2012年12月23日日曜日

聴解自律学習-今学期はNews web easyが人気

 昨年、あまりうまくいったとも思えなかったのだが、今年も聴解自律学習を始めた。(昨年のことは聴解自律学習サポートに書いた)

 今年は、昨年の反省も踏まえ、まずは、
なんでもいいから聞いてみようね
というスタンスで始めることにした。

 元々、教師がこんなことを言わなくても自分で好きなものを聞いているという学生も必ずクラスの中にはいる。そんな学生には、私の課題は少し面倒か、別にサポートになっているわけではないので、この聴解自律学習のターゲットになる学生は、
勉強しなきゃなと思っているけど、何をやっていいかわかんないし…
というような、きっかけを欲していたり、情報や指針を欲しがっている学生になる。
 去年の学生からの声で「それもそうだな」と思ったのは「何を聴くか決めるのが一番難しい」というもの。何でもいいからやれ!という言い方もあるかもしれないが、「あ、これいいな」というものに出会いたいという気持ちもよくわかる。私もそうだし。

 それで、今学期の方針は二つ。
1、学生同士で情報を共有できるようにすること
2、計画とか目標とかわからなかったら、とりあえずいろいろ聞いてみること

 学生同士で情報を共有するために、毎週、大学のe-learningサイトの掲示板に書いてもらうことにした。あまり見やすいものではないのだが(なぜか画面を開いても投稿内容がすぐには表示されず、クリックをしないと内容が見られない)、それでも、「みんな何やってるのかな」と知りたいと思ったらそこを見ることができる。
 2については、まず、「なんか継続的に聴くのは大事だとみんなも思ってるよね。でも、一番難しいのは、何を聴くか決めることかも…」という話をして、今回は最初に何を聴くかを決めていいけれど、自分に合わないなと思ったらすぐ変えてほかのものを聴いてみたほうがいい、と言った。これは、私の英語多読の経験から来ている。英語多読でも「難しいと思ったらすぐやめる」と言っているが、これは苦痛が減る一つのいい方法だ。
 聴解リソースは昨年と同様、プリントでいくつか例を示した。今回増やしたのは、NHKのNews Web Easyとprende Audio、それとNTT西日本コミュニケーション大賞(これは公開がもうすぐ終わってしまうが)。
 先週、第一回目の投稿があった。掲示板のタイトルを「○月○日まで、私はこれをしました!」というものにしたところ、いくつか面白いものがあった。テレビ番組を字幕なしで見ようとしたけれど全然わからなかった(「打撃了」→日本語にすると「撃沈」みたいな感じ)と、率直に書いてくれた人もいた。
 prende Audioも聞いた人が一人。中にたくさんオーディオドラマがあるのだが、聞いたものは
1.僕の校長先生観察日記(全一回)。2.鈴玉物語(聽到第二話完)。3.オーディオドラマ@肉球すたんぷ
だそうだ。こうやって、例を誰かがあげてくれると「たくさんあってどれを聴いていいかわからない!」という人にもいいかなと思う。
 わりと多くてびっくりしたのがNews Web Easy。去年は、ニュースを聴くのは少数派だったが、30人弱の学生の中で、News Web Easyを聞いた人が5人もいた。内容に興味が持てないから次回は違うものにする、という感想もあったが、「最初はわからなかったけど、下にある文章を読んでもう一度聴いてみたら理解できるようになった」とか「話す速度が比較的ゆっくりでわかりやすい」という高印象の感想もあった。ニュースを初めて聞いてみようという人にはとっつきやすいのかなと思う。

2012年12月3日月曜日

みんなはなんて言うか聞いてみる-「ベビーコーン」とは言わない?

 会話の授業でのこと。学生に「先生はベビーコーンと言ったけれど、TAの人に聞いたら誰も知らなかった」と言われた…。
 この会話の授業では、授業時間外に、学生たちは与えられたタスクをTA(学生アシスタントで、日本人学生が担当)とロールプレイで会話するという課題がある。タスクについては、授業で少し解説、練習をして、学生はTAとの会話に臨む。
 「ベビーコーン」が出てきたのが「頼まれたお弁当がなかったので今あるお弁当を電話で説明して、どちらにするか決めてもらう」というもの。「ベビーコーン」は特にポイントではなかったのだが、授業の流れの中で、説明した。
 それが、2週間前で、先週の授業で学生に言われたのが、最初に書いた「TAの人に聞いたら誰も知らなかった」。まあ、自分の使う単語が年代が違うと使わないというのはすでに経験済み(→「ジーパン」は古い!参照)なのだが、それでも「えー、そうなの?」と少々驚いた。
 学生に「じゃあ、TAの人はなんて言うの?」と聞いたら、「ヤングコーンとか小さいトウモロコシとか…」と答えが返ってきた。よくよくその学生に聞いてみると、疑問に思ったその学生はなんとTA10人に聞いてみたとのこと。その結果が「誰も知らなかった」である。エライ!
 私がエライ!と思ったのは、その時の自分の担当TAだけでなく、他の複数のTAに聞いてみたこと。普通なら「あ、そうか」で終わってしまったかもしれない。複数に聞いたことで、色々な言い方があることがわかったのだ。
 私がネットで調べてみると「ベビーコーン」も間違いではないらしい。(Gパンも間違いではもちろんないが…。)いや、でも、学生に相手に伝わらない言葉を教えてしまったとは、少々申し訳ない。混乱しないでいいところで混乱させてしまったかもしれないからだ。
 「ごめんね。」と謝ったら、
学生「ベビーコーンのほうがかわいいですよ!」
とフォローされた。本当にエライ学生たちだ。

2012年11月17日土曜日

「学校は本来欲望を更新するための場所」

タイトルは、内田樹の研究室-「En Rich」のロングインタビュー-の中に書いてあったこと。なるほど、と思った。
今の学校は教育商品や教育サービスを販売してる「市場」ですから。
先生は売り手で、保護者や子供が消費者。消費者は別にマーケットに何かを学んだり、人間的成長を遂げたりするために来ているわけじゃない。買い物に来ているだけです。
スーパーの入り口から入った消費者が出口にたどりついたときには別人になっていました、ということはありえない。店内に何時間いようと、何年いようと、入り口から入ったときとまったく同一の人物であって、買い物籠の中身だけが増えているというのが消費者です。
市場では消費者の欲望の初期設定は最後まで変わらない。
学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。
ここで書かれている「欲望」は「学習者のニーズ」という用語で言われることと似ている。「学習者のニーズ」みたいな言い方はもう古びてしまったような気もするが、それでも、どこか生きているように感じる。私自身は、「学習者のニーズに応え」ようと考えていたこともあったが、今は、その考え方にどこか疑問を感じている。

前にも何かで触れたかもしれないが、「外国語教育のリ・デザイン」の本を読んで、その疑問を強くした。(以下引用)
Candelier,M.G. Hermann-Brennecke(1993)が指摘しているように、学習言語の選択は情報の有無で大きく変わる。たしかに何も情報のない環境で「入学後はどの外国語を学びますか」と聞かれたら、「マレー・インドネシア語をやりたい」と答える若者は、ふつうのいまの日本の高校生の中にはいないだろう。しかし入学後に、キャンパスにマレー・インドネシア語学習のコミュニティがあることを知り、仲間の熱のこもった勧誘のことばを聞き、担当教員の言語と文化に対する丁寧な解説を聞き、その言語は東南アジアでは一種のリンガ・フランカとして通用しているということなどを聞けば事情はまったく異なってくるに違いない。したがって何も情報を与えずに学習言語の選択を迫るのは、社会に依存している各言語に対するステレオタイプを助長する以外のなにものでもない。確かにそのほうが事務的には新学期の準備が楽であろう。しかし未来に羽ばたいていく若者の教育現場である大学では、既成の観念を打ち壊し、新しい価値を生み出していくことこそが使命のはずである。(p.33-34)
上記のことは、内田氏の文になぞらえて考えると、「大学に入学したときは、マレー・インドネシア語を学ぶとも思ってもいなかったのに、それを学んだ」ということだろう。それが「新しい価値を生み出す」ことであり、「欲望を更新する」ことだ。
「学習」は「変わること」だとも言う。何かの技術や知識を身につけるのも「変わる」ことだが、「欲望」や「価値観」が変わることのほうが、もっと変わり方が深い。
「学校は本来欲望を更新するための場所」。とても納得する言葉だ。

2012年10月28日日曜日

日本が好きであること-日系企業で働く

先日、台湾の日系企業で長年働いている方のお話を伺う機会があった。勤務校の他の先生の授業で招いた方だったのだが、「よかったら聞きに来ませんか?」と誘っていただいた。
 お話をしてくださったのは、10年以上同じ貿易会社で働いているFさん。会社でちょうど人の募集、面接をしている最中とかで、面接の時に使う資料も見せてくださった。
Fさんのお話で印象に残ったこと。(中国語と日本語と両方だったので中国語部分は少し心もとないが私の理解したこと。)

①貿易会社の財産は人
貿易会社はものを作っているのではないので、会社の一番の財産は人。人の移動(辞職)はないほうがいい。その為、Fさんの会社では新卒はとらない方針。新卒の場合、会社のことをよく知らないから、他の会社がすぐよく見えてしまって移動する。

②面接での質問「今の仕事に不満は?」
①で書いた通り、新卒は取らないので面接に来る人は必ず転職組。転職するには、今の仕事に何らかの不満があるということだから必ず聞く質問。

③面接での質問「日本についてどう思いますか」
これはとても重要なポイント。(話の中で何回か出てきた)好きなことが大切。特に日本向けの営業では日本が好きなことが先決条件。以前、中国大陸での例だが、スタッフがきちんと働いてくれない、やめていく人が多いという問題を聞いた。その人に「働いている人は日本が好きですか?」と聞いた。好きなことが大切。

④面接での質問「何か質問がありますか」
面接に来たら、質問は必ずあるはず。ないというのはおかしい。例えば「どんな業務になるか」「勤務時間は何時から何時までか」など。ネットで会社の状況を下調べしておくこと。

⑤面接でのポイント
面接で見るポイントとして
1、自信があること
2、内容のある話ができること
3、礼儀正しいこと

⑥大切なのは日本語能力
国際貿易、運搬、などの知識はあとから勉強できる。ことばは短期間ではできない。だからできる人をとる。

⑦日本語能力試験1級が最低条件
履歴書で1級がなければ面接には呼ばない。1級の基礎があれば、ペラペラ話せなくても、1年やればできるようになる。ペラペラ話せるかどうかはポイントではない。

⑧日本語以外の勉強も
日本語だけでなく、何か自分で勉強しておく。


私は個人的にも以前日系会社で働く方から話を聞いたことがある。話を聞いた方のフィルターがもちろんかかってはいるが、とても雰囲気がいいと感じさせる会社と全体的にやる気ない感が漂う会社とある。Fさんの会社はとても雰囲気のよい会社のようだ。これは「日本が好きであること」をポイントにおいているからなのかもしれない。ここまで「日本が好きであること」が大切だとはっきり言われたのは初めてだったので、結構驚いた。そしてそうなのかも…、とも思った。
もう一つ面白かった話。「現場」とは違うということ。「現場」とは工場などのことだが、現場は管理が強く、給料があがりにくいということだった。Fさんも、今の会社へは「現場」からの転職組だ。なんとなく「日系」とひとくくりにしてしまっていたが、そこには大きい違いがあるのかも、と思った。

