2010年6月13日日曜日

政治的に正しい?言葉遣い

 「中文」って言葉、わかってもらえるのだろうか。今更なのだが、思った。
最近、Twitterに書くようになったり、ブログを頻繁に更新するようになった。今まで、何回使ったかわからないが、「中文」をなんどか使ったと思う。そして、今日、「はて?意味がわかってもらえるのだろうか」と思ったのだ。
台湾のいわゆる「國語」「中文」だが、それを日本語の中で使うときに、なんといえばいいのか、よく困る。人によっては「北京語」と言ったり「中国語」(これは私も使う)と言ったりするが、台湾の「國語」が「北京語」というのもどうかなあ、と思うし、「中国語」というのも、国の「中国」があるから、どうかなあ、と思ってしまう。
相手の言った言い方にあわせようと思って、「北京語」「中国語」と言った相手には「中国語」と言うし、そういう言葉遣いに敏感な相手には、その部分だけ「中文」と言ったりする。その発音も、〈中文〉の発音を借りるときと、「チュウブン」と言う時もある。でも、話し言葉の中の「チュウブン」って、あまり多くの人にはわかってもらえないような気がする。
ブログやTwitterは、不特定多数の相手だし、漢字で意味がわかるだろう、と思って、「中文」と書いてきたのだが、自分が書いたものを後で読み返して見て、せめて、〈 〉でくくったほうがよかったのかもしれないと思った。
Twitterのつぶやきの中で、「妻」の言い方について「奥さん」とか「家内」とかはよくない、というものがあった。それには賛成するのだが、実際問題、困る時がある。他人の「妻」について、言及する時だ。私の友人は、自分の「妻」のことを「彼女は…」という。なんの脈絡もなく「彼女は…」で始まったときに、一瞬誰のことなんだろう?と思ったのだが、そのうち友人が「妻」のことを言っているのだということがわかった。友人が自分の「妻」のことを「彼女」というのがいいが、私が、友人の「妻」について話すときには、なんといえばいいのか…。私はしょうがないから、今のところは「奥さん」と言ってしまっている。 その友人は「家内」とか「妻」とかも使いたくないから、「彼女」と言っているのかもしれないし、別に気にしていないのかもしれないし…。
難しい。

2010年6月11日金曜日

「かもしれない」は敬意表現

中文の婉曲表現(?)について前に書いたが、以前あった私が誤解をした中文の表現について。
  学生に何かを確かめると「應該……」という答えがよく返ってくる。この「應該」、推量の「~はず」みたいな意味なのだが、私は
「『たぶん』とか『かも』とか『はず』とかじゃなくて、ちゃんと確かめて!!!」とよく言っていた。
そして、
「私にものを聞かれて應該って答えるの禁止!!」とまで言った。
その後、私が学生に「應該…」と言うと、学生に「あ、先生も應該って言った。いけないんだ…」と冗談のように言われるようになったが、私の應該禁止令は浸透してしまった。

しかし、ある時、別の大学で会話のロールプレイをしていた時のこと。
学生のタスクは「何か事情があって、約束をキャンセルしなければいけない。約束をキャンセルする旨を相手に伝え、次の時間の約束をすること。事情は各自で考えること。」というものだった。
学生は私に事情を話し、約束を変更したいということを言った。その事情が、
「○○先生の授業があるかもしれないので…」
という説明。
「かもしれないって言うのだったら、はっきりしてから、また連絡してくれる?」みたいなことを私が言って、その後、ちょっと会話がちぐはぐな感じになってきた。
そのロールプレイは、一応、約束の変更をして無事に終了した。その後、学生と会話の相手をした私と、会話を横で見ていたTAの学生とで、その会話の反省・改善点を話した。その時に、また私が
「〈~かもしれない〉っていう事情は、約束を変更する理由としては今ひとつ」なんてことを言ったら、TAの学生が「授業があるというのは、不確かではなく、確定していること。でも話し方として、かもしれない(中文で「可能」)、という言い方を中文ではするんです。敬語的な表現です。」と教えてくれた。不確かなものとして提示することで、敬意を出すらしい。
應該禁止令を出した私は、正直、衝撃だった。あ、そうなんだ、あれは、そういう言い回しだったんだ。実際に不確かなことで應該と言っていた学生も、もちろんいただろう。でも、そうではなく、敬意表現(らしい)で言っていた学生もいただろう。
そう言えば「~かも(可能~)」と言って、私に「どっちなの!?」と怒られ、キョトンとしていた学生がいた。普段、あまり怒った顔を見せずへらへらしている私に怒られたという衝撃だったのかもしれないが、もしかしたら、「なんで怒られるの?」という気持ちだったのかもしれない。本当に心の底から申し訳ない気持ちになった。

