のiPodの中に入っている。これらについてはまた後日書いてみたい。

CSLPod

targetchinese

iMandarinPod

2011年7月23日土曜日

謝罪の決まり文句?「不是故意的」[中国語]

ずっと以前に、学生に言われてちょっとカチンと来てしまった言葉。

「不是故意的」

その時の詳しいやりとりはよく覚えてはいないが、学生が何かやらなければいけないことを忘れたというような、私が学生を叱っている状況だったように思う。

この「不是故意的」。日本語にすると「わざとじゃないんです。」になるだろうか。とにかくその時は、自分の中でそう翻訳して理解していた。そして「わざとじゃないなんてアッタリマエでしょう!!!」とカチン。学生にもそのままカチンと来た気持ちをぶつけてしまった記憶がある。

それからずっと経ってから、全く違う大学の「コミュニケーション概論」という授業で、謝る時の会話を書いてもらった(中国語で)時のこと。
ありました、この「不是故意的」。学生が書いた会話は、この「不是故意的」があっても相手に怒られることなく展開していた。書いた学生に「この言い方って普通にする?問題はない?」と聞いてみたところ、聞かれた学生は意味がわからず、一瞬きょとんとした様子。別に問題はないということだった。

乱暴にまとめてしまうが、日本語会話での「わざとじゃないんです」は、自分には非はない、そして、叱られていることが納得できない、というニュアンスを含んでいるように思う。でも、「不是故意的」にはそのような相手に反論したいニュアンスはないのではないか、とその時に思った。

職場で「台湾人は言い訳が多い」と言われることがあるが、この言い方もそう思わせてしまう一つだろうなと思う。

先学期の授業時にも、この「不是故意的」を聞いた。
その日は小テストをすることになっていたのだが、一人の学生(Mさん)が来ない。他の学生がMさんに電話をかけると「家のかぎが見つからなくて、家から出られない」とのこと。それを聞いた別の学生が
「她不是故意的。」
その学生が言いたかったことは、Mさんはサボってこないわけではない。授業に来ようとしたけれど、来られないということだった。
本人を叱っているのと多少状況は違うが、以前だったら、カチンときてしまっていたかも知れないと思う。聞いたとたんに「お、出た出た」と心の中で思い笑っていた。

この「不是故意的」。状況を考えて日本語に置き換えるとすれば「すみません、うっかりしていました。」だろうか。少なくとも、聞いた時にそう頭の中で翻訳すれば、カチンと来ることもないだろう。

2011年7月21日木曜日

研究会参加メモ 【アニメで日本語】 「第20回小出記念日本語教育研究会」

研究会に行ってからだいぶ日が経ってしまったが、前半の講演に続いて(【学習ゲーム】のエントリー)聞きに行ったパネルディスカッションについてメモしておきたい。

このパネルディスカッション、以前からアニメの活用について発表している矢崎満夫氏の手法「アニメで日本語」を取り入れた日本語学校での実践についてを紹介していた。

ここで語られていた「アニメで日本語」のポイントは、

アニメを学習事項のインプットに使うのではない。

学習事項のインプットに使うとは、例えば、「もののけ姫」の冒頭部分の映像を見て「あ、命令形が多い、これ使えるな」と思ったこととか、アニメではないがドラマで謝罪の例などを取り上げたような使い方だろう。

では、どういう使い方なのかと言うと、

みんなでアニメを見る「共通体験」をもとに、日本語によるコミュニケーション活動を行う。

このコミュニケーション活動については、ティーチング・ストラテジーとして、様々な活動例がある。研究会当日は、このティーチング・ストラテジーがプリントで配布された。(これは、矢崎氏の論文(2009、2010)にも紹介されており、2009の論文はネットで見ることができる。)

アニメを素材とした日本語学習活動『アニメで日本語』の開発―「アニマシオン」のティーチング・ストラテジーに着目して

発表の中で、人気がある活動(ティーチング・ストラテジー)だと言っていたのが「登場人物にインタビュー!」という活動。学生たちが登場人物が記者会見をするという設定にし、学生たちが登場人物役と記者役にわかれて質問のやりとりをする活動である。実際に活動を行っている映像も紹介されたが、登場人物役は、アニメの画像で作ったお面のようなものをつけ、役になりきって質問に答えるというものだ。

私が全体の発表を通して思ったのは、みんなでアニメを見て「共通のネタ」を持つことがポイントなのではないか、ということだ。プリントの中で紹介されていた「あなたはだれ?」という活動(論文では矢崎2010)

