2011年2月26日土曜日

「そうなんですね」というあいづち

 お店の人とのやりとりで
「そうなんですね」
と言われて、??と思ったことが何回かある。

私は、基本の生活が日本ではなく、年に何回か東京で過ごしているだけなので、お店の人とのやりとりというのもそう頻繁にするわけではない。

この「そうなんですね」、例えば、こないだのやりとりは、

私「明日、友だちの結婚式なんですよ。」
店員「そうなんですね」

私の感覚だと、ここでは「そうなんですか」というところだと思う。
最初にこの「そうなんですね」を言われたときは、変な言い方をする人もいるんだなあ、日本語学習者みたい、と思った。(私の学生は、「そうですか」と「そうですね」が使い分けられない。)

でも、こないだは3回目で、さすがに「変だ」ということではないのではないか、という気になって調べてみた。

ネットで「そうなんですね」を検索すると、この使い方について書かれているものがいくつもある。書かれているのは、私と同じように違和感を感じている人が書いたものだ。違和感を感じている人が多いということは、私と同じ感覚の人が多いということだが、ネットでこれだけ違和感を感じた記述が多いということは、それだけ、この「そうですね」の使い方が多いということでもある。

ネットでいろいろ読んでいて、「ほお」と思ったのが、
発言小町:「そうなんですね」に違和感
違和感を感じるという人からの意見が多いのだが、その中で以下の発言もあった。
私は会社の上司からそのように使うよう教育されました。
特に相手への同調を女性らしく表現するためだそうです。私も使い始めたときは違和感かなりありましたがもう慣れました。
日本語の表現としては正しくないのかもしれませんが、多分使っている人はそう教育されたのだと思います。
ネットで書かれているのは、「店員」に言われたというのが大半であった。なぜ店員ばかりなんだろう?と疑問に思っていたが、これを読んで、納得した。

ただ、店員だけではなく、普通にも使っているという人もいるらしく、上記の発言小町の中でも
『そうなんですね~』は、きちんと相手の話を聞いてますよ。って時の相槌です。
や、
否定でも肯定でもなく。
『そうなんですか』とも『そうなんですよね』とも違う。
相手の言うことをちゃんと聞いてますよ、という感じかな。
という人もいた。

また、
病院で看護師さんなどに使われると、好感が持てます。
私「ここがこうでこうなんです(痛さや症状を説明)」
看護師さん「そうなんですねぇ」
・・あ、伝わった、良かった。

店員さんに言われたことはありませんが、多分、そう嫌ではないと思います。
私は「そうなんですねぇ」は相手を否定せず、自分を押し付けない感じで柔らかくて好きです。
という意見もあり、これを読むと、「そうなんですか」よりも「そうなんですね」のほうが、柔らかい感じがするというのは、なんとなくわかる気がする。

日本語教科書に、この「そうなんですね」の使い方が書かれるのはいつだろうか。

2011年2月16日水曜日

ChinesePod 上司が部下に注意するとき

ChinesePodは、私がよく聞いている中国語のPodcastだ。
その中で、「おお!!!」と思ったものがあった。

「おお!!」の中身であるが、
中高級(upper intermediate)の「getting tough on employees」の会話。上司がどのように部下に注意するか、という会話だ。
私が知っている台湾の日本人駐在員の不満で、「(仕事が)できる/終わらせられる、とずっと言っていたのに最後になってできないと言う。もう少し早く言ってくれれば対処の仕方があるのに…」というのがあるが、この会話もそれに関係していると思われる。
私が驚いたのは、ここまで突っ込んで聞かなければ、部下は「仕事上問題がある」と言ってくれないのか、ということだ。この会話で、上司は何度も「(この仕事を)終えられるか」と聞いているが、部下はそれに対して、簡単に言ってしまえば「できる」と答え、上司が更にしつこく問いただして初めて「実は…」と切り出している。
中国語では、部下の言い方の細かい部分で「何か問題があるな」と感じさせる部分があるのだが、例えば、これを日本語で会話した場合、そんな細かい言い回しができなければ、簡単に「できます」「頑張ります」と言ってしまい、それを聞いた上司は「できると言った」と思ってしまうのではないだろうか。