2010年6月10日木曜日

「日本人の知らない日本語」的言い間違い

日焼けをして痛がっている上司にクリームをすすめた。「○○○クリームはどうですか。○○はいいですよ。」

本当は「アロエ」と言いたかったのだが、
「エロア」クリーム。エロはいいですよ。

になってしまった。これも、職場の言語の発表で聞いたこと。大爆笑。

そして、これは職場での話ではないが、その場にいた他の先生から聞いた話。OPI(会話能力試験のインタビュー)をしていたときに、
「私の姉はえっちなんです。」
「えっち?」
OPIでは、能力をみるために、詳細を聞いていくということになっているので、
「えっちって?」と質問したら
「お金が…」
よくよく聞いてみると「私の姉はけちなんです」ということだった。
普通の会話だったら、あまりつっこんでもどうかと思うので、お姉さんのことを誤解したままで会話が終わっていたのでは…。テストでよかった。

以前の同僚の授業での話。面接の練習をしてビデオ録画し、自分の様子を見て反省点を書く、という課題で学生が書いてきた。

「ムラムラしてはいけません!」

 ムラムラしたら集中できないしねえ、というのではなく、体が「フラフラ」「ユラユラ」動いてはいけないということが言いたかったのだ。

言い間違いは、私もよくある。例えば、市場にしょうがを買いに行った時に
「しょうが、○○グラムください」
と言いたかったところを
「○○キログラムください。」
と言ってしまったのだろう。お店の人に、
「あんたは、これ全部買い占めるのか!っていうより、ここにあるだけじゃ足りないぞ!」
と、しょうがの山を目の前にして言われた。
………
いえ、そんなにしょうがはいらないです。

婉曲表現(中文)

よく、日本語は曖昧な表現が多いというが、そんなの日本語だけじゃない、どんな言語にもある、と思っている人も多いのではないか。私もその一人。(敬語的な表現もそう) 
前に書いた職場での言語使用の発表で聞いた、「大丈夫です」の解釈に困ったという例。
「我問經理想要去XXX(クラブの店名)續攤,但是怕您會累,不知道您覺得如何?」
と日本の取引相手に聞いた。( 仕事の後の接待で、意味としては「うちの会社の社長はクラブに行きたがっているけど、あなたが疲れてしまうのではないかと心配していますが、どうですか?」みたいなものだろう。)日本人側の返事は「大丈夫です。」だった。この「大丈夫です」はA「クラブに行かなくても大丈夫です」なのかB「疲れていてもクラブに行って大丈夫です」なのか、意味がよくわからない。
 発表で聞いたのはこんな例だった。「大丈夫です」という答えを聞いて、何が大丈夫?という例は私自身でもあると思うが、ここでの例でAとBの二つの解釈の可能性がある、というのが理解できなかった。私がこの例を見て思うのは、「大丈夫です」の意味は明らかにBだ。「クラブに行くか行かないか」は、聞かれていないのだから、Aの可能性がある、と考えるのがよくわからない。なので、発表者になぜ二つの解釈があると考えるのか聞いてみた。
学生たちは、私の質問に???という感じだったのだが、その場にいた先生が説明してくれた。この「うちの社長が行きたがっている」という部分は、別に事実ではない。「行きたくない」というのも失礼だし、相手が「行きたい」と言いやすいように、そう言っているだけ。だからこの質問の全体の意味するところは「クラブに行きますか、行きませんか」という意味なのだ。
まあ、よく考えれば「社長がクラブに行きたがっている」なんていうのは変だし、そう説明されるとわかるのだが、同じようなことを私が聞かれたら、私も「大丈夫です」と答えてしまうだろう。そして、上記のように言われた場合は、「社長が行きたいっていうんだから」と、行きたくないと思っていても「大丈夫です」と言ってしまうような気がする。
そういう婉曲表現があるんだ、と勉強になった。中文の婉曲表現は、これまでにもいくつか聞くことがあり、そのたびに「ああ、そうなんだ」と思いつつ、実際の会話で、その場で、それを婉曲表現として理解し、対応出来るかどうかは、とても自信がない、といつも思う。
特に、上記の例は、「うちの社長は…」のところも日本語で話されたものだと思うが、中文的な婉曲表現を日本語の中でされた場合は、もっと自分の対応が難しい。
婉曲表現というのは、いくらでもあると思うのだが、自分自身の行動を振り返ると、自分にとって外国語で話しているときは、表現を「字義通り」に解釈することが多い気がする。例えば、電話で「○○さんいますか?」と言われた場合、日本語だったら○○さんに「電話ですよ」というのだが、中文では「ああ、○○さん、いますよ」と返事をしてしまう(実際には電話のこんな会話ではないが、例えばの話)ような感じだ。と、日々、自分の行動を反省。
中文の中にも、このような婉曲表現は多いと思うのだが、誰か本にまとめたりしていないだろうか。読んでみたい。

