2012年7月16日月曜日

理科教育がなぜ盛り上がらない??

原発事故があって、私は理科教育が盛り上がると思っていた。英語では高校や中学の英語の復習本が売られているが、そういうものが理科の分野でも出るのではないか、出たら読みたいなと思っていた。でも、そんなことは起こらなかった。なぜなんだろう?(唯一「リケジョ」という言葉がでてきたぐらいか。)
 私は高校三年の時に「理科Ⅱ」の授業で、原子爆弾の原理を習った。当時、私の学校の「理科Ⅱ」の授業は、担当教師が好きなことをやっていて、同じ学年でもクラスが違えば全く違う内容を勉強していた。私のクラスの「理科Ⅱ」は、かなり不評で隣のクラスが化学の実験を楽しくしているのを見てうらやましいと言っていた人も多かった。でも、私はこの授業がとても好きだった。原子爆弾と、それよりも威力がはるかに大きい水素爆弾のメカニズムを式を書いて説明してくれた。なるほど、と思った。今、じゃあ説明してみて、と言われても私にはできないが(先生、すみません)、あの時学んだことは無駄ではないと思う。よくよく考えれば理解ができる、という経験ができたことが大きい。原発事故報道を見て、「難しい。理解ができない。」と思った人は多いと思うが、私はその高校の体験があるので「ある程度は理解できる教育を受けてきたはず」という思いがあった。高校までに勉強したことですべてが理解できるとも思わないが、勉強したことを土台にして何か資料を読んだりすれば、ある程度は理解できる、理解するためには自分で学ばなければと思った。
 いわゆる理系科目は、難しく敬遠されがちだ。少なくとも私はそんなに積極的に自分で学ぼうとは思わなかった。でも原発事故報道を見て、理科教育はこういうことを理解する基礎のために必要だったんだ、と実感した。そして、それこそ生活に密着し命に関わることが起きたので、理科教育の重要性が叫ばれるようになるのではないかと考えた。だから、理科教育が盛り上がると思っていたのだ。
 私がなんとなく嫌だなと思うのは、とかく理科的なこと(アバウトな書き方だが)だと、「わからない」と簡単に言ってしまえることだ。「そうだよね。難しいよね。」と言って調べもせず、知ろうともしない。そういう姿勢が多いように感じる。例えば、私が高校の頃世界史は必修ではなかったが、今の世の中で高校で習う程度の世界史知識について「知らないよね。わからないよね。」と大手を振って言えるだろうか。言える人もいるかもしれないが、理系科目の「知らないよね。わからないよね。」よりも、多くないと思う。どちらかと言えば、知らないことを勉強不足と思うほうが多いのではないだろうか。
 私が一番最初にこのこと-わからないと大手を振って言ってしまえる-を感じたのは、311の地震後に、Ustreamで原発事故関係の記者会見を見ていた時だ。保安院だったか東電だったかは忘れたが、技術者の人が説明をしていたように思う。その記者会見である記者が「小学3年生にわかるように説明してください」と、怒ったような口調で言った。それを聞いて私はハア???と、逆に怒りを感じた。怒りの内容は色々あるのだが、一番は自分の勉強不足を棚に上げて、相手に「説明しろ」と迫った態度である。こんな発言が通ってしまうのは何かおかしい。日本の義務教育は中学校まであるし、今は大部分の人が高校に行く時代である。学校教育の目的の一つは、オカミの言うことを効率的に理解してもらう基礎を作ることのはずだ。なぜ小学校3年生にわかるように説明しなければいけないのか理解に苦しむ。
今こんなことを書くのは、「ヒッグス粒子のニュースを聞いてウキウキしちゃった!」と笑顔で言ったAちゃんについ最近会ったからだ。Aちゃんは大学で物理専攻の、今だったら「リケジョ」と言われるであろう人だ。「あのニュース見てウキウキする人ってやっぱり少ないのかなあ」などと言いながら、ニュースを見て気になった部分を調べたことや、そこから発展して現在の物理学について知ったことを楽しそうに語ってくれた。その時に二人で意見があったのが、今は、情報は色々あるけれど、情報が多すぎて逆に知識がないとその情報に到達できない。だから、やはり基礎知識の学習はとても重要だということ。そして、Aちゃんに今回の原発事故や原発のメカニズムを理解するために参考になる本を選んでもらって買って帰ってきた。
Aちゃんいわく「放射線量の測定もねえ。ああやって測ってみんながネットにアップしてって…」と何か疑問があるような様子。何が疑問なのか今はさっぱりわからないが、わかるかなと思えるぐらいになれるよう、Aちゃんに選んでもらった本で勉強するつもりだ。

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