2011年11月30日水曜日

聴解自律学習サポート3 ドラマからオーディオドラマへ

前回、聴解自律学習でドラマをやりたいと言っている学生が多いことを書いたが、今週、ドラマを聞いてどうだったかを聞いてみたところ
「字幕がなかったら全然わからなかった…」という学生がいた。
その隣にいた別の学生とのやりとり。
私:「聴解練習やった?何やった?」
学生:「字幕見ながらドラマ見た」
私:「見て、どうしたの?」
学生:「……」
私:「見た、以上?」
学生:「……」
私:「どうだった?」
学生:「面白かった!」
私:「なんか、勉強した感じする?」
学生:「没有!(ないです!)ハハハ」

字幕なしで見たらわからなかったという学生は、やはりこの方法は無理だ、と思ったらしい。別の方法にしたい、「アニメかなあ」というので、オーディオドラマをすすめてみた。
オーディオドラマはリソース紹介のプリントにも書いておいたのだが、iTunesからダウンロードするもので、その学生にとっては「iTunes???」と、iTunesもわからない。

実は、このオーディオドラマ、去年、私の中国語作文レッスンの時に、紹介する文章を中国語で書いていた。その場で、学生にその紹介文章を見せると
「面白いかも…」
という反応。
iTunes??なので、私がiTunesでダウンロードしたファイル渡すことにした。

今日、学生に「どうだった?」と聞いてみたところ
「面白い!聞きたい!」
という返事。「没有!」と元気よく答えた学生ともう一人の学生と3人でそれを聞くことに決定した。

私がオススメのオーディオドラマを面白いと言ってもらえたこと、ほぼ1年眠っていた私の中国語紹介文が陽の目を見たこと、がとってもうれしかった。
なんだかわからないものを聞いてみようとは学生はなかなか思ってくれない。そんなことをする学生は、私なんかがああだこうだ言わなくても、自分で好きなものを勝手に聞いて勝手に学習しているのだ。中国語の紹介文がどれだけ役に立ったのかはわからないが、とりあえず、学生に「聞いてみてもいいかな」という気持ちひとおしするものにはなった気がする。

ちなみに、私が学生に紹介したのは
泣きたいときのクスリ2008
私がこれをすすめた理由は、まず、一つ一つが短いこと。Podcastの一つは4分強なのだが、前後にコマーシャルが入っているので、実際のストーリーは2分ぐらい。2分なら、わからなくてもなんとか耐えられる長さだと思う。4回分で一つのストーリーが完結する構成になっている。全体としても長すぎないのがいい。それから、声の出演がテレビでも見たことのある俳優が何人か入っていることも理由の一つ。誰だかわからない声よりも多少馴染みのあるほうがいいかなと考えた。

とにかく、選んでもらえたのが妙にうれしかった。

【関連記事】
聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出
聴解自律学習サポート
学習支援と自律学習[中国語レッスン]

2011年11月25日金曜日

聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出

前回書いた「聴解自律学習サポート」。先週の授業でおおかた練習計画書を出してもらった。
結果、かなりみんな違うリソースを使い聴解学習をしていくことになった。

個々の学生と話していて気づいたこと、メモ。

○ドラマやりたい学生たち
今回、ドラマを選択した学生が結構いた。(まあ、いるだろうなとは思っていた。)「字幕を見てドラマを見るのはすすめない」とリソース紹介のプリントにも書いておいたが、それも個々に確認し、それでも学生は「字幕を見ないで聞いてみる」と言っていたので、そのままにしておいた。学生に聞くと、今まで字幕を見ないでドラマを見たことはない。字幕を見ているとなんとなくわかる、という感覚を持っている。うーん、字幕見てわかるのと、全く見ないのとでは全然違うだろうな、と思いつつ、とりあえず、やってみたことがないのだったら、できるかどうかやってみればいい、と考えている。ある学生は、計画書を提出したあと、「あとで変更してもいいですか」と聞いてきたので、1週間の期限をつけ、変更を認めることにした。(1週間やってみて、というのは先週も言っておいたのだが、やった学生はほとんどいなかった。)