2010年6月8日火曜日

職場では3言語以上が基本

 「職場では3言語以上が基本」今日、聞きに行った発表で、聞いたことだ。
その発表とはT大学の「比較コミュニケーション」という授業の履修生が、自分の学科(日本語学科)の卒業生にアンケートをしたものだ。発表タイトルは「先輩たちの会社における言語使用とコミュニケーション」。職場で、どんな時に、どんな言語を使っているか、というのが、調査の基本的な内容だ。
日本語学科卒の学生なので、日本語の使用が多いというのはわかるが、基本言語は3言語以上、2言語というのは少数派というのは面白い結果だ。
4言語というのもかなりある。4言語とは、台湾国語(いわゆる「國語」を正しく何といえばいいのかわからないのでこう書いておく)、台湾語、英語、日本語である。発表した学生いわく、「日本語だけでなく、英語も台湾語もがんばりましょうね」
この調査は、卒業生総数が1000人弱、その中でアンケートに回答してくれたのが40人強というものなので、この結果で何か言えるか、というのは数字的には疑問であるとは思うが、しかし、大規模調査の前のプレ調査と見ても、面白いものだと思った。
発表の内容とは直接関係がないが、この発表会は、学生からメールで知らされた。私がこの大学で非常勤で授業を持っているから、メールが送られてきたようだ。メールには、日時や場所が書いてあったのだが、場所は教室番号が記されていただけだった。大学構内には建物がたくさんあるが、それが、記号で記されているのでどこのことだかわからない。「ちょっと不親切だな」という気持ちもあり、どこだかわからないので、「発表を聞きに行きたいので場所を教えてほしい」とメールに返信したところ、学生からとてもわかりやすい地図が送られてきた。地図は、学生が自分でドローソフトで描いたものだった。こんなにしてくれてありがとう、ちょっと不親切だな、なんて思って申し訳なかった、と思ったあとで、「ああ、クレームには、クレームへの対応が大事」というのはこういうことなのだ、と思った。少なくともこの一件は、「ちょっと不親切」から、その後の対応により「とっても親切。申し訳ないぐらい」と印象が変わったからだ。実際、大学到着が開始時刻ぎりぎりになってしまったのだが、もらっていた地図のおかげで、まったく迷うことなく、会場に到達することができた。
メールへの対応も含め、聞きに行ってよかったと思える発表会だった。

2010年6月7日月曜日

外国語での情報収集

前のブログで書いた、「中文で何がしたいか」。うーんとひねり出し、「教育関係のブログを見たい」と思いついた。私はGoogle Readerでいくつか教育関係の日本語のブログを見ているが、それと同じようなことを中文でもしてみたいと。
しかし、探せないのだ。Googleで「教育」と「ブログ」のキーワードで検索してみたが、自分のみたいようなものには辿り着けない。キーワードの入れ方が悪いのだとは思うが、それ以外のキーワードは思いつかない。
むらログの記事の中にもあったが、情報収集能力は難しいのだろう。
http://mongolia.seesaa.net/article/151862819.html

じゃあ、今私が Google Readerで読んでいるブログにはどうやってたどり着いたのか。これを中文にも応用できないかと思って、自分の行動を思い出してみるのだが、一番最初は中原淳先生の著書を読んで、そのブログを見始めたのが全ての始まりだったような気がする。ただ、それ以外は、よく覚えていない。

