2013年7月28日日曜日

クラス観

 「クラス観」という言葉を初めて知った。ブログ【英語教育にもの申す】の「先生の成長4」の記事にあった。
指導案を書くときに、「クラス観」があります。そのクラスはどのようなクラスだとあなたは理解していますか、ということを書く欄です。教えるべき対象をどのように見るかは教師にとって大切だということです。これと同じように、私は教師にとって必要なもうひとつのことは、適切な人間観だと思います。
 私は一応中高の教員免許を持っていて、教育実習やその後仕事をしていた時にも指導案を読んだことはあったのだが、今まで見たことがなかったように思う。でもよく考えれば、このクラス観は誰でも持つものだ。自分の担当するクラスにどういう学生たちがいて、クラスの雰囲気はどんな感じで、どんなクラス活動や練習形態を好むか、頭の中にある「クラス観」に基づいて日々授業計画を練っている。
 人が集まったある集団なら何でもそうだと思うが、その集団の持つ雰囲気はその集団メンバーの振る舞いに大きく影響する。学校や教室で学ぶ/教えることのある種の面白さはそこにある。私が知っている台湾の大学では、高校のように各自が所属するクラスや担任がある。元からあるクラスを単位として授業をする場合、最初はどんなクラスかなと観察したり、他の先生から話を聞いたりする。クラスの中の仲のいい子たちのグループで、仲間割れ等の移動があったりすると、授業だけで接していても結構わかる。そして、それが学生の学習に影響することもよく見ることだ。ライバルと思う学生がいたり、「できる」と思われている学生がいたり、そういうことは、うまく働くこともあれば、人間関係が面倒になってしまうこともあるので、なんとなく心にとめておくようにしている。
 逆に、私が今担当している第二外国語の授業は、まったくの選択性なので、学生同士も初めて顔をあわせるクラスだ。元のクラスの友だちといっしょに受講する学生ももちろんいるが、ほとんどが知らない学生の集まりだ。それでも何回か授業をしていくと、そのクラスの雰囲気というのができあがる。そうするとやはりそのクラスの「クラス観」が私の中にできあがり、それに合わせて授業の計画をある程度たてることになる。その第二外国語の授業は一学期制なので、毎学期メンバーが変わるのだが、前の学期に受講した学生が次の学期も受講するということもよくある。でも、その学生が前の学期と同じかというとそうでもない。まわりのメンバーが変われば、その学生たちも変わるのだ。
 そういうことを何度も経験していくと、教室というか集団というものの面白さ、怖さ、そのなんとも言えない力?を感じずにはいられない。
 「クラス観」を持たないと目の前の学生を見た授業ができないが、ただ、あまり「クラス観」が固定されてしまうとそれも思い込みになってしまってよくない。自分の「クラス観」を更新し続けていく必要がある。指導案に「クラス観」を書く意味は、今思っている自分の中のクラスに対する考えを頭のなかから出して距離をおいて眺める意味もあるのだろう。今まであまり書きだしてみることはなかったが、やってみるのもいいかもしれない。