○どう練習していいかわからない学生たち
授業の中でシャドーイングを行なっている。シャドーイング用の課題を音声とスクリプトでもわたしてあって、授業中に1回行い、あとは自宅で学習、テストの中にも組み込んだ。テストの時、学生たちは結構シャドーイングが難しいと言っていたが、あとになってみると会話と違いできるできないが学生たちに自覚されやすいからなのではないかと思った。
今回の聴解練習計画でも、「聞いてどうするか」でシャドーイングと書いた学生が何人もいた。リソースの中にもシャドーイング練習のものを紹介していたこともあるかもしれないが、一つ気になったのは「シャドーイング以外に練習のしかたがわからない」という声があったことだ。
その他、「歌を聞いて歌詞を見てわからない言葉の意味を調べる」というものがあったが、「それってあんまり聞く練習にならないんじゃないの?」というと「うーん」。練習にならないこともないが、一つ間違えると聞いていることに何の意味ももたなくなるので突っ込んでみた。結局その学生「何すればいいかよくわからない。何すればいいと思う?」と聞いてきた。その学生は教材は使いたくないと言っていたのだが、「聴解の教材で練習してみたら?」とアドバイスした。何をしたらいいかわからない学生にとっては、教材はわかりやすく、理にかなった練習を提示してくれると考えたからだ。

どう練習するか。もっと練習方法を提示しないと、とは思うのだがそれについて情けないことにあまり手持ちのものがない。魔法のような練習方法があるとも思っていないが、いくつかバリエーションがあり、私が英語多読の時にやりやすいと感じたような、全体の見通しがあるものを提示したいなと思う。

私は個人的にはオーディオドラマ系がいいと思うのだが、選んでくれた人はいなかった。(選んでもらえるように篤姫で人気の宮崎あおいの名前もあげておいたのだが…)
英語の多読のかたわら、オーディオブックを聞いていて思ったのだが、ドラマのよさは、ある程度内容の予測ができることだ。多少聞き取れないところがあっても、わかるものは全体のストーリーはある程度理解できる。これが、ドラマのようなストーリのないものだと、なかなかついていけないことがある。(英語のチーズなんたらは、私は挫折してしまった。)
別途、自主学習ができるように、オーディオドラマを使った教材みたいなものを一つ作ってみるか、と思った。

2011年11月18日金曜日

聴解自律学習サポート

あるクラスで、「自律学習」サポートを始めた。サポートと言っても、「自律学習」をすることは学生には強制してあるので、サポートというのは変な気もするのだが、他に言い方も思い浮かばないのでとりあえずそう言っておくことにする。

そのクラスは口頭コミュニケーションのクラスで、自律学習は、何か自分で「聞く」ことが課題である。事前に聴解リソースを紹介するプリントを配り(これは前にも書いた「聴解のリソースを増やすには?」も参考にさせていただいた。)、その中からでもいいし、それ以外に自分がやりたいことを選んでもよく、とにかく、自分で何か聞くものを決め、学習計画を立て、それにそって学習をしていく(ということを強制する)ものだ。今は、中間テストが終わった直後で、期末にその学習課題にもとづきテストを行い、それが成績にも反映される。

昨年、同じようなことをK先生がなさったが、その時は学生はほぼ同じリソース(ネット上にある旧日本語能力試験2級用の聴解問題)を使い、すでに2級に合格している学生だけ、自分で1級用の教材を選びそれで学習していたということだった。自分で学習計画を立てるというのは、学生にとっては難しいことだろう。今回の私のクラスでも、聴解のリソースのプリントを作ったものの、ほぼみんな2級の問題をやるのではないかと予測していた。

先週の授業で、学生が自分の学習計画を書くためのプリントを配り、説明をした後、しばらく時間をあげて考えてもらった。プリントに書きこむ項目は↓。
① 現状(今、1日、或いは1週間にどのぐらい日本語を聞いていますか。)
② 現在の問題点、或いは、希望
③ 聴解に使用するもの(リソース)
④ 練習内容(そのリソースを使って何をするか)
⑤ 練習予定(必ず、「数字」を入れて書いてください。)
⑥ 練習の記録の方法
⑦ 今学期末までの目標
⑧ テストの内容