 教員がある登場人物役になり、カーテン等で顔が見えないようにして生徒の前に立つ。生徒はいろいろな質問をしながら、それがどの登場人物かを当てる。(例:生徒1「何歳ですか?」教師「18歳です。」生徒2「髪の毛の色は何ですか?」教師「白です」生徒3「あなたは○○ですか?」教師「はい、わたしは○○です」)

これは、アニメを見ないでも、有名人等の写真等を用意して、質問しながら当てるという活動はよくあるものだと思う。しかし、こういう活動で、誰をネタに使おうかと考えた時、みんながよく知っている人をさがすのは案外大変だし、バリエーションが限られてくる。それが、アニメを見た後だとみんなの共通認識ができるのでやりやすくなる。
実際の授業では毎回30分アニメを見て活動をしているということだったが、共通のネタづくりのために、授業時間の30分をさくかどうかというのは、考えがわかれるところだと思うが。

発表の時に、実際に授業を担当した小林氏と村松氏がしきりと「準備が大変だった」と言っていたが、質疑応答で「具体的に何が一番大変だったか」の質問への回答は「例えば、『登場人物にインタビュー!』では、小道具でアニメのキャラクターの正面の顔を大きくしたものを作るが、それを作るのが大変だった」と言っていた。動画の中から、うまく正面を大写しにしているものをさがしだし、それを画像化し、印刷するというのは、確かに地道でてまがかかることだろう。ただ、大変なところがこのような技術的なところであるなら、なんとかなるのではないかとも思えた。(私としては、視聴した部分と活動のマッチングに頭をひねらせる、のような考える部分が大変なのかと予想していた。)

研究会の後の懇親会で、他の先生と話をしていた時に「アニメじゃなくてドラマではだめなのか」という話をした。今考えると、「登場人物にインタビュー」のような架空のことをするのには、現実的に見えるドラマより、アニメのほうが架空の世界に無理なく入っていけるので活動もやりやすいのではないかと思う。

2011年7月16日土曜日

「そうなんですね」というあいづち その2

 前に 「そうなんですね」というあいづち についての違和感を書いたが、最近、NHKの女性アナウンサーが使っているのを何度か見た。

私が見たのは、記憶にあるのでも3回。1回目は誰だか忘れてしまった。2回目は、「あさイチ」のアナウンサー。3回目は、以前この「あさイチ」の時間帯に放映していた番組に出ていたアナウンサーだ。

前のエントリーで、店員教育で「そうなんですね」と言うように指導されたというものを紹介したが、NHKも「そうなんですね」とあいづちをうつように指導しているのだろうか。

記憶が正しければ、私は、このアナウンサーと同年代である。たぶん、ずっと前から「そうなんですね」とあいづちをうっていたのではないだろう。

NHKのアナウンサーでも使っているのだから…という考え方は、短絡的かもしれないが、しかし、もうこれは違和感を感じているなどと言っている場合ではないと思うようになった。(こんな記事を書いている場合ではないのかも。)聞いて、慣れていかなければいけないし、自分も使えなければいけないのかもしれない。

2011年7月13日水曜日

苦情を言う[中国語]

