2012年11月17日土曜日

「学校は本来欲望を更新するための場所」

タイトルは、内田樹の研究室-「En Rich」のロングインタビュー-の中に書いてあったこと。なるほど、と思った。
今の学校は教育商品や教育サービスを販売してる「市場」ですから。
先生は売り手で、保護者や子供が消費者。消費者は別にマーケットに何かを学んだり、人間的成長を遂げたりするために来ているわけじゃない。買い物に来ているだけです。
スーパーの入り口から入った消費者が出口にたどりついたときには別人になっていました、ということはありえない。店内に何時間いようと、何年いようと、入り口から入ったときとまったく同一の人物であって、買い物籠の中身だけが増えているというのが消費者です。
市場では消費者の欲望の初期設定は最後まで変わらない。
学校は本来欲望を更新するための場所です。学校に入学するときは、そこで卒業するまでに何を学ぶことになるのかわからない。自分がそんなことを学ぶと思ってもいなかったことを学んで別人になることが教育なんです。
ここで書かれている「欲望」は「学習者のニーズ」という用語で言われることと似ている。「学習者のニーズ」みたいな言い方はもう古びてしまったような気もするが、それでも、どこか生きているように感じる。私自身は、「学習者のニーズに応え」ようと考えていたこともあったが、今は、その考え方にどこか疑問を感じている。

前にも何かで触れたかもしれないが、「外国語教育のリ・デザイン」の本を読んで、その疑問を強くした。(以下引用)
Candelier,M.G. Hermann-Brennecke(1993)が指摘しているように、学習言語の選択は情報の有無で大きく変わる。たしかに何も情報のない環境で「入学後はどの外国語を学びますか」と聞かれたら、「マレー・インドネシア語をやりたい」と答える若者は、ふつうのいまの日本の高校生の中にはいないだろう。しかし入学後に、キャンパスにマレー・インドネシア語学習のコミュニティがあることを知り、仲間の熱のこもった勧誘のことばを聞き、担当教員の言語と文化に対する丁寧な解説を聞き、その言語は東南アジアでは一種のリンガ・フランカとして通用しているということなどを聞けば事情はまったく異なってくるに違いない。したがって何も情報を与えずに学習言語の選択を迫るのは、社会に依存している各言語に対するステレオタイプを助長する以外のなにものでもない。確かにそのほうが事務的には新学期の準備が楽であろう。しかし未来に羽ばたいていく若者の教育現場である大学では、既成の観念を打ち壊し、新しい価値を生み出していくことこそが使命のはずである。(p.33-34)
上記のことは、内田氏の文になぞらえて考えると、「大学に入学したときは、マレー・インドネシア語を学ぶとも思ってもいなかったのに、それを学んだ」ということだろう。それが「新しい価値を生み出す」ことであり、「欲望を更新する」ことだ。
「学習」は「変わること」だとも言う。何かの技術や知識を身につけるのも「変わる」ことだが、「欲望」や「価値観」が変わることのほうが、もっと変わり方が深い。
「学校は本来欲望を更新するための場所」。とても納得する言葉だ。