2011年10月2日日曜日

第二外国語の「日本語」が目指すもの

前に書いた発表討論会でのこと。「日本語自学ハイウェイ構想」の発表の質疑応答で、高校で日本語を教える先生から「ハイウェイ構想をどう高校の日本語に応用していけばいいのか」というような主旨の質問が出た。(何とおっしゃっていたかは、うろ覚え。でもこのような内容だと私は理解した。)
その後も、みんなの自由討論で、「持続的な学習をしていくには…」のようなことを話していたときに、高校の先生や、大学でも第二外国語担当の先生からは、「自分の現場とは離れている」というような主旨の話が出た。(と思う。)
 私は高校で教えたことはなく、先日の発表で高校での授業時間数は60-64時間ぐらいというのを聞き、改めてその時間数だと「何をしたらいいんだろう…」という気持ちになるだろうと思った。すでに書いたが、私も大学の第二外国語で「ここは何をすると考えればいいんだろう」と考えたことがある。

 台湾で日本語を学んでいる学生で、「仕方なくやらされている」という状況はよくある(私の知るところでは)。私の以前の勤務校は「日本語を履修しなければならない」学生ばかりの状況だった。もちろん好きで学んでいる学生もいるが、ずっと「なんでやらされなきゃいけないの」と思っている学生もいる。
実際、「日本語」を勉強しなければならない理由など、ない。履修しなければならない状況に置かれている学生は、学校が開講していたのが「スペイン語」ならスペイン語を、「ドイツ語」ならドイツ語を勉強していたのだろうから、例えば、ひらがな五十音を覚えなければならない理由などない。

私の勝手な思い込みかもしれないが、台湾では外国語はまず英語、そして第二外国語としては日本語がかなり主流であったように思う。二番手の日本語はわりとゆるぎなく二番手だった。先日、高校で教えている教員に聞いたのだが、彼女が教えている高校は今までは第二外国語は日本語だけだったが、新たにスペイン語など他の言語も取り入れられ、教員としての彼女は授業時数が減ることになってしまった。(元々は専任教員だったのだが、授業時数が足りないので専任扱いにはならないとのこと。詳しい事情はよくわからないが、私が高校の教員だったら、かなりあせるような状況だ。)たぶんそういう状況は今後も続いていき、ゆるぎなかった二番手の日本語は、その位置が変わっていくのだと思う。

最初に書いた「自学ハイウェイ構想」を高校の日本語にどう応用していくかであるが、私は大学の日本語主専攻と高校の第二外国語とは、違うように思う。ハイウェイ構想の比喩を借りるのならば、大学の主専攻日本語は運転免許を取得し車でどこかへ移動することが目的であるが、高校一年生(第二外国語は一年や二年次に履修するようになっていることが多いらしい)に、運転免許を取得させることはできないし、じゃあ、全員に原付の免許を取得させようというと、別に原付免許なんていらない(台湾ではそうでもないかも知れないが、日本では)という人も多いだろう。もう少したとえを続けると、そこであり得るのは、たぶん、交通ルールを理解したり、車を運転している人の視点や視界を理解して、自分が歩行者としてや自転車に乗る際に交通事故をどう避けるかなどの、安全教習的なものだと思う。
話を戻すと、高校の第二外国語での目的は、「日本語」を習得することそのものにあるのではないだろう。発表討論会の高校の先生の発表原稿を見ると、高校の第二外国語の位置づけは「培養興趣的科目」(教養科目、興味関心を育成する科目)とある。「興味関心を育成する」と勝手に訳したが、興味関心の育成はなかなか厄介だ(日本の小学校の英語教育の悩みと共通するところがある気がする)。しかし、大事なことは、たとえどんな言語を学ぶにせよ、共通した目標がそこにはあるはずだ。少なくともそういう前提に立たなければならない。
発表討論会の中で引用した 
我々は長いこと「言語」という枠にとらわれすぎていたのではないだろうか。学習の楽しみとは?学習の成果とは何か。
ここを本当に真剣に考える必要があるのだと思う。そしてそれは、どんな外国語でも共通するものであり、そこから、じゃあ日本語の例で考えると…、というのが第二外国語教育なのではないかと思う。

これまた全く知識足らずの可能性もあるが、今は、「大学での日本語教育があって、高校の日本語教育があって…」という繋がりで捉えられている気がする。それもそれでよいが、高校のいろいろな外国語担当の教員が繋がっていく、そこでいっしょに考えていく、という繋がりも必要だと思う。そして、ゆるぎない二番手だった日本語の教員が、今までの蓄積された知恵や悩みを元に、リーダーシップをとっていけたらよいなあと思う。

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