少し前のことになるが、中国語でクレームのメールを書いた。毎年、税金申告の時期になると、出版社から個人情報の確認のメールが来るのだが、今回来たメールの中に、私のものではない個人情報が含まれていたからだ。つまり、知らない人の氏名、生年月日、住所、パスポート番号、居留証の番号が、私のメールの中に書かれてあった。
メールは、たぶん、自動的に作成されたのだと思う。全体の書き方、書かれている内容は同じで、個人情報の部分のみ、違うものだった。私宛のメールの下の方を見ると、その別の人に宛てたメールを見ることができてしまった。
他の人の個人情報を見てしまったのは別段問題はないが、自分の個人情報ももしかして他人に見られているのではないかという不安を覚えた。
台湾では一人一人が身分証を持っていて、その身分証の番号は様々な認証に使われ、他人に気軽に教えられるものでは決してない。外国人は身分証の番号はないが、外国人用の居留証に「統一番号」というものががあり、それが使われたり、パスポート番号が使われることもある。つまり、居留証の番号やパスポート番号は、身分証の番号と同じなのだ。人にむやみに知らせていいものではない。
どうしようかと迷った結果、個人情報確認のメールに返信する際に、クレームを書くことにした。
書くことにしたはいいが、どう書いていいのか、さんざん悩んだ。私の中国語能力が限られていることが第一の問題。第二の問題として、私が個人的に不利益をこうむったわけではないので、あからさまに文句を言うのもおかしい。いわゆる「やんわり」と苦情を言うのはどうしたらいいのかと考えたあげく、書いた内容は、
今回のメールの中に、他の人の資料があったが、今後は他の人の資料は見たくないので、削除してから送ってもらえますか?
のような文面。(拙い文章になってしまったので、原文は恥ずかしくて載せられない。)
いいのか悪いのかわからないが、とにかく送信ボタンを押し、苦情メール終了。
この件について、いつものW先生に話をした。私の送ったメールの内容はこれでよかったのか。こういう時にどう書けばいいのかを聞いた。
W先生からの指摘。
1,主旨は自分の個人情報を他人に漏らさないでほしいということだが、それを「他人の情報を見たくない」という言い方で、果たして伝わるか疑問。
2,「見たくない」という言い方はちょっときつい。(「不要~」という言い方は相当きついらしい。)
W先生に考えてもらったこの件についての苦情の言い回し。
このメールに主旨とは無関係の内容が含まれていた。個人情報の取扱には注意してほしい。
「注意してほしい」の部分の言い方は、私が普段使わない言い方だったのだが、うっかりメモするのを忘れてしまった。次回、確認しておこう。

ちなみに、私のメールへの出版社からの返信は

謝謝老師回覆下次我會注意
という簡単なもの。私の言い方がまずくて相手がカチンと来たのか、なんなのかはよくわからない。


余談だが、外国語学習の動機付けについて、「苦情を言いたい」というのは、高い動機付けになると前から思っている。よく、「やりたいこと」のような前向きな明るい動機付けを言われるが、実は「やりたいこと」のようなものは、「また今度でいいかな」でも、結構すませてしまうことができる。(タイミングを逃すと困るということもないことはないが。)しかし、苦情は、「また今度でいいかな」ができないことが多い。その時、その場で、というのが非常に大事だと思う。
でも、苦情が高い動機付けになる、というのは、もしかして私がそういう性格だからなのかも???



2011年7月2日土曜日

研究会参加メモ 【学習ゲーム】 「第20回小出記念日本語教育研究会」

実家の近くの柔道場の外にある掲示板を偶然見て、ちょうど行ける日だったので、行ってみた研究会。

講演① 「伝えるから、伝え合うへ」 池田修先生
元、中学校の国語教師の先生。
「国語科を実技教科にしたい」と考えて、いろいろと取り組まれた実践例を聞くことができた。

印象に残ったことをいくつかメモ。

○「学習ゲーム」とは「ゲームの中に学習すべき項目が含まれるもの」。例えば、サッカーをする時に「二頭筋を鍛えよう、鍛えよう」と思ってサッカーをしているわけではないが、結果としてサッカーをすると二頭筋が鍛えられる。そういうこと。

○学校教育の特質は「集団で学べる」、「継続して学べる」。
集団のほうはよく言われていることだと思うが、継続のほうは、確かにと思った。半年あるいは1年のスパンで考えられる。今回の授業には来たが、次回の授業に来るかどうかわからない、という地球村のような形態とは違うということだ。学校教育の中で、その特質を意識してきちんと利用していきたいと思った。

○学習ゲーム例
・語り絵
これは今日実際にやってみた。二人組になり、一人が絵を3分間見て、それをメモし(絵を描いてはいけない)、絵を見ていないもう一人に説明して、聞いた方は絵を描くというもの。
絵を描くときは、質問してはいけない。また、描いたものを消してはいけない。
「全体から部分へ」伝えるとわかりやすい、という解説があった。
学生たちが書くものを見ると、自分はわかっているからいいが、知らない人はもう少し説明しないとわからないだろう、と思うことがよくある。この活動をすると、「自分は分かるが、見たことのない人は説明しないとわからない」、「最初にそれを言ってくれなきゃわからないよ」という感覚が実感できるとおもう。

・漢字ウォーリーをさがせ
15×15文字、漢字が書いてあって、そのなかで、二文字だけ、他の漢字と違う。その二文字を探す。例えば、「体」の中に「休」があるとか。私が使うのだったら、漢字よりもひらがなウォーリー、カタカナウォーリー、かなウォーリーになるかなと思う。フォントを変えても変化がついて面白いかも。

