2010年11月23日火曜日

学習支援と自律学習[中国語レッスン]

こないだから、中国語の作文レッスンを受けている。これがとっても楽しい。教師として、学習者の気持ちが実感できる、自分の作文が直されることで私が学生の作文を直すときに思っていた疑問が解決する、などもあるが、とにかく、純粋にとても楽しい。

この中国語レッスンは、K先生の「分科教学法」という授業で、学生たちが中国語学習支援[教育]を行っているものに、参加させてもらっているものだ。学生たちはチームを組み、学習者の要望を聞いて、学習プログラムを作っているらしい。私は「中国語で、日本語学習者に、ネット上の役立つリソースをブログのような形で紹介したい。その文章を書けるようになりたい。」という要望を最初に伝えた。レッスンは、メールでの課題の受渡しと、週1回のスカイプでの対面レッスン(約1時間)である。

きのう3回目、スカイプのレッスンがあった。

これまで書いた作文は、自分が希望した「ネット上リソース紹介」の作文もあるが、先生側から出された文章の要約や、「台湾の印象」「私の故郷」というテーマの作文。先生側から出されたものは、自分が書きたいと思っている文章とは、傾向もジャンルも違うのだが、それはそれで、自分の書けない文がどういうものかよくわかって、いいかなと思っていた。

きのうは、レッスンの最後に「これから5回レッスンで、最後にテストをします」と言われた。

え~テストですか!と最初聞いた時には、「ひゃーどうしよう」と思ったが(思っただけでなく、そういうリアクションをしたので、先生側には思いっきり笑われた。ほんとに、職業、教師のくせにうろたえるなんて情けない)、「 この授業でどれぐらいできるようになったか知りたいので」と言われて、「そうだよね。」と納得。

その後「テストのやり方を相談したいんですが。私たちの提案は、最後に、教材の紹介の文を書いて、それがいいかどうか見たいです。いいですか。」と言われた。
「もちろんいいですよ。」と言ったあとで、こちらも
「どうやって評価するんですか?」と聞く。
「読んで、役に立つと思うかとか…」と言うので、じゃあ、と言って、その後は先生側に質問、要望をした。

きのうのこのやりとりを思い返してみて、実に興味深い、と思った。まとめると、
1、まず、テストを設定することによって、先生側も学習者側もレッスンのゴールを共有することができた。
2、どう評価されるかを聞いて、より具体的な課題が見えてきた。
3、 疑問点を先生側に聞きやすくなった。

ありきたりなまとめになってしまうが、「これって、自律学習と学習支援だ」と思った。

私は当初「 ネット上のリソースを紹介する文章を書けるようになりたい。」という希望があったのだが、他の文章を書いているうちに、「これもいいかな」と思っていた。無駄な学習はない、と言えばそうだし、だからこそ「これもいいかな」と思っていたのだが、テストが設定されたことによって、本来の目標に戻ることができた。これはよかったと思う。たぶん、このまま他の文章を書き続けていたら、それはそれでよかったけれど、自分の当初の目標は、ほとんど解決されずにいたと思う。レッスンが終わっても当初の課題が残ったままで、不満とまではいかないが、物足りなさを感じていたかもしれない。

私とこのレッスンの先生とは、このレッスン以外では、私が教師で先生側は私の学生という関係にある。気にしなくてもいいのかもしれないが、「あんまりああだこうだ要望しても申し訳ないなあ」とか、「あっちも授業で教育活動について実習しているので、私の要求をはいはい聞いているだけではつまらないだろうな」とか、妙な遠慮があって、私はあまり色々なことを言えないでいた。 でも、テストとその評価を聞いて、「じゃあ」ということで疑問、要望をぶつけることができた。以下、私がした質問と要望。

1、[質問]学習者の立場として、どんなWEBリソースを知りたいと思うか。
「聴解」と言われたので、私が最初に書いた文章(ラジオドラマ)は、方向としては間違っていなかったということがわかった。私自身も、聞けるリソースを紹介したいと思っていたので、それはよかったと一安心。

2、[質問]私が最初に書いた紹介の文章を読んで、そこに紹介されているものを利用したいと思うかどうか。
「うーん」と即答をさけていたので「わかりました。いまいちってことですね。じゃあ、どうしたらいいですか。」と質問。そこででてきた答えは、
A、ラジオドラマのストーリーについて、もっと書いてあるといい。
B、全体のストーリーの紹介があり、その他に、第一話はどんな内容、第二話は…というように、それぞれの内容の紹介もほしい。
おお、了解。全体のストーリーの紹介は少し書いたのだが、それでは足りないということだ。あまり全部を書いたら聞く楽しみがないかなと思ったが、自分の英語多読の本選びでも、詳しく書いてあるほうが興味が増すと思ったことを思い出した。(例えばアマゾンの本の紹介だけでは物足りなく、レビューの中にストーリーについて詳しく書いてあると読んでみようかなと思った。)

3、[質問]まじめな文章とか友だちみたいな文章とか、文章の雰囲気があると思うけれど、中国語にもありますよね。どっちがいいですか。
「友だちみたいな文章」という答え。それはそうだよねと思った。

4、[疑問]私が以前書いた文章を友だちみたいな文章にするには、どうしたらいいですか。
「助詞」を使うこと。

5、[要望]私が書きたいような、WEBリソース紹介の中国語の文章をみたい。

6、[要望]私が書いた文章を友だちみたいな文章に直してほしい。

以上がきのうのだいたいのやりとりだ。
今回のレッスンでは、自分の書いた文章を直してくれる人がいる、というのももちろん大きいのだが、こうやって、書いた文章についてフィードバックをもらい、今の自分の文章力に足りないところが見つけられるというのも、とても大きい。

こういう学習支援、ほかにもやってほしい人が大勢いるんではないだろうか。

2010年11月21日日曜日

会話か聴解の教材アイデア(映画の予告編)