何人か学生が書き始めていたので、見てみると、K先生の時とは違い、2級の問題を書いている人がいない。逆にあったのは「日本のドラマ」「歌」、台湾で出版されている日本語学習用の雑誌の付録のCDを書いている学生もいた。

日本のドラマを選ぶ学生はいるかも知れないと思っていたが、一応リソースを紹介したプリントで「中国語字幕つきドラマを使うのはすすめない」と書いておいた。日本のドラマと書いた学生には、その場でもそのことを話し、説明した。もちろん、日本の番組を見てうまく学習する学生もいるとは思うが、そういう学生はただ見るだけではなく、見ながら何かをしているのである。(以前聞いたものだと、日本のコントを見てそれを友だちと再現している学生がいた。そこまでできればすごいものだと思う。)私が思う、学生が陥りやすいいまいちパターンは、字幕付きで日本のドラマをただ見るだけで学習した気になってしまうというものである。案の定、書いている学生の中に、使うリソース「日本のドラマ」、練習内容「聞く」、それだけしか書いていないものがあった。「日本のドラマって何見るの?」「聞いてどうするの?」と言うと、「えー、よくみんなドラマ見ながら日本語勉強するって言うじゃん。」のような答え。

その他、学生に思わず突っ込んでしまった記述。「できるだけ毎日3時間聞きたい。」元は中国語で書いてあったのだが、「聞きたい[希望]」「できるだけ[盡量]」という言い方はしない!っていうか、毎日3時間はどう考えても無理でしょう、と言ったら苦笑していた。その学生には悪いが、他の学生にもこういう書き方はしないように、「できるだけ毎日3時間」という壮大な目標をたてるより、「1日5分、毎日、絶対」のほうがいいと話した。

この計画書、提出は来週。来週の授業でもう一度調整するが、最終的にどんなものになるのだろうか。結局は、去年と同じで2級の練習が並ぶのか、それとも種々雑多なものが並ぶのか、楽しみだ。そして、どうサポートするのか、考えないと…。

【関連記事】
聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出
聴解自律学習サポート3 ドラマからオーディオドラマへ
聴解自律学習サポート4 学生の声(中間報告から)
聴解自律学習サポート5 期末報告から

2011年11月15日火曜日

相手の呼び方のつづき 「親しさ」への感覚

前回、台湾の学生が仲良くなるにつれどう相手の呼び方が変わるか(相手の呼び方【中国語】)、ということについて書いた。その時の授業で聞いたもう一つ面白かったこと。

最初に名前がわからなかったときの「同學」から、次は、名前が分かって「下の名前(呼び捨て)」に変わるということを書いたが、これについてのある学生の解説。
この下の名前だけという言い方は「装親切」だ、というのである。「装親切」の「装」は「~のふりをする」という感じだろうか。「親切」は日本語の親切とは少し違い「親しい」とか「フレンドリー」という意味を持っている。(この「親切」という言葉、なかなか日本語にするのはやっかいだなと思っている。)つまり「装親切」というのは、「親しい風を装う」ということになるだろう。その学生いわく、本当に親しくなってからも、下の名前だけ、ということもある。親しくなってからは、ニックネームや、フルネームに移行する場合もある。

私が面白いと思ったのは、親しいか親しくないかではっきりとした線引きをしないようになっている、ということだ。

日本語の場合、タメ口になったり相手を呼び捨てにしたり、というのは、「上から下」か或いは相当親しいという意味を持つ(と思う)。親しくない相手に、タメ口・呼び捨てを使うと失礼な感じを受ける。親しい間柄かどうか、親しいかそうでないかに大きく線が引かれている。

これも私の勝手な思い込みかも知れないし、少し乱暴なまとめ方かも知れないが、台湾の場合、相手に対して「親しさ」を見せるのが一種の礼儀であり、相手を尊重していることにもつながる。「私はあなたと親しくしたいと思っていますよ」という態度を見せようとする。逆に、日本語の場合、相手と一定の距離を保つのが一種の礼儀につながる。それが言語使用にも表れているように感じられる。