以下、会話の内容を聞き、日本語だったらこんな感じではないかというのを書いてみた。(中国語部分も私の聞き取りであるので、間違いがあるかも知れない。お金を払ったChinesePodのリスナーなら、ダイアログも見ることができるはず。)

 ChiensePod.com Upper-Intermediate : Getting Tough on Employees

上司: 我現在可以跟你談一談嗎?
(今、話ができるか?)
部下: 當然。
(もちろんです。)
上司: 最近你表現不太好。是不是工作上有什麽困難?
(最近、仕事の状況があまりよくないようだが、何か仕事で問題があるのか?)
部下: 沒有。我覺得可以應付
(いいえ。自分で対処できると思います。)
上司: 上星期你沒有按時完成報告,最近已經連續發生很多次了。是不是工作量太大了?
(先週、時間内に報告を出していないが、最近こういうことが続いている。仕事が多すぎるのではないか?)
部下: 還可以。老闆對不起,我最近有些不舒服,我會盡力的
(いえ、大丈夫です。すみません、最近ちょっと調子が悪かったので。以後頑張ります。)
上司: 你確定嗎?下星期我們有一個很重要的會議,你要準備很多資料,這個星期五能按時完成嗎
(本当に大丈夫か?来週、大事な会議があって、資料の準備がたくさんあるが、この金曜日までに終わらせられるか?)
部下:  應該沒問題
(大丈夫だと思います。)
上司: 我需要一個明確的答案,你到底能不能按時準備好?
(私は確かな答えがほしいんだ。本当に時間内にできるのか?)
部下: un…我一定會盡力的。老闆請放心。
(えっと、絶対頑張りますから、心配しないでください。)
上司: 我不需要聽盡力,我需要你清楚的告訴我,你能完成業務嗎?是不是有什麽困難,我能夠怎麼幫助你
(頑張るという言葉を聞きたいのではないんだ。はっきりとできるかどうかを聞いているんだ。何か問題があるのか?何か手助けが必要なことがあるか?)
部下: 老闆,其實有一個部分我不太會做,所以拖了很長時間。
(実は、ちょっと私があまりうまくできないところがあって、それで時間がかかっています。)
上司: 下次有在這種情況,你必須直時告訴我,我可以提供你需要的資源。就算你不能完成工作,我也擬願聽實話。不要聽模糊的回答。從現在開始你一定要注意這點,好嗎?
(今度こういうことがあった場合は、私にすぐはっきりと言うんだ。必要な手助けをするから。時間内にできないならば、 そう言ってほしい。あいまいな答えはいらない。今後このことに注意してくれ。)
部下: 我知道了。我會改進的、謝謝。
(わかりました。改善します。)

ChiensePod.comは、会話の後に解説があるのだが、今回は解説も興味深かったので、役立つと思われるところを書きだしてみた。

○このような状況の場合、上司は部下を尊重しつつ、しかし、言いたいこと、伝えたいことは、はっきりと言わなければならない。アンダーライン部分は、上司が部下にプレッシャーを与える表現方法。

○部下の答え方
・我覺得可以應付(青文字)
 この表現 から、既にこの部下は何か困難を感じていることが感じ取れる。「應付」という言葉には、簡単にはできないというニュアンスが含まれている。(I can cope ~)
我會盡力的(青文字)
 ここからも、この部下が何らかの問題を抱えていることがわかる。
應該沒問題(青文字)
これも不確定だということを察することができる。

○上星期你沒有按時完成報告,最近連續發生很多次了。(緑文字)
これを聞いた部下は、「上司に叱られている」ということを感じる。

○この上司はわりとよい上司である。上司によっては怖い威圧的な人もいるが、この会話の上司は「是不是工作量太大了?」のように部下への気づかいを示している。

○解説によると、「中国文化ではあいまいに話す」という。
(こういう場合は、あまり直接的には言わないということだろう。)