さっき、むらログの「最近の映画の予告編を集めてみました。」のページを見て、思い出したこと。

「ドラマの内容を語る」というようなことを、会話や聴解で教材にしたいと同僚などとも話していたのだが、なかなか実現できないでいた。考えたのは、内容は知っているが日本語タイトルはわからないドラマを、相手に内容を説明してわかってもらう、というシチュエーションを考えているのだが、こういうのは、実際に会話をしてみると、相手の知っている知識を利用しながら話していることが多い。ストーリーをいくら上手に説明したところで、相手がそのドラマのことを全然知らなかったら、あまり会話にならない。(というより、寂しく会話が終わってしまう。)全ての人が知っているようなドラマなら、大した説明も必要なく簡単にわかってしまうし、知っているか知らないかわからないようなドラマは、もし知らなかったとしたら、あまり理解ができない。だから、教材作成には難しいと思っていたのだ。

でも、こういう会話、実際には本当によくある。(少なくとも私はよくする。)日本のドラマや映画だけでなく、ハリウッド映画などでもそう。日本のハリウッド映画のタイトルは英語がそのままカタカナにされているが、台湾では翻訳されているので、元の映画のタイトルは知らない、という学生も多い。俳優の名前もよくわからないけれど、ストーリーはわかる。そうなると、「あの映画面白かったよ。」と言って、内容を説明し、「ああ、私も見たいと思ってた。」とか、「あ、こないだ私も見た。」なんていう会話を何度したことか。

だから、なんとか教材化できないかなあと、ずいぶん考えていたのだが、なかなかよいアイデアがなかった。

だが、映画の予告編を利用すれば、できるかもしれない。映画の予告編を見てもらって、その中で自分が見たいのはどれか、みたいな状況であれば、なんとかできるのではないかと思う。共通理解部分として、映画の予告編が使えるのだ。

これ、以前にも思いついていたのだが(その時もむらログのページを見てだったような気がする)、すっかり忘れていた。思い出した今のうちに、教材化の相談を始めよう。

2010年11月19日金曜日

とりあえず言ってみる「交渉社会」

 以前、日本から台湾に遊びに来た友人が言っていたこと。「台湾は交渉社会だと思った」。
いくつかエピソードがあるのだが、その一つが、レストランでのこと。レストランに来る前にデパ地下でお刺身を買ったので、行った先のレストランで
「できたらこれ、お店の冷蔵庫にいれておいてもらえませんか?」
と聞いたところ、その店はベジタリアンのお店なので、
「中に魚が入っているので悪いけどできません」
と断られた。
そのやりとりを見ていた友人は、「店の冷蔵庫に入れてくれるように聞く」のもびっくりだし、「店員もとりあえず店長に聞いてみる」のもびっくりだった、ということだ。

これは、今日、台湾人の友人から聞いた話。
日本人の友人と台湾の新幹線に乗ろうとした時のこと。駅構内の7-11で買い物をしていたら、新幹線の出発時間ギリギリになってしまい、慌ててホームに行こうとしたのだが、エレベーターがなかなか来ない。(荷物が大きかったのでエレベーターに乗ろうとしたらしい。)結局、ホームに着いたら乗ろうと思っていた新幹線は出発してしまって乗り遅れてしまった。
エレベーターには、別の中年男性も乗っていて、その人も友人たちと同じ新幹線に乗るはずだった。その男性が、乗り遅れた後に駅員をつかまえて言ったことには
「エレベーターがなかなか来なかったから私が乗るはずの新幹線に乗り遅れた。駅ではちゃんと係員が乗客を誘導するべきだ。私が乗り遅れたのは駅側の責任だ!」
簡単に言うと、こういう内容だったらしい。
結局、その男性の主張が通り、乗車券を次の列車に換えてもらうことができた。もちろん友人たちもいっしょに。
それを見ていた日本人の友人、
「乗り遅れたのを駅のせいにするなんて、有り得ない…。」

台湾人の友人は、
「台湾ではそういうのよくあるけど、日本ではあまりないですね。」
それを聞いた私は、
「でも、そういうの言っても、相手にだめって言われたら、わりとすんなり引っ込むことも多いよね。」
友人「そうですね。」

思えば、よくある気がする。私自身も学生から
「この授業がなければ午後授業がなくて自由な時間になるから、授業の時間を変更してほしい。」
みたいな要望をうけたことがある。
最初に聞いたときは、「おいおい、そんな理由でか!」と思ったものだった。何回かそういう要望を聞いていると、こっちも慣れてきて「疲れるからやだ」みたいな理由でも、相手は「じゃあ、いいです」と引っ込んでくれるので、気軽に聞き、気軽にお断りすることも多い。

そう、とりあえず、言ってみる。だめだったらあきらめる。そんな感じなんだと思う。

私が暮らしていた日本社会では、相手に絶対的な非があると思ったときにしか相手のことを責めないし、自分にどうしても、という理由がなければ要望を言ったりしない。そうなると、相手に聞いてもらえないと、激怒するか、困り果てるか、で、相手に対する不満が残ることが多い。

とりあえず言ってみる社会に慣れてしまうと、そのほうが楽な気がする。



(前述の新幹線での男性の交渉は「壓下去〈プレッシャーをかける〉」なのだそうだ。とりあえず、相手にプレッシャーをかけ、自分を優位に立たせておいて、それから交渉に臨むということらしい。)

2010年10月25日月曜日

交通違反で、警察に交渉するロールプレイ(中文)

中文を習っている友人から、「ロールプレイの設定自体が面白い!」というので教えてもらった。いわゆる交通違反の時に、警察に交渉する、という設定。 有り得ない設定ではないが、これが教科書に載っているというところが、すごい。
以下、友人から 聞いた話を思い出して書くので、記憶違いのところもあるかもしれないし、理解の間違いもあるかもしれないが、非常に興味深かったので、書いておく。


まず、「交通違反で警察との交渉」というのが、捕まったその場で、ということかと思いきや、反則金の納付書が送られてきた場合も、それを持って警察に交渉に行くらしい。「そこまでするの?」と聞いたら、する人はわりといるそうだ。ということは、交渉すればなんとかなるという思いが多くの人にあるということだ。

