2013年3月26日火曜日

日本に旅行に行くなら…

 条件節の「~なら」の練習ではなく、最近、第二外国語クラスの学生に聞かれたこと。「卒業旅行で日本に行こうと思っているんですが、どこがいいですか」「卒業旅行に京都に行こうと思っているんですが、京都でおすすめの観光地とか食べ物は何ですか。」卒業旅行を準備する時期なのだろう、聞かれたのは1人だけではなかった。
 以前なら「そんなこと自分で調べろ!」と口では言わないが、心のなかで思い、ぼやかして答えていた。ただ、ここ数年は、こういうことを言いたくなる気持ちもなんとなくわかると思うようになったので、自分の思うことを答えるようにしている。
 学生が何を思って私に質問してきたのかはわからない。授業で先生に会うしちょうどいいから聞いとこう、ぐらいの軽い気持ちかもしれない。ガイドブックに載っていないようなことを教えてもらいたい、だってせっかく「日本人」に習っているのだから、かもしれない。学生が何を思っているのかは、まあさておいておく。
 このブロクの中でも書いたかもしれないが、学生に直にたずねたことがある。それは、東京に研修旅行に行く事前研修の中で「自分で行きたいなあと思う候補地をいくつかあげる」という宿題を課した時。答えた学生は10人中1人しかいなかった。それで「(怒っているのではなく)本当に理由を聞きたいから聞いているのだけど、なぜ、他の人はどこに行きたいかを考えなかったの?」と聞いた。
 私は個人で旅行するのが好きで、大学生の時に友だちと海外旅行をして、その時に自分たちで色々調べて計画を立てた。みんなもその時の私と同じ大学生だし、私が大学生の時より今はもっといろいろ情報があるのだから、できないことはないと思う。学生にそう告げた。
 その学生たちも単に言われたことを忘れていたのかもしれないし、面倒だと思ってやらなかったのかもしれない。ただ、1人の学生がこう答えた。
 いっぱいありすぎてわからない。
わかるなあ、と思った。逆に考えれば、私が大学生の時なんて、入る情報はたかが知れている。あの「地球の歩き方」と他に何か1冊熟読すればすむことだ。
 初めのほうに書いた「こういうことを言いたくなる気持ち」だが、私が想像するこの気持ち。
いろんな人がいろんなことを言ってるけど、で、どうなの?
 よく言われることだが、情報は多ければ多いほど便利なのではない。ありすぎるとわけがわからなくなるのだ。そういえば、うちの老人がまだわりとしっかりしていた時に、近くのとても大きな文房具売場で黒いペンを買うことができなくなった。たかだか100円ちょっとの黒いペンなのだが、ありすぎて、もうどうしていいかわからない。そう言っていた。ここで、
「書いてみていいなと思ったのを買えばいいんだよ」と言っても、どれを手にとって書いてみるかでまず迷う。「どれでも大して変わらないんだからどれでもいいんだよ」と言っても、そんなに頻繁に買い換えるものでもないし、せっかくだったら書きやすいものが買いたいと思うので踏み出せない。
 旅行も同じだ。「ガイドブックとか他の人が書いたブログとかを読んで面白そうだなと思ったところにすれば?」と言っても、そんなものありすぎてどこから手につけたらいいかわからない。「いいって言うところはどこもいいから、決めちゃえばいいんじゃないの。どこでも楽しめるよ。」と言っても、卒業旅行というゆっくり旅行できる人生最後のチャンスだし、お金も結構かかることだし、そんなどこでも…じゃあ決められない。
 私の言うことなんてたぶん入口にすぎない。だから、今の私が思うことを答える。さらにちょっと気になったのでネットで調べてみると、知らなかったことや忘れていたことを思い出すこともあって、それはそれで面白い。
 ちなみに「日本旅行に行くなら…」の私の回答。「新しいもの好き、買い物好きなら東京。歴史が好きなら京都。自然が好きなら北海道(自分で旅行したことないけど)か長野。」

2013年3月16日土曜日

「総理がおっしゃった」?

  調べ方が悪いのか、これを話題にしているものがネット上で見つけられなかった。でも、私と同じように気になっている人も多いのではないかと思うのだが…。それとも、この「総理がおっしゃった」はそういう言い方が「正しい」のだろうか。
 記者会見などで、主に閣僚が「総理がおっしゃった」と言う。ニュースなどでは、首相は敬語が使われる対象ではない。普通の人と同じだ。だから、どんな場合でも敬語が使われるという絶対敬語の対象ではない。
 感覚的に、内閣が会社みたいな組織で、総理大臣が社長、閣僚は部下みたいなもの。会社の場合、「社長がおっしゃった」は社内では使うだろうが、外向けの場やましてや記者会見では使わないだろう。記者会見などでは、いわゆるウチの人には謙譲語を使うというルールで「社長が申し上げた」という。それと同じと考えると、記者会見という場で閣僚が総理の発言について話すときは「総理が申し上げた」と言うことはあっても、「総理がおっしゃった」というのは変なのではないか。まあ、「総理が申し上げた」というと、内閣はウチ、それ以外はソトと、一般大衆と政治家に大きく一線を引いてしまうような感じがあるので、それは避けてもいいと思う。だとしても、「総理がおっしゃった」ではなく、「総理が話した」ぐらいにしたほうがいいのでは?
 一線を引いてしまうということで言うと、街頭インタビューなどで「総理がおっしゃった」という人は聞いたことがない。(あるのかな?)普通は「総理が言った」と言うのではないかと思う。だとすると、閣僚が「総理がおっしゃった」と言うと、一般大衆と閣僚(政治家一般かもしれない)の感覚が違うことが見えてしまうので、それも一線を引いてしまうことになる。としたら、やはり「総理が言った/話した」と言うのがいいと思う。