2012年10月21日日曜日

ケアマネの話術

 数年前からケアマネさんとお付き合いがある。(仕事ではなく、プライベートで)実家の老人のことでケアマネさんにお願いしているわけだが、ケアマネさんにしてもヘルパーさんにしても、仕事ぶりを見ていて「話術も仕事のうち」と感じることが多く、どうやってこの話術を身につけるのだろうと思う。日頃「コミュニケーションは…」などいうことを考えているので、家の事情ぬきに知りたくなる。
 私は多くのご老人を知っているわけではないし、家族に見せる顔と他人に見せる顔は違うと思うので比較はできないのだが、でも、うちの老人は扱いにくい部類に入るのではないかと思っている。家族はイラッと接してしまったりもするが、それでもなだめすかし、おだてて何かをしてもらうことが多い。「何かをしてもらう」というのは、日常必要なこと-体の調子が悪くて医者に行く、外出する、買い物に行く-だ。
 先日、ケアマネさんの仕事ぶりを見た家族から聞いたこと。一言「プロの仕事だ!」。上手に「何かをしてもらう」ように、話を仕向け、おだて、結果、本人がするように持っていく。部屋にカレンダーが貼ってあって、そこに色々な予定が書いてあるのを見て「まあ、お忙しいですね」と喜ばせるようなことを言いながら、たぶんさりげなく予定をチェックしている。薬の管理をするために薬剤師さんにお願いするのだが、その薬剤師さんとも事前に打ち合わせ済みで、本人が喜ぶような話題を提供し、気に入られるようにし、薬剤師さんにお願いする合意を得る。
 家族が見て驚いたのはうちの老人が「タメ口で話していた」ことだった。うちの老人はどちらかと言えば、他人行儀が好きなほうで、相手との距離を置くことが多い。その老人がタメ口で話しているということは、かなり気を許している証拠だ。
 ケアマネさんの話し方は、私が見た限り、近づきすぎず、距離を置きすぎず。たぶんうちの老人が好きそうな話し方だ。これはかなり難しいことだと思う。人によってどんな距離感を好むかは違うし、どんな話し方がどんな距離感を生むかも違うからだ。ケアマネさんは、うちの老人の話し方、家族が老人に対してする話し方等を見て、好みの距離感を察し、接しているのではないかと思う。
 月1回の訪問で、家族もいつもいるわけではなく、家族と話した回数もそんなに多いわけではないのに、ここまでできてしまうケアマネさんには脱帽だ。こう家族に思わせるケアマネさんは真のプロだ!と思う。(お医者さんでは、こと老人のことに関してここまで思わせてくれる人には残念ながらお会いできていない。)
 ケアマネさんの話術は、もしかしたら、うちの老人のような扱いにくい人に対してだけかもしれないが、とても必要な重要な技術だ。話術がなければ、担当者(老人)から必要な情報を聞き出せない。話をしていてある程度の本音を引き出せなければ、その老人がどんな生活状態になっているのか把握するのは難しい。また、いろいろやりたがらない人に、話術をもって、説得し、やってもらうように仕向けなければならない。
 気になってネットで調べてみたら、ケアマネさんの話術についてはあまり見当たらない。見たところ、人によるもののようだ。家は幸運にもいいケアマネさんに担当してもらうことができたということなのだろう。
 「話術」は「コミュニケーション能力」と同じように、つかみどころのない、なんとも説明が難しいものだ。でも、ケアマネさんのこの話術は、具体的にどうにか説明ができるようにならないかなと思う。
 

2012年10月20日土曜日

人の授業を覗いてみる-会話の授業をどう作るか-

「会話の授業をどう作るか」
 なんか、変なタイトルのような気もするが、「会話の授業について話してほしい」ということで、今日、とある学校に話しに行った。
 一応、教師研修の講師という立場だったのだが、以前非常勤で勤務していた学校だったので、聞いてくださる皆さんは以前の同僚。この話をいただいた時には、もうだいぶ年数も経っているし、新しい方もいるのではないかと思っていたが、ホームページを見てみると、教師のメンバーは全く変わっていなかった。経験があまり変わらない方を前にし、私が話をすることもないのでは、と思ったが、まあ、人の仕事の仕方を聞く機会もそうないし、そういう話を聞くのも面白いのではないかと思い、なるべく私個人のやり方を語る感じで話をさせていただいた。
 いくつか質問もいただいて面白いなと思ったこと。マイクロディベートの話をしたのだが、
「グループに分かれてディベートをすると、それぞれのグループが何を話しているかというのはどう把握するのか。」
なるほど。そんなことは考えたことがなかった。答えは「できないので、放棄しています」。そう言われてみると、私は学生が何を話すかを一つ一つチェックするということをせずに、授業で練習してもらうことが多い。
「マイクロディベートの立論メモは、宿題で書くんですか」
「書き方がわからないので、授業の時に書いてもらいました。」
「じゃあ、チェックはどうするんですか?」
ある先生は、授業で練習するときには事前に書いてもらい、それをチェックしでから、授業で練習する方法をとっていたそうだ。私は、最終的に宿題で出してもらいそれはチェックをするが、教室内の練習は、とりあえず話して練習してもらう方式をとっている。何かを書くとしたら、それは、何を話していいかわからなくてシーンとしないためのものだ。こんなところでも違うんだなと思った。
 最後にある方が「会話の授業を担当することがないので、会話がどういう授業なのか知ることができて面白かった」とおっしゃっていた。これもなるほどな、と思った。私も文法的な授業を担当することは少ないが、そういう授業がどうなっているのかを知るのは、学生がどう学習しているかを知るのに重要だなと思った。

2012年10月13日土曜日

ディベートと大統領演説とtwitterでの議論

togetter「元桐生市議庭山由紀さん、桐生の女子高生に論破される」を見て思ったこと。

その前に…

ディベートは、議論の様子を見てそれを議論に参加していない人たちが評価するものだ(と私は理解している)が、最初にそれを知った時に、これって何なのだろう??と思った。自分の環境の中で、そういう状況が思い当たらなかった。その後、アメリカ大統領選の候補者討論の様子を見て、「ああ、ディベートはこういうことなのだ」と理解した。そう思うと、私がよく読む翻訳リーガル・サスペンスの中にある、陪審員がいる裁判もなんとなく近いような気がした。だからアメリカではディベートがよく行われている(と聞いている)のかなと思った。
 最近、大統領候補者の討論をテレビで少し見たが、なんとなくではあるが、話し方が見ている人を意識しているような話し方だなと思った。そういうものだと思って見たからそうなのかもしれないが、そう感じた。
 反対に、例えばNHKの日曜討論の議論を見ていると、あまり、見ている人を意識していないような気がする。話している人は、目の前の議論の相手と内容だけに集中していて、その話し方や論点がどう他の人に伝わっているのかは考えていないのではないか、と思う。
 乱暴な言い方をしてしまえば、日本で、少なくとも、私が関わる環境で、「第三の聞き手を意識した話し方」をする機会がないのかなと思っていた。
 そして冒頭に書いた「元桐生市議庭山由紀さん、桐生の女子高生に論破される」。話の内容よりも議論の仕方に目がいってしまうのだが、私から見ると、相手の議論に答えようとしているのに、途中で話をすり替えて中傷とも取れる言葉を使ってしまう元市議はどうかな…と思ってしまった。そして、あ、こういうのって、実は、第三者に見られて評価される議論なのかも、と思った。
 他人の議論を評価することについて。こういうことも実は、練習が必要なのではないかと思う。twitterでは、議論している当事者を中傷する言葉も見られるが、そういうことばかりがtwitter上で展開してしまうのは残念というか、もったいないというか…。ディベートの判定をするには訓練が必要らしいが、そういう訓練が、ディベートの判定のためだけでなく、こういう一般の議論を見る時にも必要なのではないかと思う。

2012年8月31日金曜日

【本】老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた

老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫)
老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫)三好 春樹

「そうそう」「なるほど」と思ったり、思わず笑ったりしてしまった本。
 ブログ「ラーニング・ラボ」の中で、この著者の別の本が紹介されていた(「ウンコ・シッコの介護学」)のを見たのがきっかけ。私生活で、ケアマネの方や介護士の方と接触する状況なので読み始めたような気がするが、自分の仕事とも重なるところが多々あった。読みながら考えたこと。

○帰らすくらいならいかさにゃええじゃない(p.134)
 老人ホームでの歩行訓練で、あるご老人が吐いた言葉。平行棒を前に、訓練士「立ってみて」。ご老人立つ。訓練士「立ったら今度は歩いて」。ご老人、歩く。訓練士「じゃこんどは向きを変えて帰ってきて」その後にご老人の言った言葉だ。最後の解説でも取り上げられていて、かなりインパクトのあるフレーズなんだと思う。私もこれを読みながら、思わず笑い、私だったら「ごもっともでございます」とでも答えるだろうな、と思ってしまった。
 本の中では「うーむ、まいった」という感想の後に、
「訓練は手段」
「生活行為はまず目的がある。目的があって意欲が生まれ、その結果、体が自発的に動く」
と、訓練と実際の生活の違い、そこでの訓練の限界のようなものに触れている。これは、言語教育で言われる、教室での練習VS実際使用と似たものがある。
 教室での練習は役に立たないとか、教室での状況と実際の状況は違うとか、いろいろ教室内の練習の限界が言われている。実際使用と教室を結びつけようとか、教室を実際使用に近づけようとか、試みもいろいろある。私も、ああだこうだ、試行錯誤を繰り返している。

でもね、とちょっと思ってしまった。

 この「でもね」を説明する前にもう一つ。「帰らすぐらいなら…」発言のすぐ後に紹介されている「遊びリテーション」。「遊び」と「リハビリテーション」との造語であることはすぐわかると思う。私の理解では、もともと、リハビリはリハビリ、レクリエーションはレクリエーションで、別々に行われていた。それを、辛くてやりたくないリハビリにレクリエーションの要素を取り入れ、楽しくリハビリをしよう、ということだと思う。
これも、ゲーム的な教室活動で楽しく練習しましょう、という言語教育と似ている。

 上記の2つが意味するのは、楽しかったり、わかりやすい目的があって訓練するといいですよ。今までやりたがらなかったご老人もやるようになり、効果もあがりますよ、ということだと思う。言語教育で言われることも、似ていて、機械的な練習とか文法とかは面白くないから学習者はやりたがらないけれど、実際の目的があったり、楽しかったりすると練習しますよ、ということだ。
 
 確かにご老人は、やりたくないことはやらない。(皆ではなく、そういう人もいるという意味だが)「小学校1年生が8月28日に夏休みの宿題をする」的な状況になることがある。周りがどう言おうが遅々として進まず、集中できず、でも本人はやらないといけないとも思っていて、さらにイライラし…てな感じだ。
 少々認知機能に問題があるご老人と接していると、日々自分が無意識にいろいろなことに対処していることに気付かされる。やりたくないことをやらないで先延ばしにするのは、割りと誰でもやってしまうが、小学校1年生のようにはならないだろう。一般的な大人は、やりたくないものでも「しょうがないな」と思ってやるのだ。それが大人なのだと思う。
 
 さて、私が思う「でもね」。明確なわかりやすい目的があることが重要。楽しいと学習が進むというのも一理ある。でもね、「つまんないかもしれないけど、この先必要があるから。やっておくと、あと楽になるから、だから、練習してね」というのもあっていい。そこをあんまり、手厚くケアするのも、どうかなと思う。
 大半の学習者は小学校1年生ではない。大人じゃなくて中学生でも「小学校1年生が8月28日に夏休みの宿題をする」状況には陥らない。誰でも、自分ではやりたくもないし、なんの意味があるかもわからないけれど、やんなきゃいけないからやる時があるのだ。そして、そういう能力は絶対に日常生活の上で必要なものだ。