・諺作り
中学三年生が作った諺を見たが、なかなか面白い。また、作品を見ていると、ベースになっている諺があるもがある。例えば「人の振り見て死ぬほど笑え。」というのを見たときに、「ああ、人のふりみて我が振り直せ…だな」と思うのと思わないのでは、受け取り方も違うと思う。ただ諺を勉強するのではなくて、パロディのようなものを見せてから、もとを見せるというのも面白いかも。
諺については、私も「諺アレンジ」をしてみようと思ったことがあったが、時間がなくて結局できなかった。次回はぜひやりたいなと思う。

2011年6月5日日曜日

実は懐かしいライトノベル

 最近、学生の話の中で「ライトノベル」が挙がってくることが何回かあった。さらに、現在読んでいる『「親日」台湾の幻想』の中にも、ライトノベルについて書いてあって、今まで全く知らなかったのだが、どうやら流行っているらしい。(気付くのが遅すぎか?!)

「涼宮ハルヒシリーズ」がライトノベルだということも始めて知った。「涼宮ハルヒ」は、実家の近くの小さな映画館で、朝からすごい行列ができていて「何これ?」と思って見たら、「涼宮ハルヒの憂鬱」の映画初日だった。その時は、すっかりアニメだと思い込んでいた。

7年以上も前のことだが、かつての勤務校で「学生が喜ぶようなマンガ等を買ってきてほしい」と頼まれ、当時の同僚といっしょに、BOOKOFFでマンガを買いあさったことがあったが、その時も、ライトノベルを何冊か買ってきた。当時は流行っているなどということはもちろん知らずに、これだったら学生も読むかもしれないと思って、数冊しのびこませた。学生にはあまり手にしてもらえなかったが、今だったら読んでもらえたのかも知れない。

「ライトノベル」のwikipediaの解説を読んで突然思い出したのだが、私も高校生の頃、このジャンルの本が好きだった。その時は「ライトノベル」というようなくくりではなく、「ヤングアダルト」と言われていた。好きだった作家は「氷室冴子」「新井素子」。wikipedia記述によると「ライトノベル作家の元祖」と呼ばれているらしい。名前を見て、懐かしい気持ちでいっぱいになった。今回調べるまで、好きだったこともすっかり忘れていたのだが…。

たぶん、今読んでも、当時ほど好きにはなれないと思うが、でも、最近のライトノベルを読んでみたい気持ちになった。

2011年5月1日日曜日

「本当にないですか?」の意味すること[中国語]

よく、中文と日本語の言い方の違いなどの話をするW先生から聞いた話。

W先生の会話の授業でのこと。
忘れ物をしてしまって問い合わせの電話をする、という状況のロールプレイで、
学生が使った「本当にないですか?」という一言が気になったという。

ロールプレイは、お店に忘れ物をして、その店に問い合わせの電話をするというもの。店の人に、見当たらないと言われて、問い合わせた人が言った「本当にないですか?」。

W先生の気になった点というのは、
日本語ではあまり「本当にないですか?」とは言わないのではないか、ということだ。
言わなくもないが、と思って、中文での状況を聞いてみると、確かになんとなく違う感じを受ける。

これは、頭の中で考えたことなので、実際の言語行動はもしかしたら違うものかもしれないが、
私が忘れ物を問い合せて「本当にないですか?」というときは、
ある程度、私がその場に置き忘れたという確信がある場合。
つまり「本当にないですか?」が意味するのは、
1、ないということは変だ。2、もう一度よくさがしてほしい。
ということだろう。

しかし、中文の「真的沒有嗎?」は、W先生の説明によると
本当にないんだ。残念。がっかり。
という状況でも「真的沒有嗎?」と言うのだそうだ。
日本語だったら「え!?ないですか…。」という感じだろうか。

会話の展開にもよるが、日本語の「本当にないですか?」は、
きちんとさがしてないのではないか、という、相手を多少非難するニュアンスに取れないこともない。

少し注意が必要な表現かもしれない。

2011年4月21日木曜日

初めての職場で学んだこと

最近、ふとしたことから、一番最初に勤務した学校でのことを思い出した。
勤務したと言っても、当時私はまだ大学院生で、大学に通う傍ら、ある高校で非常勤講師として授業を持っていた。週に2日しか行かず、持っていた時間も7コマと少ないものだったが、色々な先生と知り合うことができ、学んだことも多かった。最近の学校現場は忙しくて若手の指導ができていない、ということをメディアからも耳にするし、学校に勤める友人もこぼしていたが、当時の私の勤務校では、少なくとも私にとっては、「職場での学び」があった。