○上司の言葉「我需要一個明確的答案,你到底能不能按時準備好。」

「需要」でかなり強調されている。「到底」という言葉からは白黒はっきりさせたい、曖昧さはいらないという気持ちがわかる。

○上司の言葉「是不是有什麽困難,我能夠怎麼幫助你?」
部下に機会を与え、部下を気遣っていることを示す。こういう場合には、よい言い方。よく使われる。

○上司の言葉「從現在開始你一定要注意這點,好嗎?」
それまで少し厳しい口調になっていたが、最後にこう言うことによって、会話を和らげて終結させようとしている。


ChinesePod.comは上海の番組なので、それをそのまま台湾文脈に置き換えることはできないかもしれないが、それでも、かなりの参考にはなるだろう。また、これはあくまでも語学教材なので、本当の会話ではないのだが、語学教材は「あってもおかしくない」会話を作っている。だからこそ、びっくりする。
上司の「できるのか?」という質問に対して、部下は四回も「大丈夫」と答えている。四回だ。部下の「大丈夫」を聞いて怪しいなと思っても、二回は聞き返すかもしれないが、さすがに四回も「大丈夫」と言われたら、私だったら、それ以上追及しようとは思わない。
私が感じたのは、上司はかなりはっきりと明確に、何が必要か、何をしなければならないか、どうしてそうなのかということを言葉で具体的に話している。「それじゃだめ。」「次からは気をつけて」だけではいけないということだ。そして、「困っているなら力を貸す」というような相手への気づかいも忘れてはいけないし、プレッシャーを与えた会話の最後は、和やかに終結させたほうがよい。

普段ChinesePodの会話は、一度しか聞いていないのだが、これは何度も聞いている。何度聞いても、四回はありえない…と思ってしまう。

2011年2月15日火曜日

文化と会話スタイル 多文化社会・オーストラリアに見る異文化間コミュニケーション

文化と会話スタイル―多文化社会・オーストラリアに見る異文化間コミュニケーション (言語学翻訳叢書)



○○語の「謝罪」「断り」という捉え方と、それを教えることによってステレオタイプを強化してしまうことの折り合いをどうつけようか、と悩んでいたところに、運良く手にしたのがこの本である。

〈序章より〉
本書で主張するのは、英語の授業においては、異なった言語には異なった文化的価値観が内在していること、その価値観は言語を形作り、言語に意味をもたせ、コミュニケーション・スタイルを含めたさまざまな行動に影響を与えるものであることを明確に学習者に伝えなければならないということである。(p.4)

〈第3章より〉
文化的価値観は絶えず変化しているので、このようなつかみどころのない概念を枠組に当てはめたり、もそのさしの上に並べたりすることにはたしかに問題や危険がある。研究の検知からは、文化をそれぞれ別々に研究して説明するのが理想的であるのだが、語学の授業や異文化トレーニングで、民族中心主義的考えを減らし異文化に関する知識やスキル獲得を目的とする場合、そのような知識は百科事典のような膨大な情報になりすぎて実用には向かないし、使い勝手も悪い。実用目的には、他の人の行動や伝達の意図を解釈する何か大きな枠組が必要なのである。人々が他の人の文化的価値観を知らないと、自分たちの価値観に従って他の人の態度や話し方を評価してしまい、意図しない誤解や敵対心が生まれる可能性もある。大きな枠組があれば、マクロレベルの枠組でとらえた価値観をミクロレベルの実際のことばのやりとりに応用することができる。(p.26)
〈第9章より〉
…、英語教師が学習者に英語母語話者が好むコミュニケーション・スタイルを教え練習させる目的は、英語母語話者モデルの押しつけではなく、学習者が必要に応じて、英語母語話者式のコミュニケーションをしたいと自分で判断した時に、それができるような能力をつけてやるところにある。さらにそれは教師自身もまず異文化間コミュニケーション能力を学び、練習擦る必要があることを意味する。(p.228)