教科書には、「交通違反をして警察に行って交渉する」 という設定しか書いていなくて、モデル会話はない。なので、最初は、いったいどう交渉すればいいのか???だったという友人。先生がいろいろ解説をしてくれたそうだ。
よくあるスピード違反の場合。いったい、スピード違反をして、警察が考慮してくれる理由とはなんだろう?と思うと、

1、家族が病気で病院に行くところだった。

これは、まあ、わかる。でも、そんなこと警察に言って聞いてもらえるのかなあと疑問。

2、急いでいた。

え?そんな理由?
仕事の会議があるとか、約束があるとか、そんな理由で急いでいたというのも言っていい理由らしい。

3、泣く(女性限定)
わりと効果があるそう。

話はそれるが、どんな時に泣くか、泣かなければいけないか、どう泣くか、というのもいろいろ固定観念があるとつくづく思う。泣くのは決して感情で泣いているのではない…。

4、
なんかあったのだが、忘れてしまった。残念。他人に貸していたとか、そんな理由だったと思うのだが。

ほお。ロールプレイの設定というのも、興味深いものなんだ、と思った。日本語の教科書でも、「はあ?」と思うものがあるのかもしれない。

2010年6月13日日曜日

政治的に正しい?言葉遣い

 「中文」って言葉、わかってもらえるのだろうか。今更なのだが、思った。
最近、Twitterに書くようになったり、ブログを頻繁に更新するようになった。今まで、何回使ったかわからないが、「中文」をなんどか使ったと思う。そして、今日、「はて?意味がわかってもらえるのだろうか」と思ったのだ。
台湾のいわゆる「國語」「中文」だが、それを日本語の中で使うときに、なんといえばいいのか、よく困る。人によっては「北京語」と言ったり「中国語」(これは私も使う)と言ったりするが、台湾の「國語」が「北京語」というのもどうかなあ、と思うし、「中国語」というのも、国の「中国」があるから、どうかなあ、と思ってしまう。
相手の言った言い方にあわせようと思って、「北京語」「中国語」と言った相手には「中国語」と言うし、そういう言葉遣いに敏感な相手には、その部分だけ「中文」と言ったりする。その発音も、〈中文〉の発音を借りるときと、「チュウブン」と言う時もある。でも、話し言葉の中の「チュウブン」って、あまり多くの人にはわかってもらえないような気がする。
ブログやTwitterは、不特定多数の相手だし、漢字で意味がわかるだろう、と思って、「中文」と書いてきたのだが、自分が書いたものを後で読み返して見て、せめて、〈 〉でくくったほうがよかったのかもしれないと思った。
Twitterのつぶやきの中で、「妻」の言い方について「奥さん」とか「家内」とかはよくない、というものがあった。それには賛成するのだが、実際問題、困る時がある。他人の「妻」について、言及する時だ。私の友人は、自分の「妻」のことを「彼女は…」という。なんの脈絡もなく「彼女は…」で始まったときに、一瞬誰のことなんだろう?と思ったのだが、そのうち友人が「妻」のことを言っているのだということがわかった。友人が自分の「妻」のことを「彼女」というのがいいが、私が、友人の「妻」について話すときには、なんといえばいいのか…。私はしょうがないから、今のところは「奥さん」と言ってしまっている。 その友人は「家内」とか「妻」とかも使いたくないから、「彼女」と言っているのかもしれないし、別に気にしていないのかもしれないし…。
難しい。

2010年6月11日金曜日

「かもしれない」は敬意表現

中文の婉曲表現(?)について前に書いたが、以前あった私が誤解をした中文の表現について。
  学生に何かを確かめると「應該……」という答えがよく返ってくる。この「應該」、推量の「~はず」みたいな意味なのだが、私は
「『たぶん』とか『かも』とか『はず』とかじゃなくて、ちゃんと確かめて!!!」とよく言っていた。
そして、
「私にものを聞かれて應該って答えるの禁止!!」とまで言った。
その後、私が学生に「應該…」と言うと、学生に「あ、先生も應該って言った。いけないんだ…」と冗談のように言われるようになったが、私の應該禁止令は浸透してしまった。

しかし、ある時、別の大学で会話のロールプレイをしていた時のこと。
学生のタスクは「何か事情があって、約束をキャンセルしなければいけない。約束をキャンセルする旨を相手に伝え、次の時間の約束をすること。事情は各自で考えること。」というものだった。
学生は私に事情を話し、約束を変更したいということを言った。その事情が、
「○○先生の授業があるかもしれないので…」
という説明。
「かもしれないって言うのだったら、はっきりしてから、また連絡してくれる?」みたいなことを私が言って、その後、ちょっと会話がちぐはぐな感じになってきた。
そのロールプレイは、一応、約束の変更をして無事に終了した。その後、学生と会話の相手をした私と、会話を横で見ていたTAの学生とで、その会話の反省・改善点を話した。その時に、また私が
「〈~かもしれない〉っていう事情は、約束を変更する理由としては今ひとつ」なんてことを言ったら、TAの学生が「授業があるというのは、不確かではなく、確定していること。でも話し方として、かもしれない(中文で「可能」)、という言い方を中文ではするんです。敬語的な表現です。」と教えてくれた。不確かなものとして提示することで、敬意を出すらしい。
應該禁止令を出した私は、正直、衝撃だった。あ、そうなんだ、あれは、そういう言い回しだったんだ。実際に不確かなことで應該と言っていた学生も、もちろんいただろう。でも、そうではなく、敬意表現(らしい)で言っていた学生もいただろう。
そう言えば「~かも(可能~)」と言って、私に「どっちなの!?」と怒られ、キョトンとしていた学生がいた。普段、あまり怒った顔を見せずへらへらしている私に怒られたという衝撃だったのかもしれないが、もしかしたら、「なんで怒られるの?」という気持ちだったのかもしれない。本当に心の底から申し訳ない気持ちになった。