 全てを盲目的に人に言われたことをやりなさい、ということではないが、なんでもかんでも楽しくなきゃなあ、と思う必要もないのでは。だって、大人なんだから…。横のご老人を見ながらそう思う。

2012年8月4日土曜日

Facebook-打卡と…

今日、卒業生数人と久しぶりに会って食事をした。その時に知った新しい中国語「打卡」。私が知っていた意味は「タイムカードを押す」。「打卡」と聞いて、「それって、タイムカードガッチャン!じゃないの?」と言ったら、学生たちに「それも同じ言葉ですけどね…」と笑われた。
Facebookで、「○○さんは、××さんと△△にいます」という機能があるが、それのことを中国語で「打卡」というそうだ。(日本語でなんというか知らなかったので、さっきスマホで見てみたら「チェックイン」。あ、そういえば、なんか見たことあるなあ。)
なぜ、そんな話題になったのかというと、学生の中の一人が最近彼女と別れた。その別れ話の中でFacebookが出てきたのだ。私にとっては「打卡」よりも衝撃的だったその学生の話。
彼女とちょっと気まずい状況になり、その後、ある時お姉さんから「あんた彼女と別れたの?」と聞かれた。本人はわかれたとは思っていなかったので「え?なんで?」と聞くと、「彼女のFacebookのステータスが「交際中」から「独身」に変わった」とのこと。あわてて、Facebookを確認。Facebookで彼女と別れたことを知った…というもの。
恐るべしFacebook!というのが今日の結論。

2012年7月24日火曜日

学生が語る台湾の「言語生活」

ずいぶん前のことになってしまったが、私が担当している授業の先学期の中間レポートで、各自の言語生活を書いてもらった。この意図としては、普段無意識に行なっている言語行動について、少し意識を持ってみてもらうという狙いがある。
「言語生活を書いてもらう」をもう少し説明すると、普段どんな人とどんな言葉で話しているかや、どんな状況でどんな言葉遣いをするか、また、言語を使っている時の気持ちなどである。日本語学習中であるので、学んでいる言語をどう使っているか、学習しているかということも関わってくる。
私自身、台湾に来るまでそのような意識はあまりなかったが(知る機会はあったにもかかわらず)、台湾は多言語社会である。公用的に使われている「國語(中国語)」以外にも、「台語(台湾語)」は私もごく日常的に触れる。その他「客家語」や、諸言語がある。テレビも、ほぼ吹き替えの日本と比べると、映画も音声がオリジナルで字幕つき、というのがかなりあるので、他の言語に触れる機会も多い。そんな生活の中での、学生一人一人の言語生活である。
このレポート、昨年も同じ授業で同じ課題で出してもらったが、読んでいて面白いと思うものも結構ある。メモの意味も含め、少しまとめ。

台湾語について
・怒った時に話す。あるいは、冗談とか。
・親切感、感情を表現しやすい。相手との距離感を縮める。
・台湾語ができない人。みんなに笑われて使うのをやめたという人がよくいる。(台湾語を使わない状況にあった人にとっては大学が大きな境目かも。)
・親が台湾語を話すなと言った。なぜなら台湾語を話すようになると、中国語が「台湾国語」になるから。
・先生と話すとき、台湾語だと失礼な感じがする。
・年配の人とは台湾語で話す。年配の人は若い人が台湾語を話すと喜ぶ。
・おじいちゃんが中文が話せるけど、そのおじいちゃんは、「台湾人が台湾語を話せなくて恥ずかしくないのか!」という。
・小さい頃おじいちゃんおばあちゃんに育てられてできた人(でもできなくなった人)、逆に大きくなってから使うようになった人、など、状況に違いがある。

その他
・相手の年齢によって話す言語を判断する。
・相手が言った言語に合わせる。
・客家語の家庭の人がいるが(今年は結構多い気がする)、話せる人も、聞くのはわかる人も、あまりできない人もいる。できない人は後悔している人もいる。

日本語
・TAは笑わないで親切に教えてくれる。
・感嘆詞「しんどいなあ」とか「うるさいなあ」とか日本語で言う。
・アメーバピグをやっている人が何人かいた。最初はpiggと書いてあったからわからなかったけど、検索したら出てきた。他の学校でもやっている人がいた。結構やってるのね。(NHKの、芸能人が職場体験する番組で多少の知識があった。よかった)

英語
・ネットのチャットで英語についていけなくて(相手の速度が早いのとネット上の用語がわからなかった)、相手にチャットの「コラム?」を閉じられた。そんな経験を何度かしたあと、英語のタイピングの練習をし、ネット用語をネットで調べ、話ができるようになった。




2012年7月16日月曜日

理科教育がなぜ盛り上がらない??

原発事故があって、私は理科教育が盛り上がると思っていた。英語では高校や中学の英語の復習本が売られているが、そういうものが理科の分野でも出るのではないか、出たら読みたいなと思っていた。でも、そんなことは起こらなかった。なぜなんだろう?(唯一「リケジョ」という言葉がでてきたぐらいか。)
 私は高校三年の時に「理科Ⅱ」の授業で、原子爆弾の原理を習った。当時、私の学校の「理科Ⅱ」の授業は、担当教師が好きなことをやっていて、同じ学年でもクラスが違えば全く違う内容を勉強していた。私のクラスの「理科Ⅱ」は、かなり不評で隣のクラスが化学の実験を楽しくしているのを見てうらやましいと言っていた人も多かった。でも、私はこの授業がとても好きだった。原子爆弾と、それよりも威力がはるかに大きい水素爆弾のメカニズムを式を書いて説明してくれた。なるほど、と思った。今、じゃあ説明してみて、と言われても私にはできないが(先生、すみません)、あの時学んだことは無駄ではないと思う。よくよく考えれば理解ができる、という経験ができたことが大きい。原発事故報道を見て、「難しい。理解ができない。」と思った人は多いと思うが、私はその高校の体験があるので「ある程度は理解できる教育を受けてきたはず」という思いがあった。高校までに勉強したことですべてが理解できるとも思わないが、勉強したことを土台にして何か資料を読んだりすれば、ある程度は理解できる、理解するためには自分で学ばなければと思った。
 いわゆる理系科目は、難しく敬遠されがちだ。少なくとも私はそんなに積極的に自分で学ぼうとは思わなかった。でも原発事故報道を見て、理科教育はこういうことを理解する基礎のために必要だったんだ、と実感した。そして、それこそ生活に密着し命に関わることが起きたので、理科教育の重要性が叫ばれるようになるのではないかと考えた。だから、理科教育が盛り上がると思っていたのだ。
 私がなんとなく嫌だなと思うのは、とかく理科的なこと(アバウトな書き方だが)だと、「わからない」と簡単に言ってしまえることだ。「そうだよね。難しいよね。」と言って調べもせず、知ろうともしない。そういう姿勢が多いように感じる。例えば、私が高校の頃世界史は必修ではなかったが、今の世の中で高校で習う程度の世界史知識について「知らないよね。わからないよね。」と大手を振って言えるだろうか。言える人もいるかもしれないが、理系科目の「知らないよね。わからないよね。」よりも、多くないと思う。どちらかと言えば、知らないことを勉強不足と思うほうが多いのではないだろうか。
 私が一番最初にこのこと-わからないと大手を振って言ってしまえる-を感じたのは、311の地震後に、Ustreamで原発事故関係の記者会見を見ていた時だ。保安院だったか東電だったかは忘れたが、技術者の人が説明をしていたように思う。その記者会見である記者が「小学3年生にわかるように説明してください」と、怒ったような口調で言った。それを聞いて私はハア???と、逆に怒りを感じた。怒りの内容は色々あるのだが、一番は自分の勉強不足を棚に上げて、相手に「説明しろ」と迫った態度である。こんな発言が通ってしまうのは何かおかしい。日本の義務教育は中学校まであるし、今は大部分の人が高校に行く時代である。学校教育の目的の一つは、オカミの言うことを効率的に理解してもらう基礎を作ることのはずだ。なぜ小学校3年生にわかるように説明しなければいけないのか理解に苦しむ。
今こんなことを書くのは、「ヒッグス粒子のニュースを聞いてウキウキしちゃった!」と笑顔で言ったAちゃんについ最近会ったからだ。Aちゃんは大学で物理専攻の、今だったら「リケジョ」と言われるであろう人だ。「あのニュース見てウキウキする人ってやっぱり少ないのかなあ」などと言いながら、ニュースを見て気になった部分を調べたことや、そこから発展して現在の物理学について知ったことを楽しそうに語ってくれた。その時に二人で意見があったのが、今は、情報は色々あるけれど、情報が多すぎて逆に知識がないとその情報に到達できない。だから、やはり基礎知識の学習はとても重要だということ。そして、Aちゃんに今回の原発事故や原発のメカニズムを理解するために参考になる本を選んでもらって買って帰ってきた。
Aちゃんいわく「放射線量の測定もねえ。ああやって測ってみんながネットにアップしてって…」と何か疑問があるような様子。何が疑問なのか今はさっぱりわからないが、わかるかなと思えるぐらいになれるよう、Aちゃんに選んでもらった本で勉強するつもりだ。

2012年7月15日日曜日

電子教科書にもチェックペン

今月の初めのことになるが、東京国際ブックフェア、電子書籍フェアに行って来た。久しぶりに展示会を見ようかなと思ったのと、電子書籍を見たいなと思ったからだ。新しい楽天の電子書籍リーダーを触ってみたり、電子書籍関連の新たなサービスを見たり、色々面白いことはあったのだが、一番驚いたのが標題の件。
 東京書籍の教科書の電子版があったので、高校の英語教科書を見せていただいた。音声があるのはもちろん、練習問題も種類が豊富に思った。自分で教科書にマーカーをひくこともできるのだが、その色や質感も私好みだった。自分でメモを書く部分は、何か他のでも見たことがあるが、別途メモ帳に書くようになっていて、本文の全体の表示とはいっしょに見られない。保存の問題だそうだ。なんとなくわかるが、過去、ノートを書くより教科書に書き込みを好んでしていた身としては、惜しいなという感じがする。
 その場で説明をしてくださった方がこんなこともできますよ、と言って紹介されたことが2つ。その1つがチェックペン機能。自分でマーカーをした部分が黒く隠れるようになっている。生徒や先生から要望を聞いたところ、この機能の要望が一番多かったそうだ。このチェックペン、私の思い違いでなければ、私が中学生の時に発売が始まったような覚えがある。それまでは、同じようなことを自分で、蛍光ペンと色つきの透明下敷きでやっている友人もいた。チェックペンが発売され、定期試験になると次々と買う友人が現れた。当時、この方式には反対する人もいた。それまでは、テストの前になると、自分で単語カードを作ったり、まとめノートを作ったりしていたのが、チェックペンの登場で、安易に線を引くだけの勉強法になってしまったからだ。自分でまとめることが勉強になるのに…というのが反対派の主な主張。私も実は反対派の一人で、あまりチェックペンは使っていなかった。(高校になってあまり思いいれがない教科では使った気もするが)それが今となっては、先生からも電子書籍にいれてほしいと要望されるほどのものになったとは、なんか面白いなあという感じ。電子書籍ともなれば、暗記用に単語帳を作るなど、それこそチェックペンよりも簡単にできそうなのに、慣れているものは捨てがたいということなのか。とてもアナログな勉強法のような気がするが、いつまで続くのか興味がある。
 もう1つ紹介されたのが、本文と背景色を変える機能。うろ覚えで間違えているかもしれないが、実際の教科書は見やすいように紙が真っ白ではなくアイボリーになっている。電子教科書でも、背景を白、アイボリーで選択できる。また、教科書では、白地に黒文字だが、電子教科書では、黒地に白文字も選択できる。どちらが見やすいかは好みにもよるそうだが、色彩の感覚に障害がある場合や、そうでなくても、黒地に白文字のほうが見やすいと感じる確率のほうが多いそうだ。「じゃあ、教室でパワーポイントを見せる場合でも、黒地に白文字のほうが見やすいと感じる生徒が多いだろうということですか」と聞いたら、そうだとのこと。これからは黒地にしてみようかなと思った。
 これもまったく知らなかったことなのだが、今は、法律で教科書は買わなければいけない。(そう言えば、高校のときに体育か何かの教科書をどうせ使わないから買いたくないと駄々をこねたら先生にだめだと言われた記憶がある。)電子教科書は法律上で教科書と認められていないので、電子教科書はあくまでも副教材という位置づけ。(価格は6000円台だったような…)売れる売れないということではなく、将来的に電子教科書が正式に認められてからでは遅いので、今から開発しているとのことだった。まずは電子教科書実験校とかで使われるということなのだろう。

