2011年11月3日木曜日

第4回中東日本語教師オンライン研修 「聴解のリソースを増やすには?」

先週の土曜日のこと。私は中東とは関係ないのだが、twitterで流れてきた「聴解リソースを増やすには?」のタイトルにひかれた。ちょうどその時、学生に配る聴解リソースを紹介するプリントの作成中で、私にとって実にタイムリーな内容だった。

第4回中東日本語教師オンライン研修「聴解のリソースを増やすには?」

【追記】
上記の内容はむらログの聴解リソースを増やすには?に概要がある。

ustreamをライブで聞くのは二度目。(前は趣味で伊達公子選手の番組を見た。)twitterでログインはしたものの、ちょっとそこに書くのは遠慮してしまった。
後になって思えば、主催している側の方は、相当やりにくい状況にあると思う。実際の研修会であれば、聞いている人の反応がその場でわかるのだが、オンラインではtwitterなどで反応しないかぎり、聴衆の状況が全くわからない。音が聞こえないなどのはっきりした問題は反応があるが、それ以外について、普通の会場で聞こえるような「へえー」という声や顔がわからないのだから、進める側はやりにくい中手探りでやっていくしかない状況なのだなと思った。

ライブを見ながら、紹介されていくリソースを実際に自分で見て、気づいたことをメモしていった。ustreamは録画で見ると少々かったるく感じることもあるのだが、ライブで見るとそれを感じなかった。日本語能力試験の海外での受験者の聴解部門の得点の低さがグラフ化されていて見やすかった。学生へ聴解の練習を進めるのにも説得力があると思った。紹介されていたリソースは、知っているものもあれば知らないものもあって、参考になった。
どのぐらいの時間だったかは忘れたが、内容も充実していてあっという間に時間が過ぎた。こうやって、遠くにいながら、話を聞くことができたり、途中スカイプのチャットでの話を見たり、参加しようと思えばtwitterで意見を言うこともできる。以前、研修会でスカイプで日本の先生に講演をしていただいたことがあるが、その時も、便利になったものだと感じた。

しかし、後で、「私の聞き方ってどうなの?」と考えてしまった。数年前から学会に行くとPCカシャカシャという風景を見るようになった。私はまだそういうことをしたことがないのだが、なんとなく、雰囲気に違和感を感じてしまう。人の話は顔を見て聞け、的な感覚が抜けないのだろう。
今回は、相手には見えないということもあり、話を聞きながら、話に関係のあることではあるが、いろいろ勝手にやりながら聞いていた。こういうことを続けていくと、実際に話を聞きに行ってもカシャカシャやることに抵抗がなくなるのかもしれない。

話は横道にそれるが、こないだ、ある先生との話で、今の学生はメールの書き方を知らないで先生に対してもきちんとしたメールが書けない、ということが話題になった。その時に、我々の世代(漠然とした我々世代ではあるが)は、書くということが、鉛筆やペンを持って紙を前にして、という日常とは少し違う姿勢をとるので、気持ちも自然と「ちゃんとした」「日常とは違う」ものになっていた。しかし、今は日常の中で書くことが頻繁に行われているので、「書く」ことが日常の一部となり、その延長線上で教員宛てにもメールを書いてしまうから、つい普段の話、のようなものになってしまうのではないか、という話をした。

以前、学生がいわゆる内職をしているのを注意して「でも、ちゃんと聞いてますから。」と言われ、結構びっくりしたことがある。こういう現在のテクノロジーに慣れていくと、「話の聞き方」にも変化が出てくるかもしれない。

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