2010年6月10日木曜日

「日本人の知らない日本語」的言い間違い

日焼けをして痛がっている上司にクリームをすすめた。「○○○クリームはどうですか。○○はいいですよ。」

本当は「アロエ」と言いたかったのだが、
「エロア」クリーム。エロはいいですよ。

になってしまった。これも、職場の言語の発表で聞いたこと。大爆笑。

そして、これは職場での話ではないが、その場にいた他の先生から聞いた話。OPI(会話能力試験のインタビュー)をしていたときに、
「私の姉はえっちなんです。」
「えっち?」
OPIでは、能力をみるために、詳細を聞いていくということになっているので、
「えっちって?」と質問したら
「お金が…」
よくよく聞いてみると「私の姉はけちなんです」ということだった。
普通の会話だったら、あまりつっこんでもどうかと思うので、お姉さんのことを誤解したままで会話が終わっていたのでは…。テストでよかった。

以前の同僚の授業での話。面接の練習をしてビデオ録画し、自分の様子を見て反省点を書く、という課題で学生が書いてきた。

「ムラムラしてはいけません!」

 ムラムラしたら集中できないしねえ、というのではなく、体が「フラフラ」「ユラユラ」動いてはいけないということが言いたかったのだ。

言い間違いは、私もよくある。例えば、市場にしょうがを買いに行った時に
「しょうが、○○グラムください」
と言いたかったところを
「○○キログラムください。」
と言ってしまったのだろう。お店の人に、
「あんたは、これ全部買い占めるのか!っていうより、ここにあるだけじゃ足りないぞ!」
と、しょうがの山を目の前にして言われた。
………
いえ、そんなにしょうがはいらないです。

婉曲表現(中文)

よく、日本語は曖昧な表現が多いというが、そんなの日本語だけじゃない、どんな言語にもある、と思っている人も多いのではないか。私もその一人。(敬語的な表現もそう) 
前に書いた職場での言語使用の発表で聞いた、「大丈夫です」の解釈に困ったという例。
「我問經理想要去XXX(クラブの店名)續攤,但是怕您會累,不知道您覺得如何?」
と日本の取引相手に聞いた。( 仕事の後の接待で、意味としては「うちの会社の社長はクラブに行きたがっているけど、あなたが疲れてしまうのではないかと心配していますが、どうですか?」みたいなものだろう。)日本人側の返事は「大丈夫です。」だった。この「大丈夫です」はA「クラブに行かなくても大丈夫です」なのかB「疲れていてもクラブに行って大丈夫です」なのか、意味がよくわからない。
 発表で聞いたのはこんな例だった。「大丈夫です」という答えを聞いて、何が大丈夫?という例は私自身でもあると思うが、ここでの例でAとBの二つの解釈の可能性がある、というのが理解できなかった。私がこの例を見て思うのは、「大丈夫です」の意味は明らかにBだ。「クラブに行くか行かないか」は、聞かれていないのだから、Aの可能性がある、と考えるのがよくわからない。なので、発表者になぜ二つの解釈があると考えるのか聞いてみた。
学生たちは、私の質問に???という感じだったのだが、その場にいた先生が説明してくれた。この「うちの社長が行きたがっている」という部分は、別に事実ではない。「行きたくない」というのも失礼だし、相手が「行きたい」と言いやすいように、そう言っているだけ。だからこの質問の全体の意味するところは「クラブに行きますか、行きませんか」という意味なのだ。
まあ、よく考えれば「社長がクラブに行きたがっている」なんていうのは変だし、そう説明されるとわかるのだが、同じようなことを私が聞かれたら、私も「大丈夫です」と答えてしまうだろう。そして、上記のように言われた場合は、「社長が行きたいっていうんだから」と、行きたくないと思っていても「大丈夫です」と言ってしまうような気がする。
そういう婉曲表現があるんだ、と勉強になった。中文の婉曲表現は、これまでにもいくつか聞くことがあり、そのたびに「ああ、そうなんだ」と思いつつ、実際の会話で、その場で、それを婉曲表現として理解し、対応出来るかどうかは、とても自信がない、といつも思う。
特に、上記の例は、「うちの社長は…」のところも日本語で話されたものだと思うが、中文的な婉曲表現を日本語の中でされた場合は、もっと自分の対応が難しい。
婉曲表現というのは、いくらでもあると思うのだが、自分自身の行動を振り返ると、自分にとって外国語で話しているときは、表現を「字義通り」に解釈することが多い気がする。例えば、電話で「○○さんいますか?」と言われた場合、日本語だったら○○さんに「電話ですよ」というのだが、中文では「ああ、○○さん、いますよ」と返事をしてしまう(実際には電話のこんな会話ではないが、例えばの話)ような感じだ。と、日々、自分の行動を反省。
中文の中にも、このような婉曲表現は多いと思うのだが、誰か本にまとめたりしていないだろうか。読んでみたい。

2010年6月8日火曜日

職場では3言語以上が基本

 「職場では3言語以上が基本」今日、聞きに行った発表で、聞いたことだ。
その発表とはT大学の「比較コミュニケーション」という授業の履修生が、自分の学科(日本語学科)の卒業生にアンケートをしたものだ。発表タイトルは「先輩たちの会社における言語使用とコミュニケーション」。職場で、どんな時に、どんな言語を使っているか、というのが、調査の基本的な内容だ。
日本語学科卒の学生なので、日本語の使用が多いというのはわかるが、基本言語は3言語以上、2言語というのは少数派というのは面白い結果だ。
4言語というのもかなりある。4言語とは、台湾国語(いわゆる「國語」を正しく何といえばいいのかわからないのでこう書いておく)、台湾語、英語、日本語である。発表した学生いわく、「日本語だけでなく、英語も台湾語もがんばりましょうね」
この調査は、卒業生総数が1000人弱、その中でアンケートに回答してくれたのが40人強というものなので、この結果で何か言えるか、というのは数字的には疑問であるとは思うが、しかし、大規模調査の前のプレ調査と見ても、面白いものだと思った。
発表の内容とは直接関係がないが、この発表会は、学生からメールで知らされた。私がこの大学で非常勤で授業を持っているから、メールが送られてきたようだ。メールには、日時や場所が書いてあったのだが、場所は教室番号が記されていただけだった。大学構内には建物がたくさんあるが、それが、記号で記されているのでどこのことだかわからない。「ちょっと不親切だな」という気持ちもあり、どこだかわからないので、「発表を聞きに行きたいので場所を教えてほしい」とメールに返信したところ、学生からとてもわかりやすい地図が送られてきた。地図は、学生が自分でドローソフトで描いたものだった。こんなにしてくれてありがとう、ちょっと不親切だな、なんて思って申し訳なかった、と思ったあとで、「ああ、クレームには、クレームへの対応が大事」というのはこういうことなのだ、と思った。少なくともこの一件は、「ちょっと不親切」から、その後の対応により「とっても親切。申し訳ないぐらい」と印象が変わったからだ。実際、大学到着が開始時刻ぎりぎりになってしまったのだが、もらっていた地図のおかげで、まったく迷うことなく、会場に到達することができた。
メールへの対応も含め、聞きに行ってよかったと思える発表会だった。