2013年3月11日月曜日

新明解国語辞典の思い出

 ライフハッカーの「こんな辞書を待っていた! オモシロ解説が魅力の『新明解国語辞典』アプリ」を見て、高校の時のことを思い出した。
 高校三年生の時に、卒業研究という名目の少し長めのレポートを書く課題があった。私が選んだテーマは「助数詞」。数える時に後ろにつける「~枚」「~本」「~足」などのあれだ。新聞に折り込まれてくるスーパーのチラシなどを見て、せっせと用例を集めていた。解説が書いてある本などもさがしては見たが、助数詞が一覧になっているものがなかなかない。そんな時「新明解国語辞典」のある版の巻末に助数詞の解説か一覧があるということを知った。しかし、その版は古いものなので、行ける本屋を数軒周ったが店頭においている本屋はないし、学校や地域の図書館にもない。
 たぶん、教育母の助言があったんだと思うが、結局私は三省堂に手紙を書いた。「学校の課題でテーマに助数詞を選び調べている。『新明解国語辞典』の○版の巻末に助数詞の解説があることを知ったが、入手できない。申し訳ないがコピーを送ってもらえないか。」そんな内容だ。
 送ってくれるという確信はなかった。たかだか学校のレポートを書きたいという高校生を、大手の出版社が相手にしてくれるとはあまり期待していなかった。送ってくれたらラッキーだなぐらいに思っていたと思う。
 手紙を送ってからどれぐらい経ったころだっただろうか、なんと、三省堂から封書が送られてきた。私の希望する箇所のコピーと、手紙が入っていた。感動した。コピーを送ってくれたことはもちろん、送ってくれるとしてもコピーだけが入っていると思ったら手紙まで添えられていた。一高校生としては、大人に相手にしてもらったことが心の底から嬉しかった。
 高校生の分際でエラそうだが、私はそれまで三省堂を「お手軽な辞書を作る出版社」としか思っていなかった。三省堂の辞書は家に何冊かあったが、何かでもらったものも数冊。三省堂の辞書といえば、持ち歩きしやすいコンサイス。辞書それ自体に愛着を感じるものではなかった。でもそのコピーと手紙の一件で、「私は三省堂を愛そう!」と決めた。
 あれからもうとうに四半世紀を過ぎてしまった。そして「三省堂を愛そう!」の決意もどこかへ言ってしまっていた。決意は別にしても、上記のライフハッカーの記事を読んで、なかなかいいアプリだと思った。このアプリ、買おう!

「安住紳一郎の日曜天国」の笑い

 前回、「安住紳一郎の日曜天国」(にち10)について書いたが、私はこれを聞いて本当に大笑いしている。聞くのは通勤の車の中なので、人目をはばかることなく笑うことができる。以前はいやだった週一の片道1時間半、往復3時間の車通勤も、最近はにち10のおかげで全く苦痛ではなくなった。ちょうど帰宅の時間がラッシュアワーでよく渋滞するのだが、その渋滞も気楽に過ごすことができている。
 聞き始めたのが昨年末なので、以前の放送分もずっと聞いている。すごいなと思うのが、前の放送を聞いてもものすごく面白いことだ。今のお笑い芸人の笑いは、何か決まり文句があってそれを言うとみんなが受ける、という「出た出た」的なものが多いなと思うが、そういう笑いは、時が経ってしまえば全く面白くない。それから、笑いの中にはその時の流行やらニュースやらを使ったものもあって、そういうのもその時ではないと面白くない。古典的な落語とか、完結された一つのストーリーならいざしらず、ラジオで放送されたトークでいつ聞いても面白いというのは、高度なトークなのではないかと思う。
 時事ネタを扱っても面白いと思えるものもある。例えば「北京五輪で気になった10のこと」。気になったことは「レスリングの審判がスーツの割に俊敏だった」のようなものなので、特に北京オリンピックを見ていなくても理解できる。その他「○○選手がお姉さんを呼び捨てにしていてかっこよかった」なんかは、選手自体はその時に有名だったのだが、一般的な話として聞いても面白い。
 なぜ面白いんだろうかと時々考えながら聞いている。私が思う一つの理由は、「細かい」こと。話のネタがとても小さい、些細なこと。そして、その話の説明や描写もとても「細かい」、詳細なのだ。「レスリングの審判がスーツの割に俊敏だった」もそうだ。オリンピックを見て、あるスポーツの審判の服装とその動きなんて、オリンピックの話題にしては針のように小さい。そしてその語り方。これは、語り方の例なのでその時にこう話したかどうかは定かではないが、審判が「こうしてこうやってこう動いて…」と語る。それと比較する自分のスーツ姿も「こうしてこうやって、でもこうするとスーツだと動きづらい」等々、事細かに語る。事細かに語るには、自ずと視点も小さいものになるのかもしれない。
 もう一つうまいと思うのが、「たとえ」だ。ラジオなので、大きさや見た目などを伝えるために「たとえ」を使っていることもあるし、トークの内容の説明に独特の「たとえ」を使っていることもある。
 「詳細に語ること」と「うまくたとえること」。この二つは実は授業の中でも目標とする技術の要素だ。「詳細に語る」は中級の会話や作文で常々言っていることである。「いろいろ」ではなく、具体的に書くこと。「おいしい」や「面白い」という形容詞だけでなく、どうおいしいのか、どう面白いのかを詳細に書くことなど、よく言っている。また、「たとえ」は福嶋隆史氏の本の中に出てくる。
 安住氏は、語りの基本技術を実に上手に実践しているのだな、と思った。