ずっと以前のことだが、学生が卒業後ビジネスホテルに勤め始め、そこの日本人駐在員客と「普通体」で話している、というのを聞き、びっくりしたことがある。「普通体じゃなくて、です/ます体で話したほうがいいよ」と言ったのだが、学生は「だって、その人とは仲良くなったし、親しい相手には普通体でしょ」と言っていた。まあ、よく話を聞くと、相手の駐在員の人も楽しく話しているようだし(学生から聞いたところではだが)、相手が気を悪くしていないのならば、私がとやかく言うことではないので、それ以上は何も言わなかった。(短大卒業したての若い女の子に、友だちのように話しかけられて喜んでいる駐在員、みたいな様子を想像してしまった。)

台湾から日本へ留学した学生が、「日本の学生は少し仲良くなるのは簡単だが、とても仲良くなるのは難しい」と言っているのを一度ならず聞いたことがある。「親しさ」の境界が、感覚的に違うことも原因の一つかもしれない。もちろん、こういうことは台湾ではどうだ日本ではどうだ、という風にはっきり分かれるわけではないし、個人の感覚によっても違いはかなりあるだろう。ただ、ある年齢を超えたら「私達って仲良しだよね」とあからさまに確認することはないと思うので、そこをどこから感じるかということの中に、言語感覚は影響していると思う。


相手の呼び方【中国語】

授業で、日本語での相手との親密性が変わって相手の呼び方が変わるという例をドラマを元に紹介した。その後、「じゃあ、みなさん中国語ではどう?」と言って、学生たちの例を聞いた。そこで面白いなあと思ったこと。

呼び方の順番。
1、同學(会ったばかりでまだ名前がわからない時)
2、下の名前だけ(名前が分かったらこれに変わる。まだ「知り合い」程度)
3、ニックネーム
4、フルネーム

「同學」というのは、そのまま日本語にそっくり置き換えるのは難しい。言葉だけの意味では「クラスメート」という意味もあるし、教師が学生全体に呼びかける時も「同學們」(学生の皆さん)と言う。正式な場で学生の名前を呼ぶ時は「○○○同學」となることもある。

2は、下の名前そのまま呼び捨てである。これだとまだそんなに仲良いという感じではない。この感覚は日本語と大きく違う。もし、このルールを日本語で使ったら、全く違う印象をもたれる。(そういう人はあまりみたことがないが。)

多くの場合、1と2の順番は不動なのだが、ある学生から異論があった。その学生の感覚だと、あまり親しくない時は4のフルネームで呼び、仲良くなると下の名前だけになる、という意見だった。
それについて、別の学生からの意見。同性間と異性間では違うかも知れないとのこと。例えば、男子学生が女子学生と呼ぶ場合、親しくない場合にはフルネーム、親しくなると下の名前だけになる、ということだ。

3と4は、人によって感覚が違うようだ。いずれにしてもフルネームが親しさを感じさせるというのは、私にとっては感覚的につかみづらい。

もう一つ、「你」や「我」の変わりに名前を言う時は、あるか。あるとしたらどういう時?という質問もした。「你」についてはわからないが、「我」については以前、例を耳にしたことがあるからだ。

「我」について出た意見。
1、「小朋友(子ども)」が自分のことを言う時に使う。
2、「裝可愛(かわいいこぶっている)」の時に使う。
学生の友だちの呼び方で日本語と全く違っていたのに、これは日本語と同じ感覚なので、「そこは同じなんだ」と逆にびっくり。
ちなみに2については、女性のみが使い、男性が使うと気持ち悪い、とのこと。女性が使って、かわいいと思うか思わないかは「人による」とのこと。そこも同じか。

名前については、前にも「敬意表現としての名前の使い方」で書いたが、今日の例も実に面白かった。

2011年11月5日土曜日

中国語の「変態」はそんなに「変態」ではない

つい最近、Podcastを聞いていて中国語の「変態」の意味が日本語の「変態」の意味とは違うことを知った。
CSLPod UpperIntermidiate 跳槽
この中で上司のことを「変態」と形容する部分がある。そこの解説を聞いていたら、
変態→自分が嫌いな人のことを形容する言葉。
例文1)私の隣人は「変態」だ。毎晩12時にカラオケを始める。
例文2)うちの社長は「変態」だ。毎週、休日出勤させる。
日本語にすると「ホント、やなヤツ」というぐらいだろうか。
なあんだ、そうだったんだ。