2010年6月7日月曜日

外国語での情報収集

前のブログで書いた、「中文で何がしたいか」。うーんとひねり出し、「教育関係のブログを見たい」と思いついた。私はGoogle Readerでいくつか教育関係の日本語のブログを見ているが、それと同じようなことを中文でもしてみたいと。
しかし、探せないのだ。Googleで「教育」と「ブログ」のキーワードで検索してみたが、自分のみたいようなものには辿り着けない。キーワードの入れ方が悪いのだとは思うが、それ以外のキーワードは思いつかない。
むらログの記事の中にもあったが、情報収集能力は難しいのだろう。
http://mongolia.seesaa.net/article/151862819.html

じゃあ、今私が Google Readerで読んでいるブログにはどうやってたどり着いたのか。これを中文にも応用できないかと思って、自分の行動を思い出してみるのだが、一番最初は中原淳先生の著書を読んで、そのブログを見始めたのが全ての始まりだったような気がする。ただ、それ以外は、よく覚えていない。

先のむらログの記事の中で紹介されていたサイト(http://ple.elg.ca/course/?p=18)のように、とりあえずある程度、大量にこちらで準備する必要がある。そして、さらに場合によっては、サイトの概要・使い方、なんかの説明もあるほうがいいのだろう。いくつかの体験があれば、そこからは、各自が発展させたり、自分で探したりもできるようになるかもしれない。

2010年6月5日土曜日

その言語で何がしたいか

きのう、同僚と仕事について話をしていた時のこと。
私は、外国人の立場で現在の職場(大学)で働いているが、〈中文〉がそんなにできるわけではないので、結局、できる仕事が限られてくる。どこの大学でもそうであるように、業務ではあれこれ書類を書かなければならないが、正式な書類を書く中文能力は残念ながらない。私が日文で書いて同僚が翻訳してというのも可能だが、効率を考えたら、同僚にしてみたら「自分で書いたほうが面倒じゃないし、速い。(同僚に言われたわけではないが、私だったらそう思う。)」ということになって、書類作りなどは、ごくごく限られた範囲でしかしていない。というより、できない。
「このままだと私は職場で永久的に半人前で、それは嫌だけれど、でもそのために頑張って〈中文〉を勉強しようという気にはならないんだよね。」という話を同僚にしたら、「taizはいつも〈中文〉を勉強したいわけじゃないって言うけど、どうして?言語ができれば世界が広がるし、楽しいじゃん」と言われた。
「確かにできるようになるにこしたことはないけれど、私にとって、〈中文〉で書類を書けるようになるというのは、今の能力からはかなり離れているし、とても難しい。そこに到達するためには、すごく頑張らなければいけないし、それに、それ(書類を書くこと)は、私がやりたいことではないし…」と同僚に私の思いを話した。
私は一応今まで〈中文〉ができるようになろうと、それなりに努力をしてきたつもりだ。全く0からだったが、学生とコミュニケーションがとったり、教室内で大勢に向けて説明をしたり、たまには学生を叱ることもある。学内の会議を理解したり、発言したりする。メールは、今、勉強中のところだ。さっさか書きたいが、簡単なことを書くのにえらく時間がかかるし、相手にきちんと伝わっているのかとても心もとない。
そうなのだ。それは、私がやりたいと思ったことなのだ。あまり考えてみたことはなかったが、自分でそうなのだと気がついた。そして、じゃあ、次は?と考えたときに、はて、なんだろう?、私が〈中文〉を使ってやりたいことは?と思ってしまった。
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そこまで考えて、私が今まで学生に「ただ、日本語を勉強するっていうだけじゃなくて、自分の興味のあることを見つけたほうがいいよ。」みたいな意味のことを、安易に言っていたことに気づいた。興味があることがある人は、私なんかが言わなくても、やっているのだ。私がしなければいけないのは、興味を持てることが見つからないことに、「これだったら面白いかも。」と思えるようなことを提供することなのだ。
そうなのだ。こんな当たり前のことに気がつくのに、なんでこんなに時間がかかってしまったのか。反省。

2010年6月3日木曜日

みんなの前での痴話げんか

こないだ、4年生の学生と食事に行ったときに聞いた会話。
4年生の学生(男子)と3年生の学生(女子)がつきあっているのだが、彼女が彼氏に、彼氏の友だちがいる前で、文句を言う、けんかするらしい。それについて、4年生の学生みんなが、逆はいいけど、それはちょっとひどい、と言っていた。逆というのは、4年生の前で、彼氏が彼女に文句を言うのならいいが、4年生の前で彼女が彼氏に文句を言うのはよくない、というのだ。
私が「どうして?」と聞くと「没有面子」だからだという。( 「没有面子」は「メンツがない」と日本語の中で言い換えられるが、私にはなんとなく「メンツがない」と「没有面子」は感覚的に違う気がする。ここでは「立場がない」みたいな感じだろうか。)4年生は彼氏の友だちだから、その友だちの前で彼氏に文句を言うと、彼氏の〈立場がない〉からだと。
私の感覚では、4年生の前で、彼氏が3年生の彼女に文句を言うほうが、彼女がかわいそうな気がする。4年生は彼氏の友だちだから、彼女が彼氏に何を言おうと、友だちは自分たちが知っていることと合わせて彼氏を理解すればよい。でも、彼氏が自分の友だちの前で彼女に文句を言うのは、彼女は大勢の中で一人だけだから、かわいそうだ。
これもいわゆる「面子」の感覚の違いだろうか。