2012年7月1日日曜日

【本】日本語雑記帳

日本語雑記帳 (岩波新書)
日本語雑記帳 (岩波新書)


少し前になってしまったが、田中章夫先生の「日本語雑記帳」を読んだ。まえがきの
「日本語論」というと、えてして、日本語の特徴とか、独自性とかいった面が強調されがちだが、本書では、そうした特殊性よりも、近現代の日本語に見られる現象と、それをめぐる人々の意識・意見に注目して、日本語論議・コトバ談義の姿を描写してみたい。
にあるように、様々な事例と、それに関係する言語意識が紹介されている。
読んでいて、何となくずっと疑問に思っていたことが解けたり、自分の言語意識を考えさせられたりした。4月、日本に帰っていた時に書店で購入し、移動する電車の中でよく読んでいたのだが、読んでいる間、電車の中なのに思わず笑ってしまったことも何度もあった。
 以下、面白かったところ、自分の思ったことのメモ。

○「ティーム」か「チーム」か
2010年の甲子園の高校野球の放送で、アナウンサーは「ティーム」、中高年の解説者や監督は、ほとんどが「チーム」。
わたしは自分でたぶん「チーム」と言っているように思うし、意識的にも「ティーム」はなんか言うのが恥ずかしい。自分の言葉遣いが中高年だと、いい加減自覚すべきなのだろう。

○おとっつぁん、おとうさん、おとうちゃん
私は、母のことは「おかあさん」、父のことは「おとうちゃん」と呼んでいた。私の姉もそうで、私たち姉妹は「友だちの前でおとうちゃんって言うのはちょっと恥ずかしいよね」とよく言っていた。友だち同士で両親のことを話題にする時には、「父」というのも堅苦しいし、「おとうちゃん」とは言いたくないしで「うちの父親が…」と言っていた。原因を察するに、父の言葉遣いが「お母さん」で、母の言葉遣いが「お父ちゃん」だったものが、子どもに伝わったのだろう。
母が母方の私の祖父をどう呼んでいたか、最近、母が少し混乱し、私の祖父を「お父ちゃん」と呼ぶことから、知った。本書によると、昭和の初期はまだ「おとうさん、おかあさん」より、「おとうちゃん、おかあちゃん」「とうちゃん、かあちゃん」等が優勢だったのだという。母の言い方は、これによると、時代の優勢的な言い方だったのだ。父はというと、祖母を「ママ」と読んでいたのを小さい頃耳にして驚いた記憶がある。これまた本書によると、昭和初期にモダンな家庭で使われるようになったということだ。父がこれを私の母に対して使わなかったのは、恐らく母が嫌がったからなのではないかと思うが、その時には一般化した「お母さん」を父が使うようになったのだと思う。

○敬語の使い方
サークルやメンバー間の敬語についての卒業論文の話があった。高校時代の下級生の方がストレートに進学し、浪人した上級生よりも、大学の同じサークルで「先輩」になってしまった。この場合、サークルのメンバーの前では、かつての上級生もかつての下級生に敬語を使うが、サークル外では高校時代の上下関係に戻る傾向が強いという結論だった、というものだ。実は、私も身近に似たような例を聞いたことがある。過去は「同級生」だったが、大学で先輩後輩になってしまったというものだ。この時もサークルのメンバーの前では後輩が先輩に敬語を使うが、みんなが以内ところでは以前に戻るということだった。しかし、以前同級生ならまだしも、上下逆転はかなり気まずいなあと私などは思ってしまう。
敬意表現が年齢によるのか、立場によるのか、というのでは、テレビドラマを見ていて思ったことがある。会社内でのことだが、以前の先輩が、部下になったというケースがわりとよく見られるが、そこでの言葉遣いだ。上記のサークル例と同じように、全体の前と、二人だけになったのとでは違うこともあった。実際のところはどうなんだろう?

○大丈夫
大丈夫のさきがけは「瀬戸の花嫁」の中の「愛があるから大丈夫なの」あたりらしいとあった。それが近年は、その用法を著しく拡大して
「事務室あいてるかい?」「まだダイジョウブです」、「ケイタイ持ってきた?」「ダイジョブです」など、「大丈夫」のオンパレードである。
私も、最近、こんなところで「大丈夫」を使うのかと思っていることがあったのを思い出した。前に書いた「そうなんですね」(「そうなんですね」というあいづち「そうなんですね」というあいつち その2)と同じように、店員さんの応対でなのだが、こちらが「すみません」というと「大丈夫です」という返事。こちらが「すみません」と言っておいてなんなのだが、この返事にも多少違和感を感じた。私が思う返事は「いえいえ…」のようなものだが、「大丈夫です」と言われると「迷惑かけられたけど、大丈夫です」という気がする。(「いえいえ…」の場合は、「迷惑かけられてないですよ」という感じ。)この「大丈夫です」も何回か聞いたことがある。
本書の例を読んで、「大丈夫です」に違和感を感じていた私だが、自分の用法も年上の人が聞いたら違和感を覚える使い方をしているのかも、とちょっと思った。

○漱石も「全然悪いです」と言っていた
以前、twitterで話題になっていたが、「全然」を否定ではなく使う用法について。明治・大正のころは否定にも肯定にも呼応していたとのことだ。
知らなかったのは、「とても」が、本来は否定の形で結ばれるものだった、ということ。まあ、現在の「非常に」の意味で使われるようになったのは明治の中頃とあるので、知らなくて当然かもしれないが。

全体として思ったのが、中に出てくる例が、古い文献あり、台灣の事例あり、はたまたテレビでアナウンサーが言っていたものもあり、とにかく、アンテナがはりめぐらされているなということ。私もこんな風にピピッと感じていたいものだ。

2012年6月10日日曜日

英語で読むかい―多読の一歩先―

もう2ヶ月ぐらいになるが、週1回、英語を読む勉強会に参加している。その名も「英語で読むかい」で、「かい」が「会」でないのは「英語で読むかい?」とひっかけた、お茶目な名前なのだと勝手に受け取っている。
 以前から英語多読をしていたのだが、少し行き詰まりを感じていた。楽しい小説の読書はできるのだが、少し固いものになると、まだまだ立ち行かないものも多い。自分で伸び悩みを感じていた時に、「英語で読むかい」のお知らせを受け取り、参加することにした。
 この勉強会、一人教師役の人がいて、それ以外の人が学習者。毎回人数に変動があるものの、全部で4、5人。時間は2時間ぐらい。最初は毎週違う記事を読んでいたが、今はかなりの長文を毎週少しずつ読んでいる。(今、読んでいるものについてはこちら。なんでこれを読んでいるかというのは、この勉強会の主催がそういうことに関心を持つNPOだから。)毎回、段落ごとに、参加者の一人が読んでわかったことを声に出す。翻訳に近いが、逐語訳をするのではなく、声に出すものも日本語として整ったものではなく、なので「声に出す」。よく、読んでいる時に、日本語に翻訳しないで、英語のまま頭で理解したほうがいいというが、それと翻訳の中間ぐらいの感じだ。
 私のこの勉強会での勉強方法。まず、読むものはプリンターで印刷。辞書引きを手軽にするために、読み物はネット上のものを利用しているが、メモも書きたいし、私は紙で読む方が好きなので印刷する。1回目は、全体を通して読む。わからない単語があれば印をつける。わかりにくいところは、文の区切りや、主語述語をマークしながら読むこともある。わからなくても、とりあえず読み進められるのは、多読のおかげか。次に、辞書を参照。ネットのweblioの拡張機能が便利なので主にそれを使用。ただ、それでもいまひとつわからないな、とか、たぶんこれはいわゆる決まった言い回しなのかも、と思ったときは、アルクの英辞郎で調べる。調べたものは、紙に書き込む。どうしてもわからないところは、?マークをつける。この状態で勉強会に臨む。
 勉強会に参加して、思ったこと。
1、一度でだめでも、二度目はわかるかも、という経験
一人で読んでいると、わからないとすぐあきらめてしまうが(別に読まなければいけないものはないので)、勉強会だと、それなりに、もう一踏ん張りしようとする。1回読んだだけではわからないが、2回読めばわかったり、頭をひねって考えるとわかった、という経験ができた。1回読んでわからなくても、あきらめなくていいんだ、と思った。とてもつまらないようで、でもすごく大事な経験。
2、苦手なところがどこかわかる
まず自分の英語力がどれぐらいなのか一応の把握ができる。一人で読んでいると、わかっているのか、わかっていないのかわからないことがあるが、この勉強会では教師役の人が教えてくれるので、「あ、やっぱりあっていたんだ」とか、解釈を間違えていたことがわかる。それを続けていくと、自分がよくつまづくところが見えてくる。私の場合は、見かけ簡単な英語が並んでいるのだが、意味がわからないようなところ。「given」もなんどか出てきて、そのたびにわからず、「あ、またか」と思った。関係代名詞がどこにかかっているかや、並列されているものが、どこからどこまでが並列なのか、なども苦手。
3、文法が気になる
当たり前のことだと思うが、「なんでそう理解できるのか」というのが文法。自分が教師役の人に質問しているのは、文法的なことが多い。なんとなく全体が言っていることがわかる、ではなく、「ちゃんとわかりたい」と思うと、文法が気になる。
4、いわゆる「フレーズ」の大切さ
よくある言い回しがわかると、文全体の構造が理解できるのだなというのが、本当によーーーくわかった。これが頭に入っているのといないのとでは、全然違う。学校で言っていたのってこういうことね、と納得。

私が学生に聞く「学んだ感があるか」「できるようになった感があるか」だが、ある。「読み方」がわかってきた気がする。「読み方」というのは、うまく言えないが、わからない時に、もうちょっとどこを頑張るか、どの単語に注意して見てみるかとか、もう一度辞書を引き直すとか、そういうところがわかってきた。他への応用が効いているか、もあるような気がする。
しばらくしたらまた行き詰まりを感じるかもしれないが、当分はこれでお勉強できるなと思っている。