同化か否かという問題は、異文化間コミュニケーションのスキルを教えることよりもっと根本的なものであり、教師のジレンマに答えを出すのは難しい。英語文化のコミュニケーション能力を教えるということの究極の目的は、社会で優勢の基準に押し込めることではなく、第二言語および二分化併用を促進することであり、その学習は減算でなく加算でなければならない。学習者は、母語式か英語式か、どちらのコミュニケーション・スタイルをとるか自ら選択できるように、知識とスキルを与えられなければならないということである。(p.236)

この本の中のデータは、オーストラリアで第二言語としての英語コースを履修している非英語母語話者と英語母語話者による会話データである。この英語コースでは、異文化間コミュニケーションやオーストラリの職場や大学で好まれるコミュニケーションのタイプについても扱っている。
会話データから、会話で表れている会話参加者のそれぞれの文化的価値観、会話の展開方法、ターン・テイキングが詳細に解説されている。さらに、異文化間コミュニケーショントレーニングの資料があり、具体的にどうしていくのか、という方法が示されている。

会話データの中の会話例を違和感なく読み進めたあとで、これは「最初に話題の背景を述べ後になって結論を述べる」という話し方のスタイルであり、わかりづらいと思われたり、ポイントがなく最後まで話をさせてもらえない可能性がある、という解説があった。違和感なく読み進めていた私は、なるほど無意識にこういう話の展開のさせ方をしていたのだと納得した。

最後の補遺の異文化間コミュニケーショントレーニングの資料は、当然、オーストラリアの英語圏を前提にしているので、それを私の生活圏の文脈にそのまま持ち込むことはできない。しかし、こういうことをやっていきたいと思っていたし、日本語教育関係でもこういうものがないのだろうか、なければ作っていかなければいけないと思った。


ひつじ書房のこの種の本を読んだことのある人には、装幀からすぐわかるように、この本は言語学研究の翻訳物である。
実は、この本を読み始めた時に同僚に「面白いよ」と見せたら、「え、それって…」と彼女の本棚の中から数冊このシリーズの本を取出し、「院生時代にこのシリーズの本を何冊も読まされ、読みにくくて苦しんだ…」と、ちょっとした拒否反応を示していた。私もそんなに翻訳の研究書を読むのは好きなほうではないが、この本は苦もなく、むしろ逆にぐいぐい引き込まれるように読んでいった。もし、同僚以外にも装幀を見てこの本を手に取ることを躊躇している人がいるなら、是非一度開いて見ることを勧めたい。

2011年2月13日日曜日

敬意表現としての「名前」の使い方(中国語)

 以前からずっと感じていたことなのだが、中文の中では「名前」が敬意表現のように使われている気がする。そのようなことを書いているものがないかネット上で探してみたところ、一つだけ見つかった。
【国ぎわHamster人生@UK】のブログの中の「日本語・英語・中国語の敬語感覚の違い」という記事。
この中に、「中国語にも敬語はある」と書いて、日本語話者が気付きにくいのは、
「呼称」が「敬語の役割を兼ねている所じゃないかな

と書いてある。
この内容、よくぞ私が思っていたことを書いていてくれたと思ったのだが、ここで、私も、私が気付くにいたったできごと、その他観察していて気づいたことなどを書いてみる。

今となっては、もううろ覚えだが、最初にあれ?と思い始めたのは、学生の挨拶の通訳をしていた時だったと思う。かつての勤務校で日本の学生との1週間の交流活動があった。その時に、最後の晩にお別れ会があり、そこで学生が一人一人順番に活動の感想を話す というものがある。学生たちは、日本語で話す人もいるが、中国語で話す学生もいるので、その時には私が日本語の通訳に入っていた。そのお別れ会は、学生だけでなく、校長や理事長等、学校のいわゆるえらい方々も来て、学生たちはそのえらい方々を前に話すのだが、学生たちが話す冒頭は、必ずと言っていいほど、「理事長、校長先生、○○学科主任、○○主任……、みなさん、こんばんは。」で始まる。つまり、そこにいるえらい方々の名前を一人一人言うのである。通訳している私は、最初の学生のはそのまま通訳したが、その後、どの学生も言うので、聞いている日本の学生ももうわかるだろうと思い、その部分は省略していった。