2010年5月30日日曜日

初つぶやき と 百貨店

twitterに登録してから、ずっとヒト様ののぞき見ばかりしていたが、初めて「つぶやいて」みた。そうしたら、フォローする人が出てきて、ちょっとびっくり(することでもないのかもしれないが)し、また、申し訳ないな、と思った。私は、twitterのところに自分が何者であるかというのを全く書いてなかったのだが、私の「つぶやき」は、普段の私の興味とは、少し違う関連のもので、私をフォローしても、今後何もないだろうに…と思ったのだ。まあ、意味がないと思えば、フォローをやめればいいだけのことだし、大したことではないが、それでも、「ああ、こんな風に人が興味を持つんだ」と、使って反応があって、その力に、なんというか驚いた。
せっかくだから、なんで初めてつぶやいたのか、ということと、つぶやきをもう少し文章にしてみようと思う。
twitterに登録しては見たものの、多くの人と同じ(だと思う)ように、いったいこれをどう使うのかよくわからなかった。今していることをつぶやく、というのも趣味ではない。いろいろつぶやきを見ているうちに、何かニュースなどで気になったことがあったときにつぶやいてみようかな、と漠然と思っていた。
それで、今回の下記の記事につぶやいてみたのだ。

日経ビジネスオンライン「百貨店が復活する日」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20100520/214533/

日経ビジネスオンラインのこの記事は連載物で、私は連載の最初から読んでいた。百貨店は、私にとって、自分の仕事とは全く関係ないが、父が百貨店に勤めていたことから、なんとなく思い入れがある。父は「デパート」という言葉はほとんど使ったことがなかったのではないだろうか。「百貨」の「百貨店」という気持ちがあったのだろう。その影響でか、家族も「百貨店」ということが多い。そして、最近よく見る「百貨店業界の不振」という記事を、どうにか復活してほしい、という思いで読んでいた。だから「百貨店が復活する日」という記事は「どんなことを言うのだろう」と期待していた。
連載の前の記事で「日本の衣料アパレル消費が落ち込み、衣料分野へのシフトをすすめた百貨店がその波をもろにかぶった」というのは、なるほど、と納得するものだった。しかし、今回の記事には、????だった。
 じゃあ、どうすればいいのか? 外に任せればいいのです。(中略)
今生きのいいブランドやショップを、テナントとして契約すればいい。百貨店側に求められるのは、マーチャンダイジングの能力ではなく、どんなブランドに場所を貸すのが一番売り場として魅力的になるか、という「場貸し」のプロデュース力、というわけです。

私は、百貨店業界の人間でもないし、それに関することに携わっているのでもなく、単なる一消費者である。だから、この「百貨店が復活する日」の連載を読んで、本当に理解したのかどうかは、はっきり言って自信がない。この???も、他の人から見れば、「なーに、わかってないの」と思われるかもしれない。確かに、私は記事内に書かれている「自主マーチャンダイジング」については今ひとつ理解しているとは言い難い。でも、???なのだ。(だからつぶやいてみた。「百貨店復活」という言葉に対する期待との落差が大きかったから。)
「場貸し」は、百貨店がもうずっと以前からやっていることだと、私は思っていた。父が生前嘆いていたのも「百貨店が場を貸すだけのものになってしまった」ということだった。どこのなんとかというブランドが○○百貨店に入った、というのはよくあることだ。最近の事情には疎いので、ずいぶん前の話になるが、GAPが初めて百貨店に入った時もそうだった。そして、そういう百貨店内のショップには、百貨店の社員とショップから来ている店員とがいる、というのが今の状態のように見える。それが、どう変わるというのだろう…。

記事の中で、「デパ地下」のことが書いてあった。
百貨店は早々に自主マーチャンダイジングを諦め、場所貸しのプロに徹し、飲食のプロや欧州のブランド菓子業界などに、店頭作りは任せました。その結果、デパ地下を舞台に健全な競争が起き、もともと駅前立地という優位性もあって、デパ地下は百貨店にとって数少ないお客さんの呼べる場所になりました。
デパ地下は確かに元気だ。 デパ地下は、「洋菓子」「和菓子」「惣菜」のように、わりと場所が分かれて買い物しやすい作りになっているように感じる。バレンタインデー近くになると、チョコレート売り場が増え、それこそ迷いに迷うほどチョコレートを選ぶことができる。
それを、他の売り場に応用することはできるんだろうか。場貸しをして、それをジャンルごとに分けて…というのは、どうなるんだろう。仕事用のスーツはスーツで、いろいろなショップのものを並べてほしい!と思っていたことがあるが、でも、場貸しで、そんな対応ができるようになるとは、あまり想像できない。
それから、食品は「買ってみようかな」というのが気軽にできる。単価が安いものが多いし、よければまた買う、だめだったら「失敗だったね。アハハ」ですむ。洋服やその他、多少高いもの、後に残るものとは、買い方が違うように思う。
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私は元々百貨店がわりと好きで、今でもどちらかというと百貨店で買い物することが多い。もしかすると、今の時代の多くの人とは感覚が違うのかも…とも思えてきた。考えてもよくわからないのだが、でも、百貨店は是非、復活してほしい。