2012年5月29日火曜日

電子教科書試作版の感想

友人から中国語電子教科書の試作版のアンケートに答えてほしいという依頼が来た。今日、実際に触ってみた感想。
 この電子教科書、修士論文の一貫として作成したもので、「コンテンツは事前に用意していたが、実際に電子版にしたのは2日ぐらいしかかけていませんので、そう思って評価してもらえると…」とのこと。単なるPDFにしたものと、電子教科書にしたものとの比較で、なかなか面白かった。
 PDF版の感想は、はっきり一言「紙のほうがいい」。図表等がメインならまだしも、文字が多いし、メモもしたいし、となるとあまり電子化されているメリットを感じない。荷物が少なくなることと、検索ができることぐらいだろうか。メモもできないことはないが、手書きの簡便さが勝ってしまうように思う。
 電子教科書版。まず、大きな利点は、最初の会話のダイアログの動画がそのページに組み込まれていて簡単に見ることができる。ページが見開きになっていて、片側に字幕なし、片側に字幕ありの動画が貼り付けられていた。それだけでもいいなと思った。本文の赤文字に触れるとその単語の訳が表示され、青文字に触れると文法解説が出てくる。単語は、自分でリストを作ることもできるらしい。
 練習問題もついていて、選択肢を選ぶものや、紙で書くのなら線でつなぐような問題をドラッグするようになっていた。目先の変わったものは単純に面白い。聴解練習も同じページで聞くことができて便利だ。
 この電子教科書、マックのフリーで電子書籍を作れるソフトで作成したとのことだったが、一番残念だったのが、本文に触れてその音声が出ないことだ。ページ全体に貼り付けることはできるのだが、文字一つ一つに貼り付けることはできないらしい。そのうちできるようになるとは思うが、早くできるようになってほしいものだ。
 作ろうかなと思う観点から見ると、つまらないことに多少の手間をかけないと、なんとなくつまらないものになってしまうかなと思った。例えば、カラーで写真や絵などを入れられるので、逆に、黒で文字ばかりだと見た目がつまらなく見える。写真やイラストなどの質も高くないと面白くないかもしれない。練習問題も「正誤」だけを知らせるのでなく、もうちょっとなんか言ってくれないかなと思ってしまう。パワーポイントに凝り過ぎたプレゼンテーションと同じような悩みを持つようになるかもしれない。
 2日でできたということだったが、日頃プリントを作っているのと同じような感覚で作れるようにならないかな、と思った。具体的にイメージしたのは、今担当しているクラスで作っている「読み物プリント」。素材の文章を用意し、難しそうな単語や文法項目に少し解説をつける。関係のある写真やイラストを少し載せる。作っているのはそんな簡単なものなのだが、それに、文章朗読の音声が入れられて、解説が文章末ではなく、それぞれの場所に入れられれば、便利だ。ほぼ総ルビにしているが、これも見たい時にみられる形になっているといいかも知れない。ただ、そんなものを作るのに、とても時間がかかるのでは、別に今の白黒プリントでいいと思ってしまう。
 基本的に電子書籍は面白そうだなと思っていたのだが、実際に触ってみて微妙な感じに思えた。

2012年5月27日日曜日

マイクロディベートをやった

「マイクロディベート」は、前にこのブログで書いた本の中で紹介されていたもの。実は今回は2回目で、結論から言うと、前回は失敗、今回は、まあよかったかな、と思えるクラス活動になった。

 前回やったときは、やっている間から、クラス中にいや~~な雰囲気が漂っていた。学生はなんとなく嫌な感じを抱きつつも、一所懸命やってくれていたように見えた。前回で、学生には申し訳ないが、みんながどこで嫌だと思うかもなんとなくわかったので、今回は前回の反省点を踏まえてやり方を少し変えてやってみた。
 この授業では、学年統一の自作プリント教材を使用しているのだが、前回のテーマは、その教材の中のある問題について。ある問題というのは、日本で実際に起こったできごとだが、「外国人お断り」を掲げている銭湯で、日本に帰化した人が銭湯に入浴を断られ、それが問題になったもの。ディベートの前にクラスで少し意見交換をした時に、銭湯のやりかたは「ひどい!最低!」という反対派と「しょうがないんじゃないかな」という擁護派がいたので、ディベートになるかなと思ってやってみた。まず、難しかったのが立論メモを書くところ。立論メモは、議論のポイントをあげて、それに対して賛成反対を書くのだが、これがなかなか難しい。メモの欄を埋めるのに一苦労していた。また、同じグループで、3回ディベートを繰り返すのだが、これが言う人は違うけれど、同じ話が3回も繰り返される感じで、飽きていたようだった。元々、あまり多様な論点が出ないようなテーマだったからかもしれないが。
 今回は、教材に議論のテーマが複数設定されていた。テーマは、以下についての是非を問うもの。
①小学校の英語教育必修化
②小学校の郷土言語教育必修化
③高校の第二外国語にベトナム語とインドネシア語を採用
④言語は教室(学校・塾)で勉強することが大切だという考え
⑤日本語学科の卒業資格にN1合格を採用
 教材の中に賛成と反対の理由をまとめるタスクがあったので、立論メモは今回は省略した。教材の中のタスクでは議論のポイントの設定はなかったが、前回、そこに時間をとられてしまったことの反省と、ポイントがなくてもそれなりにやってくれるのではないかという期待があった。
 ディベートの方法だが、同じテーマで3人で3回やるのはやめた。やったほうがいいとは思うのだが、どうしても学生は飽きてしまう。わりとみんなの論点が似通っていて、違った観点からの議論は期待できないから、しかたないかなと思う。実際、1回目をやったあとで、「このまま、前回みたいにやる?」と聞いたら、みんなから「えーーー」という声があがった。1回議論をしたら、テーマとメンバーを変えることにした。また、1回でメンバーもテーマも換えるので、2分の自由討論の時には、審判の人も話していいことにした。
 教室の中に3人ずつのグループを作った。27人でちょうど9グループができた。(遅刻してきた学生がいて、最初は26人しかおらず、審判なしのグループを作るか、と思っていた。うまく3人グループを作れないことがあると思うのだが、そういう時はどうしているのだろう?)3人の中でA、B、Cを決めてもらい、Aが賛成、Bが反対、Cが審判で、1つめのテーマを1ラウンド行った。1ラウンド終わった時点で、Cがその場に残り、AとBが席をずれる形式で、グループを変えた。A、B、Cの役割を変え、2つめのテーマで討論をした。授業時間は2時間なのだが、最初に賛成と反対の理由をまとめるタスクを行い、その後の討論でも移動が多かったので、全部で3つのテーマを終えた。
 些細なことなのだが、時間を私の携帯で測っていたが、前回と音を変え、ボリュームも最大にした。前回は、私が声をかけないと気づかない学生もいたが、今回は、携帯の音だけで、全体に聞こえるようになった。本当に些細なことだけれど、それでもなんとなく雰囲気的に違う気がした。
 全体を通して見て気づいたこと。立論は1分半、反駁は1分の時間があるのだが、どうしても時間があまってしまい、クラス全体がシーンとする。途中で、「理由の中心だけを言うのではなくて、例もあげてみて」と言ったら、少しはよくなったように思う。また、テーマによっても話しやすいものとそうでないものがあって、あまり時間があまらない時もある。
 普段は、話す活動の時に、みんなが立って教室の中を動きまわり相手を見つけて話す、という形式にしていることが多いのだが、そうすると、あまり話さない相手というのが出てくる。今回は、じっくり座って、1人と長く対するし、相手もランダムなのでまちまちだった。いつもはあまり話さない学生同士で盛り上がっているのが見られたのはよかった。また、話すのは苦手な学生は、ただ立っているだけで、積極的に相手を見つけようとせず、逃げていることもあるのだが、今回の場合は、絶対に話さなければいけない。それも時間が最大1分半与えられていると、かなりの長時間に思えるだろう。普段は逃げがちな学生も必死に頭をしぼって話していて、それもよかった。
 最後、時間が少しあったので、学生に「今日はどうだった?」と聞いた。嫌そうな顔をしていた学生も多数いたのだが、一人「面白かった!」と言ってくれた学生がいた。「でしょ!でしょ!」と言ったら、学生みんなに笑われたが、それで全体の雰囲気が、結論よかった、に傾いた。他の学生に聞いても「まあ、よかった」という答えになった。嫌だったところとして、「時間が長い」「面倒」という声があった。時間が長いというのは、立論1分半の時間のことなのだが、最初にやるときは、1分ぐらいでもいいかもしれないと思う。
 一つ難しいと思ったのが、学生がどんな話をしているのか、全体を見ているとなかなかわからない。話の展開のさせ方を聞いてみたいと思うと、1つのグループにい続けなければならないが、うまくいっていないところに声をかけようと思ったりしているとそれができない。1回、録音させてもらいたいな、とも思った。

2012年5月23日水曜日

急ぎの仕事は一番忙しい人に頼むといい

日経Bizアカデミーの記事-「忙しい」という人は頭の回転が悪くなる-を読んで思い出したこと。
(途中まで書いてその後忘れていたので、ちょっと古いが…)

以前、仕事でご一緒した方から教わったことがある。それがタイトルの「急ぎの仕事は一番忙しい人に頼むといい」だ。その方も「~と言われているんですよ」と教えてくださったので、そんなの常識と思う人もいるだろう。私はそんなこと考えたこともなかったので、最初聞いたときはえ?と思ったが、説明を聞いて納得した。
本当に忙しい人は、あとになっても時間ができるわけではないから、「ちょっと後にしよう」というわけにはいかない。だから、今忙しい中でもなんとか時間を作り出して、その頼まれた仕事をする。途中で入ってきた仕事だから、それまであったスケジュールになるべく影響が出ないように、さっさと頼まれた仕事を片づけ、自分のそれまでの仕事に戻る。だから、早くその急ぎの仕事をしてくれるというわけだ。とても納得した。
私はその話を聞いて以来「忙しい」と口にするのをためらうようになった。急ぎの仕事をさっさと片付けなければならないほど忙しかったことなどなかったからだ。忙しいと思いながら、実は全く忙しくなかったことに、その時改めて気がついた。
「後回し」は時間の無駄だと、本当に思う。たとえ忙しくても、いや忙しかったらなおさら、後回しにしていいことなどない。これもよく言われていることだが、「後回し」にすると思い出すのに時間がかかり、余計に時間を取られる。今すぐできることは、今すぐ片付けよう。ま、そんな生活をすると息が詰まることもあるので、たまには後回しにしても、それを「忙しいから」とは言うまい。

2012年5月7日月曜日

ネットでの交流-歌の製作者と翻訳者

現代は、こうやって交流することがあるんだ…と思った学生の例。
 先日、前に教えていた学生からメールが来た。好きな日本の歌の歌詞の翻訳を作ったから見てほしいとのこと。そのメールには、翻訳の文章はついておらず、「見ますよ」と返事をしたら、再びメールが来た。 メールには、日本語の元の歌詞と翻訳の歌詞が掲載されている学生のブログのURL、元の歌のビデオがあるYouTubeのURL、それに、歌の作者とのやりとりが記録されたURLが書いてあった。
 正直、色々な意味でかなり驚いた。
 まず、全てURLで送られてきたことに、単純に驚いた。作者とのやりとりは、Plurk pasteというものを使って記録されていて、そのURLだった。Plurkは、台湾では多く使われているtwitterのようなものであるが、それに何か長めの文章のリンクを貼る用途としてあるらしい。こんなものの存在も知らなかった。メールにだらだら引用されるよりも見やすくていいなと思った。
 前に教えていた学生、というのは、先学期、第二外国語のクラスを受講していた学生で、そのクラスは動詞の「て形」から始まり、動詞の○○形を学習し始めるレベル。歌詞の翻訳をするには相当難しいと思うのだが、それに挑戦したということにもびっくり。また、その歌のビデオも見たが(ちなみにこちら→コノナカ)、なかなか難解である。メールには、色々な友だちの助けを借りたと書いてあったが、やってみようと思うところがすごいと思う。
 一番驚いたのが作者とのやりとり。何より、聞いてみようと思うところがびっくり。私に送られてきたのは、歌詞の解釈に関するところのみなので、どういう経緯で作者と連絡をとるようになったのかはわからないが、こういうことできちゃうんだなあ、と思った。以前、何か日本の学校の取組みで、著作権の問題をクリアするために、学生が直接本人と連絡を取りOKをもらった、というようなのを読んだことがあるが、それと似ている。
 歌詞の解釈に関するやり取りだが、言葉の意味を説明するというのは、かなり高度な技術だと思う。それを、日本語と英語を交えて、相手に伝え、返事をもらっている。私が読んだところ、言い方に間違いなどはあるにはあるが、充分言いたいことはわかる内容だった。作者の側も英語を交え、わかりやすい解説だった。
 面白いと思ったのが、学生が作者への質問の最後に「お順調に」という挨拶を書いていたこと。そしてそれを相手も同じように使って返していたこと。「お順調に」は、中国語の翻訳的な感じがするが、なんとなく、言いたいことはわかるし、響き的にもいいな、と思う。作者もそう思って使ったのかどうかはわからないが、最後に「お順調に」と書かれていた。こうやって新しい表現が使われていくのも面白い。