2013年7月27日土曜日

頼まれた時のNOの言い方【中国語】

 私の個人的な経験からそうじゃないかなあ、と思っていること。いやいや違うでしょ、という説明があったら聞きたい。簡単に言うと、無理なことを頼まれた時に、日本ではその場でNOという。台湾の状況ではとりあえずYESと言っておき、後でできないという。そんな感じだ。
 何かを頼まれた時に、「えー無理、無理」と思うことがあった。一度ならず、よくあった。私の日本語的な感覚だと、頼まれて「はい」と受諾したら、精一杯頼まれたことを達成しようとする。「難しいですがやってみます」的な状況でも同じ。「難しいですがやってみます」でOKした時に、もしできそうもなかったら早めにそのことを相手に伝える。「いやいやどう考えても無理でしょう」と言う時には、理由を説明し、頼まれたことにNOと言い、頼まれごとを受諾しない。
 この感覚が、仕事で中国語を使っている場合、なんか違う。今までの経験では、「えー無理」と思って事情を説明しても相手は納得してくれず、しょうがなく「難しいと思いますよ」と言って承諾し、後で「できませんでした」と言うと、あっさりと「しょうがないね」と言われる。こっちとしては、だから難しいって理由も説明したのに…、あっさりしょうがないというぐらいなら、最初にあんなに頼むな!と言いたくなる。
 ある時は「はあ?」と思うようなことを会議で上司から指示を受け、周りの同僚はその時には何も反対しなかったので、「じゃあ、やるしかないのか」とこちらは覚悟を決め、それこそ徹夜して仕事を仕上げた。でも蓋をあけてみると他の同僚は誰もやっていない。上司は「みんなが難しいというから」と指示内容を緩和し、「でもY-LABOさんはやってくれたから、これはこれで…」私の徹夜はなんだったのか…、と脱力。
 こういう経験を何度も繰り返し、とりあえずYESと言っておくのが相手に対する敬意なのではないかと考えるようになった。頼まれたことにYESと言って「あなたの気持ちを受け取りました」ということを表現する。その場でNOと言ってしまったら、相手の気持を理解しないことになるのではないか。だから、できるできないに関わらず、頼みごとにはとりあえずYESという。やるやらない、できるできないはその後の話だ。
 と考えると逆も同じ。何か頼みごとをして相手がYESと言ったからといって、必ずそれをしてくれるとは限らないということだ。相手のYESは「やりますよ」のYESではなく、「あなたの気持ちはわかりました」のYESだからだ。
 以前、日本の学生との交流活動の時のことだ。日程の最初は台北で過ごすことになっていて、それは日本側が旅行社に頼んでバスや台北でのルートなどを計画し、台湾側はそれに参加するという形式になっていた。。日本側の計画は、時間的にとても無理ではないかと思えたのでその旨伝えたが、「旅行社に話したらOKと言われましたから」と言われたのでそれ以上は何も言わなかった。でも、内心「これ、当日できませんって言われるパターンじゃないかな」と思っていたら、案の定そうだった。行程表に書かれていたようにはできないので「○○と☓☓にだけ行きます」と、当日旅行社の手配したガイドから告げられた。日本側の責任者は「OKと言ったのに…。当日、日程を変更するなんて…」とちょっと不満顔。「こういうこと、よくあるんですよ。まあこれも異文化体験ということで…」となだめることになった。
 台北でどこに行くかは大したことではないのでまだいいが、これが仕事に関わることだったら大変だろう。やると言われたことをあてにし、それに関わるその他の仕事を組んでいたら大元ができない。その他の仕事の計画も狂ってしまう。どこかで聞いたことがあるような、台湾での仕事の不満の原因はここにあるのではないかと思う。
 頭で理解しても、行動がともなうかというとそれはまた別問題だ。断ったあとになって「あ、一応OKって言っとけばよかった」と思ったことが、これまで何度もある。そうは言っても、理解していないよりはいいのだと思う。不満やストレスが少なくなるし、何回かに一回は行動も伴うようになってくる。
 頼まれたら、最初に断らない。最初に断ったらどんな断り方でも「むげに断った」ことになる。相手にOKと言われても「ああよかった」と安心せず、途中で様子をうかがってみる。私の心のなかにある頼まれごとの対処法だ。

2013年7月24日水曜日

日本に行けば日本語ができるようになる-ではない

 しごく当たり前のことで改めて言うことでもないかもしれないとも思うが。
 最近、Facebookに写真をアップしないようにしてるんだ
先日、日本にワーキングホリデーで滞在している卒業生と話をした。その学生の言葉。写真をアップすると、みんなから「いいなあ」と羨ましがるコメントが入る。また、その学生曰く、Facebookの投稿は自慢ととられることも多い。日常生活でいいなと思ったものを写真に収めアップしているだけなのに…。日本での生活は楽しいばかりではない。辛いことも多い。でも、友だちにはそんな苦労は伝わらず、いいなあ、日本にいれば日本語上手になるよね、と思われる。そんなことが積み重なり、モヤモヤした気持ちがたまったのだろう。なんかわかる気がした。
 日本にいれば日本語上手になる。そう思っている人は多い。そんなことはない、というのも結構知られていることだけれど、でも、「日本に行けば…」と思っている人もまだまだ多い。台湾の学生でも「こんなところで勉強しているより日本に行ったほうが早い」と言う学生もいる。そういう学生で、勉強に身が入らない人には必ず言う「台湾にいて日本語がすごく上手になる人もいる。日本に行ってもちっとも上手にならない人もいる。全て自分のがんばり次第。ここで頑張れない人は日本に行っても頑張れないことが多いよ。」
 先の卒業生曰く、「ワーキングホリデーで大阪を拠点としている人は、台湾人ばかりでつるんでいる」。語学留学した日本人が日本人ばかりで固まっていて何をしに留学に来たのか、という批判を思い出す。海外生活で同郷の友人は、情報を得る上でも、心理的なよりどころにするのでも、大事だ。しかし、その友人たちだけで生活してしまうと、自分の生活圏は広がらない。バランスを取るのが難しい。
 日本に留学したのに上手になったのは英語、というのもよく聞く話だ。日本語学校や留学生センターが生活の中心になると、そこで出会うのは外国人ばかり。日本人コミュニティとの接点を作るのは努力がいる。
 大学の授業を取ったとしても、そこで友だちを作るのはこれまた簡単ではない。「トイレでお弁当を食べる」が話題になったこともあるが、大学で友だちを作るのは、日本語の問題だけでなく容易ではないのだろう。「日本人は知り合いになるのは簡単だけれど、友だちになるのは難しい」となんとなく壁を感じたという学生の話もよく聞くことだ。
 コンビニでバイトしても最初のうちは目新しく感じるがそのうち、毎日が同じことの繰り返し。話すことも同じことばかりで自分の進歩が感じられない。レストランのバイトでも多少の違いはあれ、同じだろう。単調な仕事では、単調な言語使用の生活しかない。
 