実は、もう5年前ぐらいになるだろうか「変態!」と言われたことがある。幸い面と向かってではないのだが、あるチェーンの電気店からバーゲンか何かのお知らせ勧誘電話を受けた時のことだ。こっちは仕事中で忙しいさなかに電話をうけ、相手はこちらのことなんかお構いなく早口で言うことだけをまくし立てる口調だったので、途中でさえぎって「私、外国人だから聞いてもわからないから。」と言った。普通はこれで、「あ、そう」という感じで電話を切ってくれるのだが、その時相手は「どこの国の人?」と聞いてきた。ちょっと腹が立ったので「あなたに関係ないでしょ。」と言ったら、
△&■%◇○☓■☓&◎&□%$=▼&……………
相手は何か外国人に恨みがあるようで、怒った口調でまくし立てている。何を言っているのかほとんどわからないし、そんなもの一生懸命聞く気にもならない。電話を切ろうと思ったところで相手が一言。
変態! 〈ガチャン〉
最後のその一言だけ聞きとれた。はあ???なんで私が変態なの?呆れるやら悔しいやら、そしてちょっと悲しい気持ちも…。

それ以来、その店を見る度になんとなくこの日のことが思い出されていた。

そして、2週間程前「変態」の中国語の意味を知った。ま、でも「変態」なんてもう言われないだろうな、と思っていたら、先週、テストについて説明していた時に
学生:先生、変態(bian4  tai4)。ヘンタイです。
うわ、人生二度目の変態呼ばわり。中間テストの話はさておき、「変態の意味はね…」と中国語と日本語では意味が違うことを解説。変態の意味について解説することになるとは思いもよらなかったので、こちらもしどろもどろ。
学生:じゃあ、日本語の変態ってどんな人?
ええと…。とっさに具体例は思い浮かばなかった。



2011年11月4日金曜日

日本語パフォーマンスを評価する

前に書いたコンテストのこと。
その朗読コンテストは、審査員3人が教員ではなく、会社の方々だった。今回初めて審査員をする方もいれば、前にも審査員をしたことがある方もいらした。

最後に講評があって、その中で言われていたこと。

自分も東京出身ではなく人のことをあれこれ言えないが、という前置きがあって、
アクセントが違う。
「か」と「が」の発音が区別できていない。
促音「っ」の発音ができていない。
などという内容があった。

「か」と「が」に関しては、聞いていた私は感じていなかったので面白いなと思った。音声的な違いよりも、アクセントから違和感を感じるのではないかと推測した。

また、今回の朗読コンテストは違いがあまりはっきりしないので、あえて点数に違いをつける意味で、という前置きの後、
始まりと終わりにお辞儀をした人を高く評価した。
という話もあった。この時に確か、そういう礼儀のような日本文化も知ってほしいという話だったと記憶している。

やはり、というか、そういうところを見ているんだなと思った。「お辞儀」や「挨拶」は、駐在員の方がよく言われることだし、日本のいわゆる「会社のマナー」でも言われていることで、こういうところでも評価対象になるのだなと思った。(この話が伝わり、次回は学生たちがみんなお辞儀をするようになるのだろうか…。)

 ぱっと見た相手を評価するというのは非常に難しいと思う。私自身も先学期の学期末に代講で学生の発表の評価をして、その難しさを実感した。

 その授業は1年生のいわゆる会話のクラス。私は、その大学の2年生は担当したことがあるが、1年生は接したことがなく、2年生も、会話のクラスを担当したのははるか昔のことだったので、1年生の学年末に学生がだいたいどのような状況なのか、というのは、あまり感覚がつかめていなかった。いくつか項目を決め、5段階で評価するようにしていたのだが、「とてもよくできる」か「とても厳しい状況」かはつかめるものの、それ以外の学生はだいたい同じような評価になった。評価しながら、普段担当している学生ならば、もう少し評価にばらつきが出るのではないかと思っていた。ということは、私がしていた評価は、その場での評価ではなく、普段のパフォーマンスと比較しての評価だったということだ。