2012年4月27日金曜日

インカ帝国とプロメテウスの罠

タイトルの2つは、今月初めに日本へ行った時に出会ったもの。「インカ帝国」は、国立博物館での「インカ帝国展」。「プロメテウスの罠」は、朝日新聞の連載が書籍化されたものだ。この全く関係のない2つなのだが、私は、この2つを見て、「時代は変わらないんだなあ」とつくづく感じた。(そんなこと当たり前、今さら何言ってるの、と思う人もいると思うが。)2つについての感想。
 まず、インカ帝国展。恥ずかしながら、私はインカ帝国についてほとんど知らず「かつて栄えた黄金ザクザクの夢の国」ぐらいにしか思っていなかった。友人にそのことを話したら「へ?」という顔をされたので、なぜそんな風に思っていたのか考えたところ、たぶん原因は山本鈴美香のマンガ「7つのエルドラド」。その中に、インカ帝国の黄金に通じるなんたら…みたいなのがあって、そのイメージをずっと持ち続けていたようだ。インカ帝国展を見たら、なんのことはない、スペインに征服されるまでは、インカ帝国が他の領地を征服しながら大きくなっていったのだ。その地域にある資源がほしいからそこを征服し、征服するとそこの住民を労働力として他の場所に配置し、物資の輸送をするために道を整備し…、なんて、どこぞで見たような話だ。さらに、スペインに征服されてからも、インカ帝国時代の王様たちは、一般住民と比べていい待遇を受け…なんというのも、なんか他でもあったような話。
 そして「プロメテウスの罠」。本の副題は「明かされなかった福島原発事故の真実」。読んだ最初の印象は「これは、本当に現代のことなのか」だった。第一章「防護服の男」は、放射線量が高いにもかかわらず、口止めされて住民に知らされなかった、というものだ。ガスマスクをつけた「白い防護服の男」が二人来て「放射性物質が拡散しているから危ないから逃げてくれ」という。しかし、政府からは 「直ちに影響を及ぼすものではない」的な発言が繰り返される。住民はどうしたらいいか戸惑う。その他にも、放射線量が高いのを知っていたが言えなかった、という話を後になって聞かされた、という話が出てくる。その後の章にも、放射線量を測るだけ測って住民には何も知らせない、知らせろと言っても教えられないと言われるという話がある。
 これを書きながら思い出したことが一つある。震災直後のAERAの表紙が騒ぎになった件だ。結構話題になったので私もネットで見たのだと思うが、防護服に防毒マスクをつけた人の顔がアップになったものだった。あの時、「恐怖心を煽るのはよくない」とか、「そこまでして売りたいか」のような批判が多かったが、あれはあれで報道としてはよかったのではないかと「プロメテウスの罠」を読んだ後では思う。たぶんあの時、あれを見てショックを受けるぐらいのことが実際に起こっていたようなのだから。
 一般的に「政府を信用しています」という人は少ないとは思うが、本の中にもあった「本当に危険なら町や警察から連絡があるはずだ。様子をみよう」ぐらいの気持ちは私にもあった。政府がやることなんて嘘もあるだろうとは思っているが、でも、ある程度信用している部分はある。それが、「こういうことも知らされないのか」というのはかなりの衝撃だった。甘いと言われればそうかも知れないが、私はそうだった。
 第二次世界大戦中、悪いことは報道されなかった、というのは、よく聞く話だ。そうなんだと思う。軍や政府関係者は、日本が敗戦することはわかっていて、それとなく家族に伝えていた、なんてことも聞く。そして、それを聞きながら、「昔の日本の態勢はそうなんだ。戦時中の人は気の毒だ。みんなが勝つと信じこまされていて」と思っていた。何のことはない、同じではないか。
 基本的に「国」がやることは変わらないのだ。歴史を学ぶのは今の「国」が何をしているかを知るためなのかもしれない。


2012年4月8日日曜日

おしゃれのためなら鼻水も恐くない-台湾のことわざ

前に書いた(前の記事は→こちらこちら)、wwofで日本にいるAさんから教えてもらった台湾語のことわざ。
愛水不怕流鼻水 
(私が聞き取った感じだと、台湾語の発音は→アイ スイ ンギャー ラオ ピー ツイ)
 なぜこのことわざの話になったか。
 同じウーファーのドイツ人と「なんで日本の女の子はみんな短いスカートなの?」という話になったそうだ。はっきりとは言わなかったが、短いスカートが似合わない人もいるのに…と思っている感じ。
Aさん「なんでですか?」
私「なんで、は、ない。それが流行っているから。」
Aさん「冬は、寒くないんですか?」
私「寒いらしいよ。でも、我慢してるんだって。」
私は、本当に寒くないのか聞いたことがある。「寒いです」と断言していた。若くてもやはり寒いのだ。まあ、後期高齢者の私の母も「おしゃれは我慢」と言っていたから、寒いのぐらい我慢しないとおしゃれはできないのだろう。
Aさん「それって、台湾語ではこう言います。」
と言って教えてくれたのが、上に書いたことわざだ。「愛水」の「愛」は「好き」、「水」は「きれいなこと」。「水」は意味とは関係なく、発音からの当て字。「不怕」は「恐くない」。「流鼻水」は字のまま「鼻水を流す」、日本語だと「鼻水が垂れる」だろうか。

 Aさんがことわざを漢字で書いてくれたのだが「間違えてるかも知れないから、ネットで検索してください」と言われたので、検索してみた。検索トップに出てきたのが「愛水不怕流鼻水-日本妹」(「妹」は「女の子」の意味)というYouTube動画だったのがおかしかった。でも、台湾語にこのことわざがあるということは、台湾語の社会でも寒さを我慢しておしゃれする人がかなりいるということだろう。

ウーファーの教訓「考えないで聞いたほうがいい」

wwof(ウーフ)で日本に滞在しているAさんの話から(wwof(ウーフ)については前の記事参照)。Aさんの現在の滞在先は、ガーデンレストランで一番多い仕事は、「まきわり」。(このガーデンレストランは、英国風建物で、中に暖炉があり、それに使うまきわりをしている。)ホストは、仕事以外ではやさしいけれど、仕事では結構厳しくよく叱られる。同じ顔をしているのに、オンとオフでは態度が違うのにかなり面食らったようだ。そして、何で叱られるか、というのもよくわからないらしい。

ある時、Aさんがレストランのガラスのコップを割ってしまった。「どうしよう…。叱られる…。」ガラスが割れる「カチャン」という音を聞いて、
Aさん「私の心も割れました。」
ホストは忙しくしているので、話しかけられる状況ではない。言わなきゃ言わなきゃと思いながら、ずっと心配していた。同じウーファーのドイツ人は「心配ない。大丈夫」と言っていたけれど、気が気ではなかった。ホストが手が空いたのを見て、コップを割ってしまったことを報告。「そういうことは今までにも何度もあったし、ミスは誰にでもあることだから」と、心配したわりにあっけなく終わった。

別の日。これはAさんではなく、同じウーファーの台湾人がしたこと。ホストからまかないのご飯を作ってほしいと言われた。五合炊きの炊飯器があったが、全員が食べるには足りないかなと思い、8カップのお米を投入。結果、ご飯は硬くて食べられたものではない。ホストに叱られた。
Aさん「ホストさんはずっと日本語で『信じられない』『信じられない』って言ってました。」

 ホストは叱る時の始まりは必ず「エクスキューズミー」。これを聞くと、Aさんは、「あ、叱られる」と思うそうだ。そして、「信じられない」もよく聞くらしい。いやあ、ホストも大変なんだろうなと、聞いた私は笑ってしまった。しかし、次のAさんの言ったことにびっくりした。
Aさん「ここからの教訓。言われてないことをするときは、自分で考えないで全部聞いたほうがいい。」
えー!!そう??五合炊きの炊飯器に8カップお米を入れちゃうのは私にも「信じられない」。なんかこれって、「言われたことしかできない」とか、「指示待ちで考えない」とか、「考えないで何でも聞いてくる」とか、っていうのを連想させるなあ、とふと思った。

Aさんは、ウーファーのドイツ人から呆れられるほどの心配性。前のコップを割ってしまった時も、ドイツ人に言われたそうだ。
I've already told you thousand times. Don't worry. They won't be angry. 
英語が苦手だというAさんがドイツ人から言われたままの英語を繰り返してくれた。この言葉、本当に何度も言われているのだろう。笑ってしまった。
私「うーん。何で叱られるのか、基準がわかんないんでしょ?」
Aさん「そうなんです。」
わかるような気がした。私には、コップの件では叱らず、炊飯器の件では叱るという感覚は理解できる。もし私が同じ立場なら、私も同じようにしたと思う。でも、「え?あれはよくて、これはだめなの? ???」という感覚は、私が仕事をしていた時にもある。何か共有するルールが、違う/ずれている。その共有するルールがわからないと、自分の頭では考えることができない。考えることができるのは、目に見えないルールが何となくわかっているからだ。
 Aさんは、1か月ごとに滞在先ホストを変える予定だ。今滞在しているところは1つめのホスト先。今後、ホストが変われば、また違う叱られ方をするかも知れない。悩みが更に増えるんだろうな。

2012年4月7日土曜日

WWOF(ウーフ)

2月に卒業生のAさんさんからメールをもらった。「wwoofってどう思いますか?」と書かれていたのだが、「wwoof」がなんだかもわからなかったので、どう思うかも答えようがない。その時はそんなものがあるのか…と思ってそのままにしていたら、1か月後、Aさんから「wwoofで、日本へ行ってきます!」というメールをもらった。3月の終わりから3ヶ月の予定で日本に滞在している。先週、数日日本に帰ったので、Aさんに会ってきた。
 wwoofは、日本ではあまり知られていないようだが(Aさんいわく、「日本の友だちに話したら誰も知らなかった」)、台湾では結構流行っているらしい。wwoofジャパンの説明には「『食事・宿泊場所』と『力』を交換するしくみです」と書いてある。要は、働く代わりに、ただで宿泊させてもらい、食事も提供してもらうということらしい。Aさんの滞在先には、Aさんの他に2人のウーファー(wwoofの制度で働いている人)がいる。1人はドイツ人で、もう1人は台湾人。Aさんは観光ビザで滞在しているが、ワーキングホリデービザで滞在する人や、国によっては、その他にも滞在できるビザがあるらしい。
 Aさんと同じところで働いているウーファーの2人はどちらも20代。Aさんは日本語ができるが、他の2人は日本語はできないので、ホストとは英語でコミュニケーションをとっている。
「先生、日本に来たのに英語を話しているほうが多いんだ。」
と、語学留学した人と同じような思いをしている。Aさんは英語が苦手でホストとも日本語。ホストは3人への指示を最初英語で話し、その後Aさん向けにもう一度日本語で話してくれる。ドイツ人のウーファーは1年間の滞在予定で、もうすでに結構長く日本に滞在している。そのドイツ人が話す、日本観やアジア観が面白いと言っていた。
 日本で日本人がウーファーになることもあるらしい。今話題の大学秋入学が始まり、高校卒業と大学入学の間にこの制度を利用する、というのも面白いかも、と思った。
 Aさんからはいろいろ面白い話を聞けた。詳細は次回。