2010年5月29日土曜日

さびしいですか

今の学校で仕事を初めて10年になるが、こないだ「招生」に初めて行ってきた。「招生」は、いわゆる大学の営業活動で、高校へ行って「是非、うちの学校に来て下さい!」ってなことをやる。
「招生」がなんたるかも知らず、いきなり「一人で1クラス担当」とか言われ、初回は、周りに面倒がられるほど、「何を話せばいいの?!」と質問しまくり、あせっていたが、どうにか慣れてきた。(やはり外人に任せるのは心配だったのか、「招生中心」の先生が私のクラスには来てくれて、学校の説明をしてくれた。)
慣れてきた3回目。一人1クラスで50分。50分も話すことないし、と思って、動画も用意していったのだが、始まりが予定より多少遅く、さらに、一人でいろいろな配布物を配っていると結構時間がかかってしまったので、PCは使わずに話しはじめた。途中で、また「招生中心」の先生が来てくれて、学校の説明は代わりにやってくれた。日本語を履修しているクラスがいつも担当なのだが、それでも学校によって、日本語が通じるか通じないかは差がある。3回目のこの学校は結構通じるようで、私も日文中文混ぜながら話していた。それでも、一通り話をしたら、20分ぐらいでネタはつきた…。

私 「なんか質問ないですか?」
シーン
私 「え~、全く興味がないってこと??」と高校生相手に、泣きを見せて訴えると、

学生 「先生、出身地は?」(日本語)
私 「あ、東京です」
へえ~~

ちょっと、盛り上がる。

学生 「宿舎はありますか?」(中文)
私 「ありますよ。・・・・・・」中文で説明。

また、シーン。

学生 「先生、結婚していますか?」(日本語)
お、定番の質問。(なぜか、定番)
私 「していません。」

すかさず、別の男の子が手をあげる。
私 「はい、どうぞ」






学生 「さびしいですか?」(日本語)

私、爆笑。
なんというか、うますぎる。

私「さびしくないです。」

学生 「彼氏はありますか?」
別の学生 「『いますか』でしょ。」
私 「100人います。」(いつもこう答える)

その後は、
学生 「何型ですか?」(日本語)
私 「何型に見える?」
学生 「A型。」
私 「ブー」
(このブーをみんながなぜか、リピートする)
私 「O型です。」
質問した学生が嬉しそうに、「私もです。」(日本語)
そして、握手。

私 「みんなは何型?」
私が聞いて手を上げてもらうと、AB型がいない。(後ろで先生が「1人います」と教えてくれた)

ってなことをやっていて、ある学生は、好きなアイドルの写真を見せて
学生 「先生、知っていますか。」
私 「あ、『メイさまの執事』の人」
学生 「そうです。」
私 「好きなの?」
学生 「はい。」

学生 「アニメは好きですか」
私 「好きだけど、おばさんだから、新しいのはあまり知らないの」
(世の中のおばさん、すみません。おばさんだからは、ただの根拠のない言い訳です)
学生は、とてもがっかりした顔をしていた。
ごめんなさい。

今度、「招生」に行く前には、しっかりアニメの会話もできるように、練習しておこう。

高校生のみなさん、それから、先生、
楽しい時間をありがとう。

2010年5月28日金曜日

わくわく(電子書籍)

この間から、iTouchを買おうかiPadを買おうか、という気持ちがむくむく湧いてきて、いろいろiPad関連の記事を読んでいる。その中で、今日見たiPad用の絵本や、電子書籍のデモは、「おー」と久々にわくわくさせられた。
ちなみに、私が見た電子書籍のデモは下記。
http://next.24live.jp/archives/2373

絵本の絵が動く、というのは、本当に面白い。英語多読で全く絵本を読まなかったが(身近になかったし、買ったら高いという理由で)、これだったらお金を払って見てみようかと思った。子どもの時も、立体の飛び出す絵本は大好きだったし、その中でも、自分の手で動かせるものは、わくわくさせられたが、それ以上のものがある(に違いない)。ネット上でフリーの絵本があったが、それは見てももう1回そのサイトを見にいこうという気にはならなかった。そのサイトもとてもよかったし、魅力的ではあった。でも、絵本がネット上に載っただけのこと。動く絵本というのはPCならではだ。
デモの中では、医学かなにか体の構造の図があったが、立体的に見ることができ、最初に前を見てその後体をぐるっと一周し…、それから、一部を拡大し、というように見ていくことができる。これなどは、いろいろな教材に使えるし、使ったらとても面白い。画面で見ると引き付けられるし、それで「なんだろう???」という気持ちになると、解説を見る気が起きる。(今日、最初に「不思議の国のアリス」の絵本を見たとき、これ何?と本文に目を向けた。) 日本の解説本みたいなのがあるが、それが、こういう電子書籍になれば、見ていてわくわくするものになる気がする。
もう一つ。電子書籍ではないのだが、最近、考えていること。学会やら何かの集まりやらで、Newsletterがある。最近は、紙で印刷しないでネット上で配布されるのだが、その形式は従来の紙に印刷されるものがPDFになった、というものが多い。たぶん大きさとしてはA4ぐらいなんだと思うが、そうなると、PC上ではスクロールしないといけないし、写真等は、自分で拡大して見ないとよく見えない。こういうのも、紙で配ることを前提とした形式ではなく、最初からネット上で見ることを前提とした作りにできないのだろうか。たぶんできるんだろうけれど(ときどき、電子カタログとかであるが)、素人には敷居が高すぎる。そういえば、大手の会社が作っているようなPC用のカタログにしても、あまり見やすいものではない。そういえば、ソフトの説明書もPDF形式が多いなあ。あれもあまり見やすいものではない。何か、PC上で見ることを前提にした、Newsletterなどが見やすい形式であり、それが、素人でも手軽に作れるようなソフトはできてくれないだろうか。そう、ホームページを作るソフトのようなもの。
最後に、電子書籍に戻るが、私は「こういうの作りたい!」と真剣に思った。その前にiPad、やはり買おうかな。