 以前、会社で外国人の採用担当をしていた友人から「教育経験のない人は評価ができない」ということを聞いたことがある。少し難しい単語を言うと、「お、こいつはできる」と思ってしまう。少しつっこめばできないことがわかるのに、そこでつっこまずに相手のペースのままで判断してしまって、できない人を採用してしまう、ということだった。(OPIで言う、いわゆる「おはこ」みたいなことだろう。)

 これを聞いて、そういうこともあるだろうなとは思っていて、その時は自分だったらそんなものに惑わされないぐらいの妙な自信があったように思うが、知らない学生の評価をして、自分のできなさに自信がふっとんでしまった。と同時に、みんなどういう観点で評価しているのだろう、というところも大いに気になった。

 その意味で、この朗読コンテストの講評は興味深かった。こういう「教育場面」と、例えば会社の面接などでは、評価する側も見方が違うかもしれないが、参考になると思った。

2011年11月3日木曜日

第4回中東日本語教師オンライン研修 「聴解のリソースを増やすには?」

先週の土曜日のこと。私は中東とは関係ないのだが、twitterで流れてきた「聴解リソースを増やすには?」のタイトルにひかれた。ちょうどその時、学生に配る聴解リソースを紹介するプリントの作成中で、私にとって実にタイムリーな内容だった。

第4回中東日本語教師オンライン研修「聴解のリソースを増やすには?」

【追記】
上記の内容はむらログの聴解リソースを増やすには?に概要がある。

ustreamをライブで聞くのは二度目。(前は趣味で伊達公子選手の番組を見た。)twitterでログインはしたものの、ちょっとそこに書くのは遠慮してしまった。
後になって思えば、主催している側の方は、相当やりにくい状況にあると思う。実際の研修会であれば、聞いている人の反応がその場でわかるのだが、オンラインではtwitterなどで反応しないかぎり、聴衆の状況が全くわからない。音が聞こえないなどのはっきりした問題は反応があるが、それ以外について、普通の会場で聞こえるような「へえー」という声や顔がわからないのだから、進める側はやりにくい中手探りでやっていくしかない状況なのだなと思った。

ライブを見ながら、紹介されていくリソースを実際に自分で見て、気づいたことをメモしていった。ustreamは録画で見ると少々かったるく感じることもあるのだが、ライブで見るとそれを感じなかった。日本語能力試験の海外での受験者の聴解部門の得点の低さがグラフ化されていて見やすかった。学生へ聴解の練習を進めるのにも説得力があると思った。紹介されていたリソースは、知っているものもあれば知らないものもあって、参考になった。
どのぐらいの時間だったかは忘れたが、内容も充実していてあっという間に時間が過ぎた。こうやって、遠くにいながら、話を聞くことができたり、途中スカイプのチャットでの話を見たり、参加しようと思えばtwitterで意見を言うこともできる。以前、研修会でスカイプで日本の先生に講演をしていただいたことがあるが、その時も、便利になったものだと感じた。

しかし、後で、「私の聞き方ってどうなの?」と考えてしまった。数年前から学会に行くとPCカシャカシャという風景を見るようになった。私はまだそういうことをしたことがないのだが、なんとなく、雰囲気に違和感を感じてしまう。人の話は顔を見て聞け、的な感覚が抜けないのだろう。
今回は、相手には見えないということもあり、話を聞きながら、話に関係のあることではあるが、いろいろ勝手にやりながら聞いていた。こういうことを続けていくと、実際に話を聞きに行ってもカシャカシャやることに抵抗がなくなるのかもしれない。

話は横道にそれるが、こないだ、ある先生との話で、今の学生はメールの書き方を知らないで先生に対してもきちんとしたメールが書けない、ということが話題になった。その時に、我々の世代(漠然とした我々世代ではあるが)は、書くということが、鉛筆やペンを持って紙を前にして、という日常とは少し違う姿勢をとるので、気持ちも自然と「ちゃんとした」「日常とは違う」ものになっていた。しかし、今は日常の中で書くことが頻繁に行われているので、「書く」ことが日常の一部となり、その延長線上で教員宛てにもメールを書いてしまうから、つい普段の話、のようなものになってしまうのではないか、という話をした。