 とにもかくにも、言葉を使う環境は自分で整えていかなければならない。ふくらみのある生活や仕事があってこそ、言語を使う機会も得られるし、進歩も感じられる。そのためには、それ相応の努力と忍耐が必要なのだ。
苦労してるんだね。ここに来るまで全然わからなかった。
台湾から遊びに来た友だちに言われた言葉だとその卒業生が語った。心に沁みる一言だったに違いない。アルバイト先が見つからなくて日本に来たのは失敗だったかもと思ったことがある。ようやく見つけたレストランのアルバイトは、一歩前進だったけれども物足りなさもあったのだろう。そしてこの間会った時には、ある会社で働いていると言っていた。話を聞いていると、同じ職場の人たちのいろんな裏話を知っていて、聞いていて面白かった。と同時に、頑張って人との関係を築いているのだなと感心した。
ちょっと考えれば、そんな簡単じゃないってすぐわかるのに。
この話題をしている間、ずっと悔しそうな表情をしていた。そうだね。ちょっと考えればわかるかも。でも、あまり考えないで言ってしまうのだ。「日本に行ったから日本語できるようになったんだね」って。だから根気よく周りに伝えていきたい。そして、自分だってちょっと考えればわかることをあまり考えもせず口にして、人をモヤモヤさせてしまっているはず。そんなことにも思いを馳せていきたい。

2013年7月23日火曜日

変わるきっかけ -いつどのように始めたか-

 先学期末のある大学での会話のテストのこと。会話テストは、いつも私と1対1で行なっているが、驚くほど前回までとパフォーマンスが違う学生が数人いた。聞くと、その誰もが、言語交換を始めたと言う。ほー、言語交換の威力はこうもあるのか、と最初は単純に思った。
 この学生たちは2年生で、今回伸びたなと感じた学生は、前はどちらかと言うと話すことが不得意だった学生だ。日本語を話す時は、なにかいつも自分の前にベールが一枚ある感じ。壁を作っているというほどではないが、どこかひいた感じで話していた。それが、テストという一応緊張する状況にもかかわらず、話す姿勢は前と全く違い前のめり。ベールがあるどころか、前へ前へと突き進んでいくように見えた。

 今回、言語交換を始めたという学生の一人に「もっと早く始めればよかったのに…」と言うと
前は自信がなかったから…
と言う答えが返ってきた。
 さらにこの言語交換について聞いてみると、学科の中のある活動がきっかけだということがわかった。その活動は大学院生が授業の一貫として始めたもので、私の理解している趣旨は「授業以外で楽しく日本語を使いながら勉強しようね」というものだ。その大学院生の指導の先生から頼まれ、その活動について授業の時に宣伝をしたものだった。今回伸びたなあと感じた学生たちは、その活動に参加し、その活動を通して出会った人と言語交換を始めたそうだ。

 なるほどね、そうなんだよね、と思った。

 ぐんと伸びたのは「言語交換を始めたから」と思える。確かにそうなのだけれども、「いつ、どのように始めたか」というのが大きく影響しているのではないか、と思う。この大学は日本人留学生も多く、言語交換を既に始めている学生は実は多い。1年生の授業でも、留学生とつながっていこうという取り組みはいくつかしているし、2年生の授業の中でもいくつか行なっている。授業以外にも学科の活動で実践場面はいくつも作られている。言語交換をしたいというだけなら、相手にはわりと困らない環境だ。でも、前は言語交換をしなかった。
 「自信がなかった」でも、たぶん、周りを見ていてあせりも感じていたのだろう。そこへ参加しやすそうな活動の案内があった。勇気を出してか、いやだったらやめればいいやという軽い気持ちでかわからないが、参加してみた。そこで楽しく過ごすことができ、出会いがあり、その流れで言語交換を始めた。今回は自分で一歩を踏み出してみたことが大きかったのではないかと思う。
 つまらないたとえかもしれないが、お見合いではなく偶然を装って二人を引き合わせる…というのとなんとなく似ているなと思った。誰とつきあうかは相手次第、相手がどんな人かが一番大事。でも、どう出会うかが、なんとなく影響してくる。形式的な、会うことが必然的な状況で会うよりも、自分の自然な流れの中で会うほうが、気持ちが前に向きやすい。
 言語交換も同じ。機会はある。でも、教師がお膳立てしたことと、ある程度自主性があるものとでは違う。それがその後の発展に大きく関わる。
 もちろん、お見合いが安心する人もいる。お見合いが嫌いな人は、何度もお見合いをすすめられたからこそ人との出会いを考え、自然な出会いに関わろうとするのかもしれない。自分にできることをやっていくしかない。