2012年4月6日金曜日

「好人」の意味 [中国語]

教科書の形容詞が初めて出てくる課で「○○さんはいい人です」という例文があった。その文を読むと、なんとなくクラスが微妙な雰囲気。???日本語でも「いい人」は褒め言葉に聞こえない使い方をすることもあるので、何かあるのかな、と思って、学生に聞いてみた。
「いい人ってどんな人?」
すると、学生一同大笑い。??? でも、意味は教えてくれない。
「いい人は、いい意味ではないことがあるんだよね。」
また笑い。
どんな意味かしつこく聞いたら、学生が教えてくれた。
「被拒絶」
え?拒絶された人?
「告白被拒絶」
ああ、告白して拒絶された(ふられた)ってことか…。
男性にも女性にも使えるのか聞いたら、男性だけだとのこと。
「いい人いい人どうでもいい人」という言い方が、かつてあったと記憶しているが、似ているような気がする。

2012年3月21日水曜日

レポートのコピペを見つける

非常勤をしている大学からのメールで、Turnitinの使い方の説明会があるというお知らせ。コピペを見つけるソフトがあることは知っていたが、詳しくは知らず、Turnitinを調べてみたら、30以上の言語で利用できるらしい。今回のメールは、このTurnitinを勤務先の大学が購入し、登録の申請をすれば使用できるというお知らせも含まれていた。そういう風になってきたか、と思ったのと、私が授業担当しているもう一つの大学でも、是非導入してもらいたい、と思った。
というのも、もうひとつの大学の先学期の担当授業では中国語可のレポートを課題に出したのだが、中国語のレポートでコピペされたものを見つけてしまった。コピペで提出するようなレポートを課すほうが頭がない、と言われそうだが、私としてはコピペができないようなレポート課題にしたつもりではある。そうしたからかはわからないが、レポートを読みながら、「なんかこれ課題とづれてるな」と思ったことと、少し専門的すぎる内容だったことから、「もしかして…」と思ってグーグルで検索してみると、そのままの文章が出てきたのだ。そして、「はあ、面倒なことになった…」とも思った。(結局見つけたコピペレポートは110ぐらいのレポートから2つ)

コピペと同じような感じでネットを使って困るのが、自動翻訳だ。作文の授業などではよく見かける。自動翻訳は、使えるものなら使ってもらいたいが、現在、あまり実用的な自動翻訳には出会ったことがない。(無料で使えるものしか知らないので、有料で使えるものについては知らないが。)この自動翻訳された文章は、ある程度勘が働いて、「これは自動翻訳だな」と思うとそのことを学生に伝え、そのまま返却することにしている。(普通なら添削して返却)
 また、作文でもコピペがあるが、これもかなりの部分で勘が働いている(と自分では思っている。)私は基本的には、自分の書きたいものと似ているものをネットで探し、参考にできるものは参考にすることは、推奨している。学生には、①文章をまるごとコピーして提出することは許されない。②文をまるごとコピーするのも基本的にはだめ。③自分が意味と、ある程度の文法構造も理解したうえで、自分が言いたかったことを言っている表現に出会ったら使う。というように話している。それでも、まるごとコピペしたり、前後のつながりを考えないで一部分コピペして提出される作文がある。まるごとコピペの場合は、コピペ元を探し出し、そのことを学生に伝え、再度提出してもらっている。一部コピペの場合、コピペされた部分と文章全体でつながらない部分を指摘し、書きなおしてもらう。

長々と日本語の場合を書いたのだが、私が中国語のレポートでコピペを見つけて面倒だと思ったのは、まず私には日本語でコピペや自動翻訳を見つけるような勘が中国語の場合働かないことだ。私は中国語ではだいたいの意味は取れるが、ニュアンスはわからないし、文体が違う、というのもよくわからない。例えば、文章の途中であきらかに文体が違っていたとしても、そんなことには気がつかないと思う。日本語で書かれているものを見ている場合は、意味を考え、文体を見極め…ということを同時に行うことができるのだが、中国語の場合は、意味を取ることで精一杯で、「もしかしてコピペ?」と思った時点で、また一からレポートを見なおさなければならない。先に書いたレポートだが、100名以上から提出されるレポートを見るだけでも大変なのに、コピペも見つけなければと思うと、どれだけ時間がかかるかわからないし、ましてや時間をかけても自分に見つけられるかどうかわからない。そんな自信はない。じゃあ、今回のように見つけてしまったものだけ気にすればいいではないか、と思うが、それは、なんだかなあ、と思う。コピペ禁止なら、そのことを提出前にはっきり告げるべきだし(以前Twitter上で議論を見たことがあるが、コピペが悪いと思わない人もいるので)、告げた以上はこちらもしかるべく対処するべきだと思うからだ。
Turnitinがどんなものかはわからないが、もしこれである程度見つけられるのであれば、そのソフトにレポートをかけてみる、ぐらいの手間はかけてもいいと思う。なので、もう一つの学校も導入してほしいなあ、というのが今の思いだ。 (実はもう導入されいたりして…とも思わなくもないので、今度聞いてみようと思う。)

2012年3月16日金曜日

Strategic Interactionをやってみた

前に、「ヒューマンな英語授業がしたい!」の本の中でやってみたいこととして書いていたStrategic Interactionを授業でやってみた。結果、わりと面白いと思ったし、学生も楽しくやっていたようだった。終わった後で聞いてみたら学生にも好評だった。「結構大変だった」とも言っていたが、またやりたいなと思う。 授業では上記の本に従い、簡単なものから始め、最後にロールプレイまで持っていった。導入の部分では「こんな時どうする?」という簡単な会話をやったが、こちらのほうが難しかった、というより、学生が何をしていいか困っていた感じだった。ここは、また次回に向けて、どう改良していくか要検討。
 面白かったのは、ロールプレイ。クラス人数が30人ほどだったので、4人か5人で1グループ、全部で6グループできた。選んだロールプレイは、役割Aが「期末テストが近いが、Bさんの誕生日なので内緒でお祝いをするのにBさんを呼び出す」、役割Bが「期末テストが近くて勉強したいが、友だちのAさんが電話をしてきて会おうと言っている。Aさんは会えば話が長くなってしまうが、Aさんを傷つけたくはない」というもの。これを選んだのは、サプライズの誕生日パーティーをするというのは、学生たちでよく聞くことだったので、設定が身近で考えやすいだろうと思ったからだ。
 ロールカードを一人1枚配り、まずはグループで相談。事前に配布してあったプリントには「相手が何を言うかわからないから、いくつか予測して計画すること」と書いておいたのだが、あまり理解されていないようだったので「プランA、プランB、プランCぐらい考えて!」と言った。あるグループは、本当に「プランA」という言葉が、自分たちが準備した紙にそのまま書いてあって、笑ってしまった。でも、この言い方はわかりやすくてよかったかもしれない。
 グループだが、時間の節約のためにその場で私が座席でグループ分けをした。自由に座って近くにいるので仲がいい人が基本だが、いつもはあまり接触がない人も同じグループになっていた。少し心配したが、それはまあ大学生、上手に相談してくれていた。代表者を決めるのも、いわゆる会話がうまい人に任せてしまうかなとも思ったが、そうではなく、じゃんけんで決めているところがほとんど。結果、クラスの中で普段話せると思われている学生が代表にはならなかった。
 代表者が話せる人ではない、というのも結果的にはとてもよかったようだ。代表者が話すというより、周りが考えて指示する、というグループが多く、会話としては滑らかさはないが、全員が参加して考えるという意味では、よかった。
 6グループあったので3つのロールプレイがあったわけだが、それぞれ展開が全く違い、それも面白かった。1つはあっけなく終了して「え?これで終わり?」と驚く場面も。1つはもめにもめ、まとまりそうになかったので、時間もないことだし、こちらが終了させた。あっけなく終了したグループは、暇だったのか、私は何も言わなかったのだが、自分たちで勝手に第2回目を初めていた。
 最後に、クラスでどんな展開だったのかを話してもらった。役割Aのアイデアだが、あっけなく終わったグループは「いっしょに勉強しない?」と言って誘い、別のグループは「交通事故で…」と言ったのでそれは大変だからということでOK。もめにもめたグループは、最初「勉強を見てほしい」と言って誘い出そうとしたそうだ。
 楽しかったので、またやってみたいと思う。時間があいたらではなく、計画的に考えなければ…。

2012年3月5日月曜日

いい文章-書き出し-

何回か書いている「いい文章」について。
 先日、作文の授業で「書き出し」について話をすることがあった。配布資料の中に「書き出し」という単語があり、学生が「書き出し」の意味がわからなかったことがきっかけ。単語の意味を説明したら、それ自体は難しくないと思ったのだが、腑に落ちないという顔の学生多数。「本の本文の前に書いてあるもののことか」とか「作者の説明か」とか、質問が出る。「じゃなくて、本当に文章の一番最初のことだよ」と言っても、まだ???の顔。
 こちらも段々不安になってくる。「え?なんか有名な小説の一番最初で、みんなが覚えているようなものない?」と聞いたら、別の授業の日本の近代文学を履修している学生が「『吾輩は猫である』みたいなものですか?」と言ってくれた。別の学生からは「三国志の最初は漢詩になっていますが、それも含まれますか」と質問があった。
 この二人の学生に助けられ、なんとなく他の学生も意味がわかってきた様子。たぶん名前ぐらいは聞いたことがあるだろうと思って、「『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』も有名だし…」といくつか例を出す。
 結論。学生たちには「書き出し」がどうのこうのという感覚はなかった。なるほど、そうなのか。「書き出し」や「冒頭」が重要だと思うのも、ある種の「いい文章」文化差なんだと気づいた。
 もしかして、と思って
「文章書く時に、書き出しで困ったことない?」と聞いたら、これも
「ない」(はあ、なんでそんなところで困るんですか…という顔に見えた)
とのこと。小学校の作文で「書き出し」が書けない子、という話があると思うが、これも「書き出しが重要」というところから来ているプレッシャーなのかも知れない。別にどうでもいいと思えば、何でもいいから書き始めるのだろう。面白い。

【関連記事】
いい文章-自分の価値観
○ ピア・レスポンスをやってみようかな…という気になった!

