2010年5月23日日曜日

あなたが決めるべきこと

ある記事を読んでいて、ふと思った。
ある記事というのは
「フィンランド人の家庭に招かれたときに、これはよくヨーロッパではあるのですが、食後の飲み物はコーヒーにするか紅茶にするかといったときに、日本人はみんな奥ゆかしい方で『どちらでも』と言うんですね。レストランでコーヒーにしますか紅茶にしますかと言われても『どちらでも』と言う人はあまりいないと思いますが、何となく家庭に招かれると相手のことを思いやって『いや、どっちでもご都合のいいほうでいいですよ』と答えてしまうんです。これをやると結構ヨーロッパ人というのは怒るんですよね。要は、あなたが決めるべきことを何で私が決めなくちゃいけないのかということなんです。決定すべきことを任されてしまうことほど嫌なことはないと考えるんですね」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100424/223139/?P=3

私がふと思ったというのは、この中の「あなたが決めるべきことをなんで私が決めなくちゃいけないのか。」という部分だ。
最近は既に慣れてしまったからかあまり感じなくなったが、以前こんなことが何回かあった。
授業にも出てこず、テストも受けていない、或いは、テストだけは受けたが結果が芳しくない、という学生が
「先生、どうしたらいいですか。」
「さあ、授業にも出てこない、テストも受けないじゃ、もうしょうがないですね。」
「先生、何か、課題を出してもらえませんか。」
「ふーん、課題ねえ。どんな課題?」
「先生がいいと思うものなら何でもいいです。」
ここで、私はよく思ったのだ。なんで、授業にも出てこない、テストもできない学生のために、私が課題を考えてあげなければいけないのか。自分が挽回したいのなら、自分で課題を考え、それによって認めてもらおうと思うのが筋ではないか。
以前は、「課題をくれ」と学生に頼まれ、あまりむげに断るのもと思い、「自分で課題を考え、まずそのプランを持ってこい」と言っていたのだが、当たり前かもしれないが、私が満足するような、というより、私が許せるようなプランを持ってきた学生など一人もいなかった。何度がやりとりをするのだが、どうもコミュニケーション不全に陥る。このようなコミュニケーション不全を何度か経験したあと、方針転換し、「なんとなく自分の頭の中で〈こういうのが正解〉的なものがある時はそれをはっきりと提示する。さもないと、学生がワケの分からない状態になる」ということにした。
対症療法的に、こちらの対応の仕方を変えたのだが、「なぜそうなるのか」ということまでは、実は考えていなかった。
それが、今回、最初に書いた記事を見て、「もしかして…」と思ったのだ。私もこの記事の中にあるような、人の家にいって紅茶かコーヒーかを問われたら、「どちらでも」と答える人である。「どちらでも」と答えて相手が不快になったら、意外な気持ちになると思う。それを、上記の学生にあてはめて考えれば、なんだ、同じことなのだ。学生が自分の考えを言わず、私に判断を委ねたのは、教師に対しての礼儀だったからだと考えられる。「余計なことをお願いするのですから、先生の都合のいいようにしてください。」ということなのだ。
そうだったのかも。

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