先のむらログの記事の中で紹介されていたサイト(http://ple.elg.ca/course/?p=18)のように、とりあえずある程度、大量にこちらで準備する必要がある。そして、さらに場合によっては、サイトの概要・使い方、なんかの説明もあるほうがいいのだろう。いくつかの体験があれば、そこからは、各自が発展させたり、自分で探したりもできるようになるかもしれない。

2010年6月5日土曜日

その言語で何がしたいか

きのう、同僚と仕事について話をしていた時のこと。
私は、外国人の立場で現在の職場(大学)で働いているが、〈中文〉がそんなにできるわけではないので、結局、できる仕事が限られてくる。どこの大学でもそうであるように、業務ではあれこれ書類を書かなければならないが、正式な書類を書く中文能力は残念ながらない。私が日文で書いて同僚が翻訳してというのも可能だが、効率を考えたら、同僚にしてみたら「自分で書いたほうが面倒じゃないし、速い。(同僚に言われたわけではないが、私だったらそう思う。)」ということになって、書類作りなどは、ごくごく限られた範囲でしかしていない。というより、できない。
「このままだと私は職場で永久的に半人前で、それは嫌だけれど、でもそのために頑張って〈中文〉を勉強しようという気にはならないんだよね。」という話を同僚にしたら、「taizはいつも〈中文〉を勉強したいわけじゃないって言うけど、どうして?言語ができれば世界が広がるし、楽しいじゃん」と言われた。
「確かにできるようになるにこしたことはないけれど、私にとって、〈中文〉で書類を書けるようになるというのは、今の能力からはかなり離れているし、とても難しい。そこに到達するためには、すごく頑張らなければいけないし、それに、それ(書類を書くこと)は、私がやりたいことではないし…」と同僚に私の思いを話した。
私は一応今まで〈中文〉ができるようになろうと、それなりに努力をしてきたつもりだ。全く0からだったが、学生とコミュニケーションがとったり、教室内で大勢に向けて説明をしたり、たまには学生を叱ることもある。学内の会議を理解したり、発言したりする。メールは、今、勉強中のところだ。さっさか書きたいが、簡単なことを書くのにえらく時間がかかるし、相手にきちんと伝わっているのかとても心もとない。
そうなのだ。それは、私がやりたいと思ったことなのだ。あまり考えてみたことはなかったが、自分でそうなのだと気がついた。そして、じゃあ、次は?と考えたときに、はて、なんだろう?、私が〈中文〉を使ってやりたいことは?と思ってしまった。
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そこまで考えて、私が今まで学生に「ただ、日本語を勉強するっていうだけじゃなくて、自分の興味のあることを見つけたほうがいいよ。」みたいな意味のことを、安易に言っていたことに気づいた。興味があることがある人は、私なんかが言わなくても、やっているのだ。私がしなければいけないのは、興味を持てることが見つからないことに、「これだったら面白いかも。」と思えるようなことを提供することなのだ。
そうなのだ。こんな当たり前のことに気がつくのに、なんでこんなに時間がかかってしまったのか。反省。

2010年6月3日木曜日

みんなの前での痴話げんか

こないだ、4年生の学生と食事に行ったときに聞いた会話。
4年生の学生(男子)と3年生の学生(女子)がつきあっているのだが、彼女が彼氏に、彼氏の友だちがいる前で、文句を言う、けんかするらしい。それについて、4年生の学生みんなが、逆はいいけど、それはちょっとひどい、と言っていた。逆というのは、4年生の前で、彼氏が彼女に文句を言うのならいいが、4年生の前で彼女が彼氏に文句を言うのはよくない、というのだ。
私が「どうして?」と聞くと「没有面子」だからだという。( 「没有面子」は「メンツがない」と日本語の中で言い換えられるが、私にはなんとなく「メンツがない」と「没有面子」は感覚的に違う気がする。ここでは「立場がない」みたいな感じだろうか。)4年生は彼氏の友だちだから、その友だちの前で彼氏に文句を言うと、彼氏の〈立場がない〉からだと。
私の感覚では、4年生の前で、彼氏が3年生の彼女に文句を言うほうが、彼女がかわいそうな気がする。4年生は彼氏の友だちだから、彼女が彼氏に何を言おうと、友だちは自分たちが知っていることと合わせて彼氏を理解すればよい。でも、彼氏が自分の友だちの前で彼女に文句を言うのは、彼女は大勢の中で一人だけだから、かわいそうだ。
これもいわゆる「面子」の感覚の違いだろうか。