2010年6月5日土曜日

その言語で何がしたいか

きのう、同僚と仕事について話をしていた時のこと。
私は、外国人の立場で現在の職場(大学)で働いているが、〈中文〉がそんなにできるわけではないので、結局、できる仕事が限られてくる。どこの大学でもそうであるように、業務ではあれこれ書類を書かなければならないが、正式な書類を書く中文能力は残念ながらない。私が日文で書いて同僚が翻訳してというのも可能だが、効率を考えたら、同僚にしてみたら「自分で書いたほうが面倒じゃないし、速い。(同僚に言われたわけではないが、私だったらそう思う。)」ということになって、書類作りなどは、ごくごく限られた範囲でしかしていない。というより、できない。
「このままだと私は職場で永久的に半人前で、それは嫌だけれど、でもそのために頑張って〈中文〉を勉強しようという気にはならないんだよね。」という話を同僚にしたら、「taizはいつも〈中文〉を勉強したいわけじゃないって言うけど、どうして?言語ができれば世界が広がるし、楽しいじゃん」と言われた。
「確かにできるようになるにこしたことはないけれど、私にとって、〈中文〉で書類を書けるようになるというのは、今の能力からはかなり離れているし、とても難しい。そこに到達するためには、すごく頑張らなければいけないし、それに、それ(書類を書くこと)は、私がやりたいことではないし…」と同僚に私の思いを話した。
私は一応今まで〈中文〉ができるようになろうと、それなりに努力をしてきたつもりだ。全く0からだったが、学生とコミュニケーションがとったり、教室内で大勢に向けて説明をしたり、たまには学生を叱ることもある。学内の会議を理解したり、発言したりする。メールは、今、勉強中のところだ。さっさか書きたいが、簡単なことを書くのにえらく時間がかかるし、相手にきちんと伝わっているのかとても心もとない。
そうなのだ。それは、私がやりたいと思ったことなのだ。あまり考えてみたことはなかったが、自分でそうなのだと気がついた。そして、じゃあ、次は?と考えたときに、はて、なんだろう?、私が〈中文〉を使ってやりたいことは?と思ってしまった。
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そこまで考えて、私が今まで学生に「ただ、日本語を勉強するっていうだけじゃなくて、自分の興味のあることを見つけたほうがいいよ。」みたいな意味のことを、安易に言っていたことに気づいた。興味があることがある人は、私なんかが言わなくても、やっているのだ。私がしなければいけないのは、興味を持てることが見つからないことに、「これだったら面白いかも。」と思えるようなことを提供することなのだ。
そうなのだ。こんな当たり前のことに気がつくのに、なんでこんなに時間がかかってしまったのか。反省。

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