以前、学生がいわゆる内職をしているのを注意して「でも、ちゃんと聞いてますから。」と言われ、結構びっくりしたことがある。こういう現在のテクノロジーに慣れていくと、「話の聞き方」にも変化が出てくるかもしれない。

2011年11月2日水曜日

学生の“やったー!”という顔

きのうのできごと。私の話を聞いて理解したあと、得意そうな顔をして握手を求められた。

非常勤の勤務校でいわゆる会話の授業の後、学生2人が私のところに来た。中間テストを前にして、宿題の提出状況に不安があり、質問をしてきた。

宿題で会話練習をして、2人ペアになり、最後は宿題で会話を録音し、会話を文字化したものとともに提出することになっている。きのうは、教室で前回の宿題を返していた(文字化したものにいくつか注意点を書き返却)のだが、その2人の学生は録音したものは提出していたが、文字化の提出がなかったので返すものがなかった。私もうっかりしていて、その2人にそのことを伝えるのを忘れていた。

2人は、宿題を出したはずなのに、私から何も言われないので宿題が出ていないことになっているのではないかと不安になったらしい。今までの宿題の提出状況を書いたファイルを見ながら、未提出のところが黄色でマークされているので、「今から出してもいいか」と聞いてきた。

 ここまでのやりとりであるが、2人の学生は中国語で話し、私はほぼ日本語で返していたと思う。

 この2人、いつも教室で一番後ろの席にもう一人の友だちと3人で座っている。もう一人の友だちがいつも通訳役になり、教室での私の話を2人に伝えていたり、私に伝えたいことを変わって私に伝えたりしていた。私が彼らに話しかけると、2人はすぐもう一人の学生の方を向いて助けを求めていた。

 その2人が2人だけで来ると、今度はそのうちの1人が間をとりもつ役割になった。

「今から出してもいいか」と質問に対して、「録音したものは出しているし、もうフィードバックもしたし、今からWORDのファイル(文字化)を出しても意味がないよ。宿題を出さないと減点するけれど、録音したものを出しているから、そんなに大きい減点にはならないし。これからの宿題を全部遅れないで出せば成績も心配することはない。」と伝えた。これを伝えている間、ちょっとわかりにくい内容なので、中国語で話すか日本語で話すか迷ったが、言葉を選びながらとりあえず、最後まで日本語で話してみた。

 通訳役に転じた学生、自信のなさそうな顔をしながらももう1人の学生に中国語で説明。その後、私の方を向いて「あってるでしょ?」という顔をしたので、「うん、そうそう。」と返した。

 そして、手を差し出す。一瞬なんのことかわからなかったのだが、私も手を出し、握手。

 それを聞いていたもう1人の学生、私に日本語で質問しようとした。結局、言いたいことが言えなくて、中国語になってしまったが、でも、その学生はそれまで私に日本語で話しかけようとしたことがほとんどなく、あっても即座に切り替えていた。今回は、あれこれ言おうと試みていた。

 こうやって、「できた」と思ったり「自分もできるんじゃないか」と思って試したり、そういうことが感じられた一場面だった。

 私は、過去、学生に「日本語で話す」ということを極力強制しないできた。この学校と学習の位置づけが違う、ということもあるが、いろいろ考えてそうしてきた。ここは台湾なのだから中国語を話せ、日本語を勉強していて日本語の教師相手なのだから日本語を話せ、という考えが好きではなかった。

 今は、ある場面では、強制するところもある。そうすることへの迷いもある。学生にとってわかりやすい言い方をあれこれ選びながら、学生のわからないという顔に耐えつつ、日本語で話すことに疲れてしまうこともある。学生とのやりとりが中国語である程度できるようになった今、何が学生のためで、何が自分のためなのか、自分でもよくわからなくなっている。

 迷いは持ち続けたいとも思う。でも、今日は、よかったなと思えた。