特に、今でも思い出すできごとが三つある。

テスト監督をしていて、筆箱の中にカンニングペーパーを隠しているように見える生徒がいた。その生徒は、筆箱から紙を取り出そうかどうしようかという態度をしていた。どうしよう、とあせった私は、とにかく、テスト時間中ぐるぐる教室の中を歩きまわり、その生徒に何度も近づいた。幸い、カンニングペーパーは出さずに、テストは終了した。
その生徒のクラスの担任は、私と同じ国語科でもあったので、以前から話したことがあったので、相談した。
私「今日、○○さんがカンニングペーパーを筆箱に入れていたように見えたんですが…。見ないでテストが終わってくれたからよかったんですが、そういう時、どうしたらいいんでしょう?」
K先生「ああ、○○ね。やっちゃうかも知れないなあ。そういう時はね、横に行って、机をトントンって叩いてやるんだよ。『見てるよ』ってことを伝えるために。」

高三のある生徒から、大学入試の勉強を見てほしいと頼まれた。塾で勉強しているが、テキストの内容がわからなくて困っているという。その生徒の勉強を見たあとで、その生徒にこう言われた。
生徒「先生、ぼく、受かるかなあ?」
その生徒は、野球部の特別枠で入学してきた生徒で、勉強ができるほうではない。勤務校は大学の付属の高校だったので、普通にしていれば推薦で大学に進学できる。上の大学に行かないのは、希望して他大学や専門学校を受験する生徒か、推薦に成績が達しなかった生徒だ。その生徒は、明らかに後者のほうだった。
情けない話だが、その時の私は、一瞬どう答えていいか、困ってしまった。結局、何と言ったのかよく覚えていない。
この時もまた、K先生に相談した。
私「(状況を説明)、無責任に『大丈夫よ』とも言えないし、なんて答えたらよかったんでしょう?」
K先生「男はね、気が小さいんだよ。そういう時はね『はい、太鼓判!』って言って、背中をポンと叩いてあげればいいんだよ。」
(当時、「太鼓判」とはんこをかけたCMが流行っていた。)

私のつまらない悩みに、K先生は否定的なコメントをすることもせず、私の悩みをそのまま受け入れた後で、的確で具体的なアドバイスをくださった。当時の私にとって、なんと心強かったことだろう。

もう一つは、直接の指導ではないのだが、職場での先輩の心配りである。
勤務校は大規模校で、一学年にクラスが10以上あった。同じ教科を複数の先生が担当し、テストは共通問題、というのがきまりだった。テストの作成は一人の教師が担当し、私にも順番が回ってきた。テストは作成したあと、問題用紙を事前に担当の先生方に配ることになっていた。テストの直前に、ある大御所の先生から
「ちょっと、問題用紙もらってないよ!!困るんだよこういうことじゃ。教えてないところが問題にあったらどうすんの!!!!!」
職員室で大声で叱られた。
一年先輩のS先生が直後に私に声をかけてくださった。
「ちゃんと配ったんだよね。あの先生の机、ごちゃごちゃしていて、となりの先生の書類とも混ざっちゃってるから、どっかに行っちゃったんだよ。しょうがないよ。いいよ気にしないで。」
その優しい言葉に救われた。

当時の勤務校は、大きい職員室と小さい職員室と二つあり、私は小さい職員室にいた。週2日しか行かない私にも専用の机があった。非常勤講師の数が専任の教師の数よりも多く、非常勤講師の待遇も悪くなかった。病欠をしても時間給が支払われ、ボーナスももらえた。私がやめた次の年からは、非常勤講師も保険にも加入できるようになった。
先生方とは、休みの日にテニスをしたり、研究会に誘ってもらったり、テストの最終日にはいっしょに食事にでかけたりと、様々な交流があった。
また、小さい職員室は、すぐ横に喫煙室があり、休み時間は先生たちがたまっていて、喫煙室は煙でもうもうとしていた。前述のK先生もよくそこにいらした。

当時の私は、人に相談するというのがあまり得意ではなかった。何でも自分でまず解決しなければ、という変な考え方があった。そんな私でも、専用の机があるという居場所感、喫煙室での雑談等、話がしやすい環境が影響していたのだと思う。

私は本当に恵まれた新人だった。