私の感覚では、日本語の場合、一番えらい人は言うが、「○○様をはじめ…」というように、後は省略というのではないかと思う。
それを繰り返しているうちに、これは、こういう言い方をするのが「礼儀」なのではないかと思うようになった。思えば、いろいろなところで、例えば職員の全体会議で誰かが話を始める時も似たような話し方をする。
そう思ってくると気付くことが他にもあって、「おはようございます」も、目上の人に向かっては、例えば「早安」だけでなく、「校長早!」「主任早!」などのように、呼び名が必ずついている。(私はそれまで呼称をつけずに挨拶していたので、気づいた時には、ずーーーっと失礼なやつだったのかと思って、焦った。)

この「おはようございます」については、異文化スタイルを感じる別のこともある。それは、学生が「○○先生!」と元気よく言うので、用事があるのかと思って「何?」というと、特にようがあったわけではなく声をかけた、ということが、よくある。最初はそれがわからず、声をかけた学生も「何?」と答えた私も気まずい思いをしていたのだが、そのうちに、それは単なる挨拶だと気付き、私も「何?」とは応じないようになった。(このことは、上記の「日本語・英語・中国語の敬語感覚の違い」の中にも書かれていて、
「張先生、お早ようございます」の
「張先生」と「お早ようございます」の
どっちか略せって言ったら、略すのは「張先生」の方だよね。
だって
「張先生!」だけじゃ、質問する目的があって
声かけてるみたいに聞えるもんね。

でも、中国語では、そうじゃないの。
「張老師!」だけでも、全然、誤解されない。
それは「挨拶の為に声をかけている」という
「暗黙の了解」が、あるから。
とある。これを読んで「なるほど!」と納得した。「○○先生、おはようございます」というのは長すぎて(実際、ちょっとすれ違う時にもこう挨拶する学生はかなりいる)、それを短くしようとすると、「○○先生」だけになるのだ。ある授業で学生に聞いてみたところ、「○○先生」を省略するのは、失礼な感じがする、という学生が多くいた。「○○〈名前や呼称〉、おはよう!」と言ってしまう企業の人がいたが、日本人駐在員に言わせると「おはよう」じゃなくて「おはようございます」と直したくなるのだが、企業人にとっては、礼儀を持って「○○(呼称)」部分は省略しないでおいたのだろう。

そんなことを気にしながら、日本のドラマの中国語字幕を見ていると、日本語の元のセリフでは呼称がないのに、字幕では呼称をつけている部分というのが目に付く。それを見ながら「ああ、こういうところでは相手の名前を言わないといけないんだなあ」と私は逆に中国語ルールを勉強している。

尊敬の用法だけでなく、謙譲の用法でも自分の名前を言うところがあるようだ。学生のレポートの中に書いてあったのが最初だが、有名人の謝罪会見で、通常なら「私は…」というところを「☓☓〈自分の名前〉は…」を使っているというものだ。学生の意見では、ここは「自分の名前」を使ったことで印象がよくなっている、ということだ。
今、日本の「大奥」のドラマを放送しているが、その字幕を見ても、一人称に自分の名前を使っている字幕がよく出てくる。
「大奥」という歴史物であることや、謝罪会見という固いものなどが例なので、もしかすると、とても正式な格式張った言い方なのかもしれないが、詳しいことはまだよくわからない。

名前つながりで言うと、アメリカ映画などを見ていると、よく初対面で名乗りをする場面がある。それも会話の途中でだ。たぶん、親密さ、相手に接近する、というコミュニケーション方法なのだと思うが、今ひとつ感覚的にわからない。自分がそういう社会に行ったら、いつどんなタイミングで名乗りをするのか、よくわからないだろうな、と思う。

コミュニケーションの中での名前の使い方、まだまだ探求することはありそうだ。