追記:私の調べ方が悪かったらしく、ソフトはあるらしい。まだ調べている途中。

2010年5月23日日曜日

あなたが決めるべきこと

ある記事を読んでいて、ふと思った。
ある記事というのは
「フィンランド人の家庭に招かれたときに、これはよくヨーロッパではあるのですが、食後の飲み物はコーヒーにするか紅茶にするかといったときに、日本人はみんな奥ゆかしい方で『どちらでも』と言うんですね。レストランでコーヒーにしますか紅茶にしますかと言われても『どちらでも』と言う人はあまりいないと思いますが、何となく家庭に招かれると相手のことを思いやって『いや、どっちでもご都合のいいほうでいいですよ』と答えてしまうんです。これをやると結構ヨーロッパ人というのは怒るんですよね。要は、あなたが決めるべきことを何で私が決めなくちゃいけないのかということなんです。決定すべきことを任されてしまうことほど嫌なことはないと考えるんですね」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100424/223139/?P=3

私がふと思ったというのは、この中の「あなたが決めるべきことをなんで私が決めなくちゃいけないのか。」という部分だ。
最近は既に慣れてしまったからかあまり感じなくなったが、以前こんなことが何回かあった。
授業にも出てこず、テストも受けていない、或いは、テストだけは受けたが結果が芳しくない、という学生が
「先生、どうしたらいいですか。」
「さあ、授業にも出てこない、テストも受けないじゃ、もうしょうがないですね。」
「先生、何か、課題を出してもらえませんか。」
「ふーん、課題ねえ。どんな課題?」
「先生がいいと思うものなら何でもいいです。」
ここで、私はよく思ったのだ。なんで、授業にも出てこない、テストもできない学生のために、私が課題を考えてあげなければいけないのか。自分が挽回したいのなら、自分で課題を考え、それによって認めてもらおうと思うのが筋ではないか。
以前は、「課題をくれ」と学生に頼まれ、あまりむげに断るのもと思い、「自分で課題を考え、まずそのプランを持ってこい」と言っていたのだが、当たり前かもしれないが、私が満足するような、というより、私が許せるようなプランを持ってきた学生など一人もいなかった。何度がやりとりをするのだが、どうもコミュニケーション不全に陥る。このようなコミュニケーション不全を何度か経験したあと、方針転換し、「なんとなく自分の頭の中で〈こういうのが正解〉的なものがある時はそれをはっきりと提示する。さもないと、学生がワケの分からない状態になる」ということにした。
対症療法的に、こちらの対応の仕方を変えたのだが、「なぜそうなるのか」ということまでは、実は考えていなかった。
それが、今回、最初に書いた記事を見て、「もしかして…」と思ったのだ。私もこの記事の中にあるような、人の家にいって紅茶かコーヒーかを問われたら、「どちらでも」と答える人である。「どちらでも」と答えて相手が不快になったら、意外な気持ちになると思う。それを、上記の学生にあてはめて考えれば、なんだ、同じことなのだ。学生が自分の考えを言わず、私に判断を委ねたのは、教師に対しての礼儀だったからだと考えられる。「余計なことをお願いするのですから、先生の都合のいいようにしてください。」ということなのだ。
そうだったのかも。

2010年5月5日水曜日

私に覚えてほしかったら自分の名前を書け

 K先生の研究室で暇だったので、本棚にあった本を拝借し「サヨナラ、学校化社会」を読んでいた。その中にあった一節「私に覚えてほしかったら自分の名前を書け」。
 
大学は、「出なくて単位とるのも芸のうち」だから出席は取らないが、その替りに評価カードのようなものを作って、授業のフィードバックをもらう。それは、評価の対象にはしないし、批判したかったら匿名でも構わない。そして、標題の言葉になる、
という流れ。
 なるほど。これは、いい!!と思った。来年の2年生でやってみようか。

2010年5月1日土曜日

webマンガ

偶然、「コミックエッセイ劇場」というweb上で見られるマンガのサイトを見つけた。詳細はまだよく見ていないが、「日本人の知らない日本語」だとか「ダーリンは外国人」だとかを出版しているところがやっているみたい。お金をかけずにマンガを読める、というところがよいけれど、このまま学生にURLを渡しても、読むところにいくまでや、「すすむ」をクリックすることなどが、わかりにくいかなあと思った。それから、学生が読んで面白そうなものをいくつかピックアップするのも大切か。

コミックエッセイ劇場
http://www.comic-essay.com/index.html

と思って、私もパラパラ読んでみたけれど、週に2回の更新で、そんなに数が多いわけでもなく、追っていってもずっと連載しているようでもなさそうだし、自分でパラパラめくってみることを勧めるほうがいいかもしれない。私が読んでいけそうだと思ったのは、「英語がペラペラになりました」カタカナ語が解説してあって、学生にもよいかも。いっしょになって笑えそうだし。

2010年4月29日木曜日

古い時代の音楽

学生から、「ある動画の後ろで流れている音楽が気に入ったので曲名を教えてほしい」というメールが来た。「先生ならわかると思う」とも。メールの内容から、音楽が流れているのはほんの数秒なので、わかるかなあと思いながら、動画のURLをクリック。その数秒を聞いてみると、すぐにわかった。(ちなみに、プリプリの「ダイアモンド」)
後で、「なんで私がわかると思ったの?」と学生に聞くと、「曲の感じから、今の曲ではなくて古い感じだと思ったから」という。「どこが?」と聞いても「それはよくわからないけど、なんとなく。」曲を聞いただけでそんなことが感じられるんだと驚いた。でもよく考えてみれば、私もかつてはあったと思う。今どきの曲ではない、と若い頃に思ったことが。でも、今の私には、新しい曲を聞いても、以前に流行っていて好きで聞いていた曲を聞いても、その違いは、感覚的には感じられない。
話はかわるが、最近、遅ればせながら「フリー」を読んだ。前からよく言われていることだが、物心ついたころから、ネットがあった世代や携帯があった世代、フリーの中では、いろいろなフリーのものに触れられる世代と、それ以前の世代では感覚が違う、と言う。感覚の違いはあるんだと思う。曲を聞いて感じることが、私と学生とでは違うように。私には感じられないことをその学生が感じるように。今さら、私がその感覚を感じられるようになれるとは思わない。できることは、感覚の違いがあるということを頭において、理解するように努めることなんだろう。