2012年2月22日水曜日

いい文章とは?で出てきたこと

かねがね聞いてみたいと思っていた「いい文章」感について、作文のクラスで学生に聞いてみた。
いきなりどんな文章がいい文章か、と言われても学生は答えに窮していたので、まずは、今まで学校で作文教育を受けて、どんなことを言われてきたか、を聞いた。

○内容がある
一番最初に出てきたのがこれだったので、私にとってはかなり???だったが、わりとこう言われたことがあるという学生が多かった。
「内容がないって何?」と聞いたら、例えば日記だという。ただ事実をずらずら書いたものはいけないということだろう。そう言われたみると、自分もそんなことを言われたことがある気がする。

○深い内容
上の「内容がある」と似たことであるが、小学校、中学校と上がるにつれて「深い内容」を書くことが求められる。事実を書くことから、思ったこと、抽象的な論説文、と「深い内容」になる。

○四字熟語がある。
○有名な人の言葉の引用がある。
四字熟語みたいなことは言われてそうだなあと思っていたが、有名な人の…というのは、はあそうなんだ、と思った。

○無駄な言葉を並べない。
これは、例えば2000字以上なんていう課題の字数を満たすためにただ埋めるのはだめ、ということ。
○順序的。論理的。
なんて言うんだろう、順序だてて筋道が通るように書くということだろう。

○テーマと関係があることを書く
これはあたり前なんだけれど、なかなか難しい。

○大事なことを違う言い方で何度も書く
確かに、これは具体的でわかりやすい指導だなと思った。

○段落に分ける
○わかりやすい
「わかりやすい」というのが何なのかが難しい。実はこれの前にある学生が「学校ではなくて、ある作家が言っていたことなんですが『直接言わない』のがいい文章だと言っていました。」という発言があった。その後で、「わかりやすい」というのが出てきて、妙に面白いなあと思った。

○起承転結(中国語では「起承転合」と言うらしい)

今学期は、意見文をいくつか書いてもらって、ピア・レスポンスを行い、推敲していくという活動をすることにしている。その中でどんな文章がいい文章なのかをみんなで話し合っていきたいと考えている。実際、1学期は私が作文を見ていただけだったので、どうしてもいわゆる文法的な指摘に終始していた。そこから少し脱却したいと思っていて、今日はまずはその一歩。



2012年1月27日金曜日

聴解自律学習サポート5 期末報告から

学期末、元々テストをすると言っていたのだが、個人的にも色々あって、とてもそんな状態ではなくなってしまった。学生には申し訳ないがテストは行わず、学期末に聴解練習についての報告を行なってもらうことで、とりあえずの区切りをつけた。同じような聴解学習を行なっているK先生のクラスでは、学生にテストか報告かの希望を聞いたところ、2名がテストを希望したとのことだった。(クラスの規模はほぼ同じであるので、30名ぐらいの中からの2名だろう)どんな感じであったのか、今度お会いした時に聞いてみたいと思う。
中間試験後から始めた聴解自律学習サポートであるが、なかなか学生が始められなかったこともあり、実質1ヶ月少しぐらいだったと思う。途中、私自身もあまりサポートできなかったが、中間報告や期末報告を見ていて、学生がどこで迷ったりつまづいたりするかがわかってきた。ある程度予測可能であるし(ああ、そういうところって困るよね、わかるわかるという感じ)、全体にあてはまることでもあるので、対処法など準備できることは準備しておいて、学生に配布できるようにしたい。
以下、期末報告を見て気づいたことをまとめておく。(期末報告はほとんどの学生が中文で書いていたので、下は学生が書いた内容を私が理解し、まとめたもの。)

○計画通りにいかない。(期末試験が近づくと…と書いている学生多数)Facebookに時間を取られているという正直な反省も。
無理な計画はだいぶ現実的なものになっていったが、それでも「怠けて」やっていない、と書いている学生は多い。あまりストレスが出ないような方法、例えば、一応週に何回と決めるが、それとは別にトータル目標を設定してやったぶんだけうれしさを感じるような目標があってもよいと思う。私自身、定期的にやるのは苦手だが、多読の100万語はそういうストレスがなかったのでよかった。(twitterの@HAL_J さんのにも1000時間という目標が書いてあったような…。)

○単語を調べることで学習感がある。
「学習している感」があるかどうかを聞いたのだが、わからない単語を調べて新しい単語を知って「学習している感」がある、という学生が何人か。聴解自体で感じられるようにしたいのだが、それにはどうすればよいのか。(まあ、そうでなくてもいいのかもしれないけれど)

○「エリンが挑戦!日本語できます」
話す速度が速いという声が何人か。生リソースは自分には早い、教材だけれど教科書っぽくないものを学習したいという学生が聞いているのだと思うが、これでちょっと速いぐらいの感じで慣れてもらうのがよいのだろうか…。

○ドラマを聞いた学生

ドラマを見ている学生で、このまま次学期も続けたいという学生。順調ということだろう。これは少数派。ドラマをやっていて、難しいから教材に戻ってやりたい、という学生も。

○字幕を見てしまう…

わからないところを調べている人がいたが、わからないところを字幕を見てしまうと否定的に書いている学生がいた。私自身は、何度か聞いてわからないものは見ちゃったほうがいいと思う。何度聞いてもわからないものは、わかりようがないのだから。元々、聞いてわからない単語や言い回しを聞いて辞書で調べるのは高度な技だということを知らせたほうがいいかも。

○学習方法に迷う
中間報告でも似たようなことを書いていた学生。かなりできる学生なのだが、一歩越えた段階で、再び迷う時期なのだろう。(聴解のことではなく学習全般に対する悩みが書いてあった。自分は何を重視してやるべきなのか。)

○教師主導がいいなあ…
「テストがないと聞いてやらなくなった」「テストがないと面倒でやらない」「先生が宿題を設定してそれに沿ってやりたい」
こういう声にどう応えていくか…。

○「DVD教材 日本語でシャドーイング」
これを使っている学生が一人。以前、「何すればいいかわからない」と言っていて教材を薦めた学生だが(聴解自律学習サポート2 練習計画書の提出)、「ものすごく達成感がある」と書いていた。シャドーイングしないで聞いていたら何を言っているかわからなかったが、シャドーイングをするようになって段々わかるようになってきた。今も、早くて何を言っているかわからないことがあるが、慣れれば大丈夫!」と書いてあった。嬉しさが漂っていて、こちらも嬉しくなる。

来学期に向けて、また準備を始めなければ…。

2012年1月22日日曜日

ピア・レスポンスをやってみようかな…という気になった!

跡部千絵美(2011) JFL環境のピア・レスポンスで日本人教師にできることとは-課題探究型アクション・リサーチによる作文授業の実践報告- 「日本語教育150号」 

色々忙しかった中で思わず一気に読んでしまった実践報告。
自分がこの著者と同じように、台湾で作文教育の今まさに真っ最中で、さらにピア・レスポンスに興味はありつつも、いまひとつ踏み込めないでいる、という状況…の私に、「これを読め!」と言わんばかりのタイトル、そして内容だった。
実は、もう随分前になるが、ピア・レスポンスを知る前に、似たようなことをやってみたことがあった。しかし、うまく行かず、数回でやめてしまった。
この実践報告、悩んだこと、失敗したこと、成功したこと等書いてあり、読みながら共感することが多かった。特に、学生は「文法の誤用訂正がほとんどで、内容・構成面へのコメントがほとんどなかった」ことは、実際、私も以前経験したことで、やめてしまった理由である。文法の誤用訂正がほとんどで、更に、訂正したほうが間違っていたり、訂正の必要がなかったり(どちらでも構わない)ということばかりで、意義を見いだせなかった。
私がこの実践報告を読んで「すごいなあ」と思ったところ。私の言葉で簡単にまとめてしまうと
内容・構成面へのコメントが少ないのは、そもそも学生がいい内容・構成についてわかっていない可能性がある。なので、内容・構成について考えさせるプリントを作成し、考える活動を行った。次の授業で、内容・構成面についてのピア・レスポンスを行なってくれることを期待していたが、学生には変化が見られず、相変わらず誤用訂正を行なっていた。先週のプリントに沿って話し合うように呼びかけたが、多くの学生は先週のプリントを持ってきていなかった。
脱力…すると思う、私ならここで。そしてあきらめる。でもここであきらめずピア・レスポンスを続けていったのは、本当に「すごい!」の一言だ。とにかくこの著者は、何か問題があると方法を考え、先行研究を読み、実践に改善を加え、1年ピア・レスポンスを続けられた。そのプロセス、試行錯誤等々、参考になるものばかりだ。

また、私が以前から思っていてこのブログにも書いたこと(「いい文章」-自分の価値観)についても書かれていた。
…これは大井(2002)が作文の文化差について述べていたことによるものである。大井(2002)は日本人大学生の英語作文が身近な話題になりがちで、アメリカ人大学生のような客観的で分析的な作文を書けないことを指摘していた。ここから、日本人の私が考える“いい作文”が、台湾人学生たちにとっても“いい作文”なのか疑問を持つようになった。北米でPRを実践した松本(1999)も、教師の考える“いい作文”と学生の考えるものが一致せず、学生の考え方を取り入れた。私も自分の意見を押し付けるべきではないと考えた。
作文の文化差について言及されているものはあったのか…。自分の勉強不足を反省。

来学期、ピア・レスポンスを取り入れようという気になっている。ただ、この論文にある実践だと作文のテーマ数が少なく、私が今やっている授業内容の半分もできない。ピア・レスポンスは学期を通して取り入れるものとして、それにより推敲を重ねて完成させるものと、現行の方法で書いてもらうものとの二本立てで行こうか、というのが今のところ考えられるものだ。今はまだもやもやと考えているだけだが、何よりも、あきらめず、根気強く、試行錯誤を重ねながら、やってみようと思っている。


2012年1月15日日曜日

今どき(?)の音楽事情

学期末、会話のクラスで好きな音楽について紹介するというプレゼン練習を設けた。
 私が知らない曲ばかり、というのは予想していたことだったが、思った以上にそれぞれの音楽の好みが違って、今どきはこうなのか、と感じた。
 クラスの人数は30人弱。同じ曲や同じ歌手でダブった発表がないほうがいいなと思っていたが、特に学生には何も言わなかった。発表を聞いてみると、というよりそれ以前に発表原稿を一度提出してもらった時点でわかったことだが、同じ曲も、同じ歌手もいなかった。歌詞も中文、英語、台湾語、韓国語、日本語(順番に意味はない)と色々ある。発表の中で、少し音楽を聞いてもらう部分があったのだが、聞いてみると、曲の感じも、ゆったりとしたもの、バラード風、ロック風、アニメの主題歌とまたそれぞれ。一人、篠原涼子の「恋しさとせつなさと心強さと」を選んだ学生がいて、うわっ懐かしいと思った。
 発表は、時間の都合もあり一人2分30秒と決めていた。準備の時に、「30秒話して、2分音楽を流し続けるなんてのはだめだからね」と言ったら、どのくらいならいいのか、と聞いてきた学生がいた。学生全体に、「曲を流すのは15秒から長くても30秒程度、それ以上になったら聞いているほうが飽きるから」と言い、「えー」と言われたが、それぐらいでちょうどよかったと感じた。私は一応採点をしながらも、もっと聞きたいなあと思った曲をメモして、結構楽しんだ。

 期末の会話のテストは、学生との1対1で行なったのだが、音楽の話題もその中で触れた。話していて、いい機会だから聞いて確かめてみようと思って学生に聞いた。
「私は、お金を払って曲を買いたいけど、CDは荷物になるので、ダウンロードして買いたい。でも、台湾で、お金払った曲を買えるサイトが見つからない。何か知らない?」
 学生は私の「お金を払いたい」発言にびっくりしていたようだが、学生の中で知っている人はいなかった。
 一つだけ私が知っているのはKKBoxだが、オンラインで聞くものなので、iPodを使っている私には使えない。学生にもKKBoxをあげる人がいたが、iPodのことを話したら「そうですね」とのこと。
 ある学生いわく、お金を払ってまで買いたい人は、ダウンロードだけだと、もしPCが壊れた時に曲も聞けなくなるから、CDを買っておくのではないか、と言っていた。
 台湾の曲を買うにはやはりCDか…。