2012年10月13日土曜日

ディベートと大統領演説とtwitterでの議論

togetter「元桐生市議庭山由紀さん、桐生の女子高生に論破される」を見て思ったこと。

その前に…

ディベートは、議論の様子を見てそれを議論に参加していない人たちが評価するものだ(と私は理解している)が、最初にそれを知った時に、これって何なのだろう??と思った。自分の環境の中で、そういう状況が思い当たらなかった。その後、アメリカ大統領選の候補者討論の様子を見て、「ああ、ディベートはこういうことなのだ」と理解した。そう思うと、私がよく読む翻訳リーガル・サスペンスの中にある、陪審員がいる裁判もなんとなく近いような気がした。だからアメリカではディベートがよく行われている(と聞いている)のかなと思った。
 最近、大統領候補者の討論をテレビで少し見たが、なんとなくではあるが、話し方が見ている人を意識しているような話し方だなと思った。そういうものだと思って見たからそうなのかもしれないが、そう感じた。
 反対に、例えばNHKの日曜討論の議論を見ていると、あまり、見ている人を意識していないような気がする。話している人は、目の前の議論の相手と内容だけに集中していて、その話し方や論点がどう他の人に伝わっているのかは考えていないのではないか、と思う。
 乱暴な言い方をしてしまえば、日本で、少なくとも、私が関わる環境で、「第三の聞き手を意識した話し方」をする機会がないのかなと思っていた。
 そして冒頭に書いた「元桐生市議庭山由紀さん、桐生の女子高生に論破される」。話の内容よりも議論の仕方に目がいってしまうのだが、私から見ると、相手の議論に答えようとしているのに、途中で話をすり替えて中傷とも取れる言葉を使ってしまう元市議はどうかな…と思ってしまった。そして、あ、こういうのって、実は、第三者に見られて評価される議論なのかも、と思った。
 他人の議論を評価することについて。こういうことも実は、練習が必要なのではないかと思う。twitterでは、議論している当事者を中傷する言葉も見られるが、そういうことばかりがtwitter上で展開してしまうのは残念というか、もったいないというか…。ディベートの判定をするには訓練が必要らしいが、そういう訓練が、ディベートの判定のためだけでなく、こういう一般の議論を見る時にも必要なのではないかと思う。

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