2011年2月13日日曜日

敬意表現としての「名前」の使い方(中国語)

 以前からずっと感じていたことなのだが、中文の中では「名前」が敬意表現のように使われている気がする。そのようなことを書いているものがないかネット上で探してみたところ、一つだけ見つかった。
【国ぎわHamster人生@UK】のブログの中の「日本語・英語・中国語の敬語感覚の違い」という記事。
この中に、「中国語にも敬語はある」と書いて、日本語話者が気付きにくいのは、
「呼称」が「敬語の役割を兼ねている所じゃないかな

と書いてある。
この内容、よくぞ私が思っていたことを書いていてくれたと思ったのだが、ここで、私も、私が気付くにいたったできごと、その他観察していて気づいたことなどを書いてみる。

今となっては、もううろ覚えだが、最初にあれ?と思い始めたのは、学生の挨拶の通訳をしていた時だったと思う。かつての勤務校で日本の学生との1週間の交流活動があった。その時に、最後の晩にお別れ会があり、そこで学生が一人一人順番に活動の感想を話す というものがある。学生たちは、日本語で話す人もいるが、中国語で話す学生もいるので、その時には私が日本語の通訳に入っていた。そのお別れ会は、学生だけでなく、校長や理事長等、学校のいわゆるえらい方々も来て、学生たちはそのえらい方々を前に話すのだが、学生たちが話す冒頭は、必ずと言っていいほど、「理事長、校長先生、○○学科主任、○○主任……、みなさん、こんばんは。」で始まる。つまり、そこにいるえらい方々の名前を一人一人言うのである。通訳している私は、最初の学生のはそのまま通訳したが、その後、どの学生も言うので、聞いている日本の学生ももうわかるだろうと思い、その部分は省略していった。

私の感覚では、日本語の場合、一番えらい人は言うが、「○○様をはじめ…」というように、後は省略というのではないかと思う。
それを繰り返しているうちに、これは、こういう言い方をするのが「礼儀」なのではないかと思うようになった。思えば、いろいろなところで、例えば職員の全体会議で誰かが話を始める時も似たような話し方をする。
そう思ってくると気付くことが他にもあって、「おはようございます」も、目上の人に向かっては、例えば「早安」だけでなく、「校長早!」「主任早!」などのように、呼び名が必ずついている。(私はそれまで呼称をつけずに挨拶していたので、気づいた時には、ずーーーっと失礼なやつだったのかと思って、焦った。)

この「おはようございます」については、異文化スタイルを感じる別のこともある。それは、学生が「○○先生!」と元気よく言うので、用事があるのかと思って「何?」というと、特にようがあったわけではなく声をかけた、ということが、よくある。最初はそれがわからず、声をかけた学生も「何?」と答えた私も気まずい思いをしていたのだが、そのうちに、それは単なる挨拶だと気付き、私も「何?」とは応じないようになった。(このことは、上記の「日本語・英語・中国語の敬語感覚の違い」の中にも書かれていて、
「張先生、お早ようございます」の
「張先生」と「お早ようございます」の
どっちか略せって言ったら、略すのは「張先生」の方だよね。
だって
「張先生!」だけじゃ、質問する目的があって
声かけてるみたいに聞えるもんね。

でも、中国語では、そうじゃないの。
「張老師!」だけでも、全然、誤解されない。
それは「挨拶の為に声をかけている」という
「暗黙の了解」が、あるから。
とある。これを読んで「なるほど!」と納得した。「○○先生、おはようございます」というのは長すぎて(実際、ちょっとすれ違う時にもこう挨拶する学生はかなりいる)、それを短くしようとすると、「○○先生」だけになるのだ。ある授業で学生に聞いてみたところ、「○○先生」を省略するのは、失礼な感じがする、という学生が多くいた。「○○〈名前や呼称〉、おはよう!」と言ってしまう企業の人がいたが、日本人駐在員に言わせると「おはよう」じゃなくて「おはようございます」と直したくなるのだが、企業人にとっては、礼儀を持って「○○(呼称)」部分は省略しないでおいたのだろう。

そんなことを気にしながら、日本のドラマの中国語字幕を見ていると、日本語の元のセリフでは呼称がないのに、字幕では呼称をつけている部分というのが目に付く。それを見ながら「ああ、こういうところでは相手の名前を言わないといけないんだなあ」と私は逆に中国語ルールを勉強している。

尊敬の用法だけでなく、謙譲の用法でも自分の名前を言うところがあるようだ。学生のレポートの中に書いてあったのが最初だが、有名人の謝罪会見で、通常なら「私は…」というところを「☓☓〈自分の名前〉は…」を使っているというものだ。学生の意見では、ここは「自分の名前」を使ったことで印象がよくなっている、ということだ。
今、日本の「大奥」のドラマを放送しているが、その字幕を見ても、一人称に自分の名前を使っている字幕がよく出てくる。
「大奥」という歴史物であることや、謝罪会見という固いものなどが例なので、もしかすると、とても正式な格式張った言い方なのかもしれないが、詳しいことはまだよくわからない。

名前つながりで言うと、アメリカ映画などを見ていると、よく初対面で名乗りをする場面がある。それも会話の途中でだ。たぶん、親密さ、相手に接近する、というコミュニケーション方法なのだと思うが、今ひとつ感覚的にわからない。自分がそういう社会に行ったら、いつどんなタイミングで名乗りをするのか、よくわからないだろうな、と思う。

コミュニケーションの中での名前の使い方、まだまだ探求することはありそうだ。

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